第8話 予兆をもたらす者②

「なるほど、しからば」


 帝の目がすっと細くなった。眼力がいくぶん増し、出席者たちは一斉にぴしりと背筋をただす。さすがのアキツキも気圧されたのか、口を閉じた。


「朕の政で、天の道理にもとることがあれば、教えよ」


 帝の静かな声が、鐘のように室内に響いた。決して声を張り上げたわけではない。だが、帝の発する言葉は天の言葉。天上より帝の口を借りて発されるものである。その不思議な魔力は、ここに集うが皇族ばかりであるゆえに、絶大な支配力を持っていた。


「いえ……まさか、兄上――いえ、帝の為されることは全て天の意向によるもの。不可謬ふかびゅうという言葉こそ相応しいでありましょう」


 アキツキはさきほどまでの勢いを失ったようだ。


「ではなぜ、かの物の怪が天よりの遣いだと、そなたは申したのだ」

「……それは、銀の谷が北の国境に近いからでございます」


 アキツキが手を叩くと、彼の息子の一人が大きな地図を捧げ持って、帝の前へにじり出た。そこには朱瑠アケルの周辺が描かれている。


「北方大平原か」

「さようでございます」


 朱瑠アケルの北、〝神々の峰〟と呼ばれる大山脈の向こう側は、広大な平原となっており、いわゆる貊氊ばくせん人たちの領域となっている。彼らは氏族ごとに縄張りを持つが、この国では北方大平原と一括して呼んでいる。

 長い歴史の中で、この国は北の異民族に何度か攻め込まれていた。堅牢な自然の砦たりうる山脈には切れ目があり、そこから侵入することが可能だからだ。

 一度は帝都まで征服されたこともあるというが、詳しいことは分かっていない。いつかの時代の帝が、正史に記載されていたその時代の記述を、墨で塗りつぶしてしまったからだ。その後の時代においても、かの歴史――〝暗黒年間〟と呼ばれている――を語ることは忌まわしいこととして敬遠されている。


 朱瑠アケル人が彼らを貊氊ばくせんと呼んで迫害するのも、そういった背景が関係しているのは間違いない。


「それはあまりにもこじつけでは? アキツキ叔父上」


 ナナクサが立ち上がって声を上げた。


「それに、こういったことはまず神官長の裁定を待つべきで、このような会議で話し合っても埒が――」

おんなは黙っておれ」


 アキツキは鼻であしらった。御所の慣例では、女はあまり意見をしない。ナナクサは憤慨の表情を浮かべたが、むっと唇をひき結んで着席する。ミズワケが気遣わしげに姪に視線を送った。


「北に不穏な動きがあることを、天が貊氊ばくせんの姿を借りて伝えてくださったのではないかと、私は感じたのです。六の姫によれば、件の物の怪は見慣れぬ装束を着ていたと。その特徴を照らし合わせてみれば、貊氊ばくせんのものに違いありませぬ。短い弓、腰に提げた剣、羽根飾りの兜。それに粗い毛織りの衣。男も女も馬に乗り、荒野を我が物顔で駆け回る……」


 アキツキの口調は、まるで子供に語って聞かせるおとぎ話のようだった。その場にいる者はみな、幼い頃に親から必ず聞かされる童歌を思い浮かべた。

 

 いい子やいい子。

 畑にあそぶわらわべよ。

 こっちにおいで。走っておいで。

 馬にのった貊氊ばくせんがやってくる。

 いい子やいい子。

 山のお堂にお隠れよ。こわぁい貊氊ばくせん、お堂を恐れて帰っていく……。


 よちよちと玉座の前に現れた小さな子供が、唄を歌っていた。アキツキの子供の一人で、姉が慌てて駆け寄ってきて抱き上げる。アキツキは父親らしい顔で微笑んで、子供の丸い頬をなでた。


「申し上げます!」


 厳重に閉められた扉をこじ開け、室内に駆け込んでくる官があった。タケルヒコの秘書官である。


「皇族会議の最中ぞ。あとにせぬか」


 アキツキが振り返り、息を荒くして官を咎めた。


「いや、よい」


 秘書官のただならぬ様子を察し、帝は軽く手を上げて続きをうながす。


「一体何事か。申せ」

「はっ」


 秘書官の顔面は蒼白であったが、取り乱した様子もなくきびきびと答えた。


「北方の異民族が、銀の谷に侵攻いたしました」


 帝は勢いよく立ち上がった。


「もっと述べよ、詳しく」

「はい、使者をここに」


 秘書官が背後に向かって指示をすると、ほどなくして傷ついた様子の男がよろめきながら入室した。腕章を見れば、磺座府に属している武官だと見て取れる。

 武官は叩頭した。


「恐れながら申し上げます。昨日、北方大平原より襲来した貊氊ばくせんの一団が、銀の谷を襲撃し、略奪を働きました。保管されていた精錬済みの銀、六の姫が手配された食糧、坑夫どれいたちを奪うと、疾風のごとく去り――」


 武官はげほげほと咳き込んだ。背中に矢傷を受けた痕がある。


「――ですが、六の姫殿下はご無事でございます。磺宮あらがねのみや磺座府こうざふの被害も比較的軽微。姫殿下は近衛士の護衛のもと、帝都へのご帰還を急いでいらっしゃいますので、三日後の昼には到着されるかと」


 ユズリハの無事を聞き、帝の肩からやや力が抜けた。


「ならば重畳。下がって休むがよい」


 そして、タケルヒコのほうを向くと、


「皇太子よ、この件はそなたに任せたい。事態を収束させ、帝国に蛮行を働いた貊氊ばくせんどもにしかるべき制裁を下すのだ」


 タケルヒコは「仰せの通りに」と膝をついた。


「かの者ども行いは、到底許されるものではございませぬ。帝の名のもとに、正義を示しましょう」


 皇族会議は混乱したまま解散した。

 タケルヒコは秘書官をともなって武官に聴取をしたあと、自身の執務室へ戻ってきた。


「ふう。次から次に事が起こるものよ」

「さようでございますね」


 秘書官が皇太子のために椅子をひき、タケルヒコは座った。疲れがどっと溜まっていた。


「アスマよ」


 秘書官の名である。


「二人きりなのだから、いつものようにしてよいぞ」

「では、そうさせていただきます」


 秘書官はうなずくと、茶器を取りに棚の前に立つ。


、大仕事を賜ったじゃないの。大丈夫かしら?」


 仮に他の者が居合わせれば、声の主はいったいどこかと頭を巡らすにちがいなかった。しかしここにはタケルヒコと彼の秘書官しかいなかったし、タケルヒコにとってはいつものことであった。

 なんどきも堅い態度を崩さぬことで通っている皇太子の秘書官であった――が、生来の性格はこちらであった。名門貴族の子息でありながら、彼の口調にはその片鱗さえ見えない。よくてせいぜい場末の酒場の女将といったところだろう。普段が普段であるだけに、その落差は激しかった。


「会議の間ずっと外で待っていたのに、聴取まで長引いたものだから喉が渇いて仕方ないわ。お茶を淹れますからね」


 相手がこの皇太子でなければ、不敬罪で投獄されて当然の態度である。

 しかしタケルヒコは、この秘書官のあけすけな物言いが存外気に入っているのだった。二人はいつのまにか気の置けない親友になっていた。


「帝が私を信頼してくださっている証であろう。それに父上は最近ひどくお疲れのようだ。これ以上のご負担をおかけするのは、子としても、臣下としても看過できぬ」


 熱い茶が入る。二人は茶をふうふうとすすりながら、


「今回の案件、まず北方の盟主である嗎吧姈まはれい族の首領を召喚せねばならぬ。帝国と盟約を交わし、曲がりなりにも平原を統括しておる以上、一定の責を問うべきであろう。それに北の事情は北の者が詳しいにちがいない」

「首領、鞍打柔志あんだじゅうし――冊封名は北原将軍。この不始末について釈明あらば、参上しなさいよ、って親書を出すのね?」

「ふむ、そうすべきだが、今それを行うのは早計に過ぎよう。この国で北の事情に詳しい者はおらぬのか」

「平原へ行商にゆく商人ならあるいは。北方出身の奴隷でもいいけれど、言葉が通じないから駄目ね」

「ううむ」


 その時、部屋の扉がトントンと叩かれたかと思うと、タケルヒコが返事をする間もなく開かれた。

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