第9話 予兆をもたらす者③
「兄上? ナナクサです。入ってよいですか」
秘書官がぶーっと茶を吹き出す。
「あっ申し訳ございません……」
秘書官はあわててこぼした茶を布巾で拭った。
タケルヒコは呆れかえった。
「妹よ、入ってから問うものではないぞ」
「廊下が寒くて」
ケホケホと一の姫は咳き込んだ。
「それに、会議の部屋の空気が埃っぽかったものですから、少し具合が」
「ならば自分の部屋でゆっくり休めば良かろうに」
「用事が済んだらそうさせていただきます。兄上にこれをお渡ししておこうと思いまして」
ナナクサは腕にかかえた紙束を、皇太子の机の上に広げた。大量の手紙である。
「私が大の文通好きというのは、兄上もご存じですね?」
「ああ……」
「私の文通相手は、諸国の知識人たちです」
タケルヒコは渡された文書に目を落とし、差出人の名を見る。多くが朱瑠に留学し帰国した研究者や、名著を記したとされる大家たちだ。
中身をちらりと読んで、タケルヒコは驚いた。なんと、北方の各氏族の勢力図についての議論が、手紙のやりとりでなされていたのである。
「そなた、こんなものをいつのまに」
「趣味です。兄上なら、お役に立ててくださるのでないかと、思って」
言いながら、彼女の身体がかしいでいく。タケルヒコは妹を抱き留め、「侍医を」と言う。
「すぐに」
秘書官は廊下に飛び出して行った。
「あまり無理をするものではないぞ。元気そうに装っているが、ユズリハの一件以来、心労が溜まっていたのであろう」
「兄上はなにもかもお見通しですね」
タケルヒコは妹を自身の椅子で休ませた。熱を出しているのか、身体が火照っている。額に手をあててやると、気持ちよさそうに目を閉じた。
昔のことを思い出す。幼い頃から病気がちだったナナクサは、熱を出す度にあつい、くるしいとべそをかいた。けれどタケルヒコが手を顔にあててやると機嫌が直ったものだ。それ以来、ナナクサは兄に手をあててもらうと喜ぶようになった。だから、タケルヒコはたとえ妹が熱を出していないときでも、彼女が悲しそうにしていると、こうして手を当ててやるのだった。
タケルヒコには、妹が身体のことではなく、もっと深いことで悩んでいるように見えた。そしてそれは実際に、ナナクサが長年抱え続けてきたものであった。
いかな賢き姫といえど、どうにもならない問題。それは小さな棘のようなものだったけれども、ナナクサは木の根のように深く思慮し、心身の均衡を保ちつづけてきた。しかし今日、ささいなきっかけでその天秤が揺れている。
「兄上。少し……聞いてくださいますか」
ナナクサはおもむろに言った。タケルヒコは「うん」とうなずく。
「御所には、私の居場所はないように思います。とくに、彼らと文のやり取りをすればするほど、そういう考えが頭を占めるのです」
姫は、みずからが持ってきた文の山を見やる。
「この世界は広いのに、私の世界はこの台地の上にしかないのです。それも、決して思うようにいかない。私は彼らのように、遠方の図書館へ赴いてみたり、知らぬ土地でそこに住む人の話を聞いてみたり、珍しい草花や動物を調べたり、そんなことをしてみたかった。ただ
そう思うと、なんと虚しいことだろうか。
「そなた、アキツキ叔父上の言葉を気にしておるのか」
兄に問われて、ナナクサは曖昧に微笑む。
「兄上は私のことを認めてくださる。しかし余人にとってみれば、私は数多くいる姫の一人に過ぎません。そのことを思い知らされたような気がして。勿論、最初から私も承知していたことですが」
ナナクサは文の一つを手に取り、広げた。
「私は、せめて勉学だけは誰にも負けるまいと、多くのことを学びました」
幸い、病がちで部屋に籠もっていることの多いナナクサには暇がたっぷりとあった。時間と体力の許す限りの書物を読み漁り、疑問に思うことがあればその筋の専門家に文を書き送った。
「将棋だったら父上や将軍たちよりも強い自信がありますし、他国の書物を翻訳できるだけの言葉も覚えました。ですが、そんな私は誰にも必要とされていないのですよ」
ナナクサが長年伸ばしてきた根はありとあらゆる知識を吸いあげ、実った果実は英知の旨味をたくわえる。けれどもその実は、誰にも気付かれることなく、腐って土に還るばかり。
タケルヒコは妹の肩を抱いた。
「ナナクサよ、そなたの頭脳は、いくたびも私に優れた助言をし、助けてくれた。我が妹ながら、私よりも皇太子にふさわしいやもしれぬ」
「兄上」
「だが、そなたは姫だ。この国では姫は皇太子になれぬ。ならば」
タケルヒコは妹の顔をのぞき込み、瞳にあたたかな色を浮かべた。
「私が帝となったあかつきには、そなたをもっと自由な気風の国に嫁がせるか、あるいはこの国の宰相に任じようぞ」
「――そんな約束を、軽々となさるものではありませんよ、兄上」
ナナクサは弱々しく微笑んだ。
そのとき、トントンと再び扉が叩かれた。侍医が駆けつけてくるには少し早い。
すると、部屋の外から「私だよ」とミズワケの声がした。
「叔父上。どうぞお入りください」
タケルヒコが扉を開け、ミズワケを招き入れる。
彼は大きな荷物を抱えてそこに立っていた。
「叔父上、それはいったいどうしたのです」
「いやなに、私からの贈り物だ。大変な事態になったが、少しでも気が紛れればと思ってね」
ミズワケが持参したのは、大きな鳥かごだった。中には鳥が一羽、入っている。
「昨日、禁苑に舞い降りたのを捕まえたのだ。ごらん、この美しい姿を」
それは朱雀と呼ばれる霊鳥であった。燃え立つような赤い翼に、黄金色に波打つ腹。黒曜石のような瞳は緑で縁取られ、頭の飾り羽は王者の冠のごとし。そして優美な長い尾羽。
タケルヒコもナナクサも、その貴重な鳥に見入った。
ミズワケは言う。
「アキツキ兄上はああ言うが、このようにめでたい吉兆も現れている。気に病むことはない」
「叔父上……感謝します」
タケルヒコは頭を下げた。
ミズワケは微笑み、今度は懐から巻物を取り出す。
「これは一の姫に。体調がすぐれないようだが、大丈夫か?」
「ええ叔父上、少し休めば元気になります。それで……これは?」
「珍しい書物を手に入れてね。カミル州国に伝わる古い経典だ。私も少し目を通したが、非常に興味深い。ナナクサはこういうのが好きだろうと思ってね」
「ありがとうございます」
ふと、ミズワケの視線が机の上に向き、そこに山と積まれた手紙に気がついた。
「これは」
「ちょうど良かった。叔父上にもご意見を賜りたいのです」
咳き込みながら、ナナクサが言う。
「私が長年文通して集めた、北方大平原の情報です。今回の件に役立つかどうか」
ミズワケは手紙をいくつか手に取り、中身をさっと読んだ。ややあって、口を開く。
「これは素晴らしい。普通なら間者を放って調べるようなことが、事細かに書かれている。きっと役に立つだろう」
「良かった」
ナナクサは笑みを浮かべた。
そこへ、アスマが侍医を連れて戻ってくる。
侍医は慣れた様子で一の姫を診察し、風邪でしょうと言った。
「薬を処方して、のちほどお届けします。どうぞお身体をお休めください」
「では、私は一の姫を部屋まで送り届けよう」
ミズワケは数人の女官を呼び、ナナクサを支えさせた。
「では、失礼するよ」
ミズワケはナナクサとともに部屋を出る。
しんと部屋が静かになったところで、不意に朱雀がピイと澄んだ鳴き声を上げた。タケルヒコはその鳥を見やる。
「さて、これからひと仕事だな」
ナナクサを彼女の部屋まで送り届けたミズワケは、帰りしな、つぶやいた。
「惜しいな。あれほどの才知がありながら、男でないとは。まったく、実に惜しい。……本当に」
ミズワケは苦笑ともただの微笑みともつかない微妙な表情を浮かべながら、その場を後にした。
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