第10話 予兆をもたらす者④

 時は遡る。


 月が雲の向こうからぼんやりと光を放っている頃。

 坑夫たちは銀の谷復旧の作業に追われ、疲れ切った身体を休めていた。

 急ごしらえの小屋の一つで、ミリは身体を丸めていた。隣ではテルが寝息を立てている。一日を砰山の土砂の運び出しと、弔いに費やしたテルは、涙こそ流さなかったが重いため息を何度か漏らしていた。


 ミリは眠る気になれなかった。ここ数日、いろいろなことを考えた。この銀の谷には、死んだ者も含めて、年齢、性別、人種を問わず様々な人間がいた。ミリのように異邦の者も多かった。彼らは同じように奴隷として連れてこられたり、罪人として服役しているのだという。

 では、テルは? 

 テルは朱瑠アケル人だ。勿論この谷には朱瑠アケル人も多くいたが、彼らとテルは、どこか違うような気がした。


 そう、たとえばテルは文字の読み書きができる。

 このような場所に放り込まれる朱瑠アケル人は、たいていが社会の最底辺に属する貧困層で、読み書きを知らぬ者がほとんどだった。だが、テルは時折地面に何かを書いては物思いにふけっていることがあり、ミリがのぞき込むと、そこには難しい文字が列をなしていた。何をしているのかと問うと、「なんでもないよ」と笑って文字を消してしまうが。

 テルが銀の谷にいる理由はなんだろう? 


「眠れないのかい?」


 ミリがみじろぎする気配で目を覚ましたテルが、声をかけてきた。


「うん、ちょっと」


 まさかテルのことを考えていたとは言えず、ミリは口をもごもごさせた。テルはそんなミリを見て何を思ったのか、尋ねる。


「ミリの母さんだったら、こういうときどうしてたかな」

「えっと、お話してくれた……かな」


 行商人であり、吟遊詩人でもあった母は、実にたくさんの物語を知っていた。異国の王子と姫の恋物語に、妖怪を倒す若者の冒険譚。ミリは母が話してくれる昔話が好きだった。


「話、か」


 テルはしばし考えるふうだった。ややあって、口を開く。


「昔、あるところに三人きょうだいがいたんだ。彼らは仲が良くて、優しい母さんと一緒に暮らしていた」


 ミリはテルが語り出したことに少し驚きながら、耳を傾けた。

 ある日、きょうだいの一番上が、母を殺し、二番目のきょうだいも傷つけてしまう。一番上はなぜ自分がそんなことをしたのか、見当もつかなかった。気づいたときには、目の前に血を流して息絶えた母と、怪我をしたきょうだい。そして己の手に握られた刃物。

 命を奪った代償に、一番上は呪いにかかった。呪いはその者からあるものを奪った。


「それはなに?」


 ミリが問う。


「呪いはね」


 テルが言った。


「一番上の身体から、性別を奪ったのさ」


 ミリの心臓はどきどきしていた。


「それで……どうなったの?」

「どうもならない。ただ、きょうだいはバラバラになった。それで終わり」


 寝る前の話としては、あまり面白くなかったかな、とテルは苦笑した。


「明日も早いし、もう寝よう」


 そう言うと、テルは目を閉じ、まもなく寝息を立て始める。

 ミリも目を閉じたが、眠りにつくまでにはしばらくかかった。


 性別を奪った……性別を奪った……性別を奪った……


 その言葉が脳裏を何度も行き来する。ミリはまだ、テルが男なのか女なのか分からないでいた。周りの者も知らぬようで、テルのことを「彼」と言う者も「彼女」と言う者もいた。中には、聞かれてもいないのに、「元は男だったが、あれを切り落とされてあんなふうになってしまったのだ」と、下卑た顔で言う者もいた。


「あまり詮索しなさんな」


 タズ爺はそう言っていた。

 もしかしてさっきの話は本当で、それはテルのことで――だとしたら、テルは自分の母親を殺してしまったのだろうか? その罪を負って、銀の谷に? そして、その身体からは性別というものが失われているのだろうか? 呪いとはいったい?

 荒唐無稽にも思えたが、ミリにはただの作り話には思えなかった。


 明け方、ミリはぱちっと目を開けた。空がようやく白みはじめたころだった。

 隣ではテルがもぞもぞと身動きし、身を起こした。


「なんだろう」


 テルが言う。


「なんだか妙な感じがする」


 二人は顔を見合わせ、ゆっくり立ち上がると、小屋の外に出た。

 山の縁が白く光っている。空は紺青色で、紫色の雲が細くたなびいていた。夜明けのわずかな光を受けて、地面できらきらと輝くものがある。微細な銀の粒子が土に交じり、夜光虫のように光を発しているのだ。


 二人の目の前に、黒い人影が佇んでいた。こちらに背を向けている。坑夫の誰かが先に起き出したのかとミリは思ったが、どうやらそうではなさそうだということを察した。

 というのも、その人物の輪郭がぼんやりとかすんでいたからだ。

 ミリは怯えて、テルを見上げた。テルが静かにミリを見返す。

 気をつけて。この世の者ではない。

 テルの瞳がそう語っていた。

 人影は妙な形をしていた。よくよく目をこらして見ると、羽根飾りのついた兜に、この国のものではない衣をまとい、腰には剣がつり下がっている。

 人影がゆっくりと振り返る。その顔を見たとき、二人は同時にびくりと身体を震わせた。

 その者の顔面は黒いもやに覆われていたのだ!

 あるいは漆黒の穴がぽっかりと口を開けたようだった。


「……何者だ」


 警戒するテルの問いに、人影はない口を開く。


『私は予兆をもたらす者』


 その言葉は暗黒の彼方から響いてくるかのようだった。まるで砕いた黒曜石をさらさらと奈落へこぼすかのような、ささやきに似た奇妙な声。


『じきに破滅が訪れる』


 その者は告げ、見えない瞳をテルへと向けた。その瞬間、テルがうめき声をあげて膝から崩れ落ちる。


「テル!」


 テルは歯を食いしばりながら、両眼を手で覆っていた。


「どうしたの? 痛いの?」


 ミリはそばに膝をつき、テルの顔をのぞき込む。すると、目をおさえているテルの指の隙間から、たらりと血が垂れてくるではないか。


「やめろ」


 テルがうなる。


「私に変なものを見せるな」


 ミリはおろおろした。テルが瞳から血を流している。いったいどうしたら?


『苦しみから逃れたくば――』


 影は言った。


『さだめを受け入れよ』 


 その言葉を最後に、影はふっとかき消えたが、不吉な気配は残留する。ミリはテルがゆっくりと手を両目から離すのを見て取り、恐る恐る声をかけた。


「テル、大丈夫?」

「――ああ。もう平気だ」


 テルは立ち上がり、袖で血を拭う。


「い……今のは、何?」

「分からない」


 拭いきれない血の跡が、テルのこわばった表情を不気味に際立たせている。


「鉱山に住むおばけかな」


 冗談めかして言うが、その顔のせいで効果はない。

 そのとき、遠くから地鳴りのような音が響いてきた。


「また地震?」

「――いや」


 その音は、地の底から響いてくるものとちがい、まるで無数の足が地面を踏みならしているかのような音だった。それが馬蹄の音だと気づくのに、ふた呼吸ほどかかる。


「なんだ?」


 テルは音のするほうへ顔を向けた。

 銀の谷が襲撃を受けたのは、それからまもなくのことだった。

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