第58話 それぞれの道

 タケルヒコが目を覚ますと、アスマの顔が目に入った。


「起きた?」


 タケルヒコは暖かい天幕の中で、寝台に横たえられていた。寝具をめくると、きちんと手当てされた身体がある。


「なぜ私は生きているのだ」


 アスマはことの顛末を語った。ナナクサが、タケルヒコの命を賭けてゾラと将棋の勝負をし、勝ったのだと。その代わり、彼女はゾラの妻となることを承諾したと。


「なんだって――」


 タケルヒコは思わず起き上がろうとし、身体の痛みにうめいた。


「まだ起きちゃだめよ」


 乱れた布団を整えるアスマ。


「あとね、大事なこと。ゼヌベクが死んだわ」

「……え」

「なぜ彼が死んだのか、テルナミ様が知っているようだけど、話してくれないの。……新しい族長にはゾラが選ばれたわ。彼はもともとマハリリヤ氏族だけれど、ゼヌベクから一番信用されていたし、隠された子蛇ヴィカ・チャハリでもあるから、平原では力があるのよ。私たちはむしろ、ゼヌベクよりも、彼を警戒しなきゃいけないかもね。でもこれからは、バディブリヤ氏族と朱瑠アケルとの間に、一の姫様が入ってくれるわ」


 そのとき、天幕の戸布が持ち上がり、ナナクサが姿を現わした。その後ろにはゾラもいる。


「兄上」

「ナナクサ――」


 ナナクサはどこか吹っ切れたような清々しい表情をしていた。タケルヒコは、妹がすでにゾラと夫婦になったことを察する。


「ナナクサ。私は、そなたを置いて帰らねばならぬのか」

「兄上」


 ナナクサはそっと兄の頬に手を添えた。


「私は、私の生きる場所を定めました。どうか悲しまないでください。私と兄上の進む道はここで分かれますが、いつか交差するときもあるでしょう。兄上はどうか、兄上の道を迷うことなく進んでください」


 タケルヒコは、自然とあふれ出た涙を拭いながら「ああ」とうなずいた。


「私は国に帰らねば。帰って、ミズワケ叔父上と対決しなければならない」

「兄上なら大丈夫です。アスマ殿も力になってくれます」


 アスマがどんと胸を叩く。


「任せて。少なくとも、アカサギ家はタケルちゃんのことを全力で支えるわ」


 その後、ダーロゥとユウジュンが見舞いに訪れた。彼らはこのあとすぐに国に帰り、父である大公に今回の件を報告するという。

 ゾラは今のところ、すぐに朱瑠アケルやイルファンに攻め入るつもりはないようだ。


「お前ら次第だけどな」


 一応、そう釘を刺す。


 テルはツキヒナの顔を眺めていた。ツキヒナは目を閉じ、ぐったりと寝台に横たわっていた。テルがツキヒナの真名を念じながら名を呼ぶと、彼はうっすらと目を開ける。


「ツキヒナ」

「テル……ナミ……」


 ツキヒナが掠れた声でテルの名を呼びながら、手を伸ばした。その手を握ったテルは微笑んだ。彼はミズワケに真名を握られたままだが、テルもまた、ツキヒナの真名を知っている。これからは、ミズワケがツキヒナを思い通りに動かすことはできない。テルがそうさせない。


 ミリはユウジュンから意外な勧誘を受けていた。


「イルファンには医学校がある。そこで学ばないか」

「医学校? なぜ?」


「イルファンの医術は、外科は発達しているが、薬草学は研究しているもののいまひとつだ。君は薬草の基礎的な知識があるし、隠された子蛇ヴィカ・チャハリの能力がある。それに、朱瑠アケルに戻っても、平原に留まっても、君の居場所はない。だから、ちょうどいいと思ったんだが」


 ユウジュンは、誓ってミリを政治的に利用しない、と言った。兄である第一公子にもその許可を得ている、と。


「少し、考えさせて」


 ミリは言った。ユウジュンはうなずく。


「ああ、納得のいく答えが出たら、教えてくれ」



*   *   *


 三年後。イルファン大公国。


「行ってきます」


 ミリは居間に向かって声をかけた。書き物――カン老師から届いた手紙の返信である――をしていたテルが顔を上げ、「行ってらっしゃい」と微笑む。


 イルファン大公国にとっても脅威であったゼヌベクを倒したことを、テルは誰にも話さなかった。しかしダーロゥやユウジュンは、精霊の胎ナアベ・モイから戻ってきたテルを見て、何かを感じたのだろう。彼らはテルに、傭兵団に入らないか――あるいは剣術の指南をする気はないかと尋ねてきた。テルは丁重に断った。


 背後の壁のくぼみには宝剣が収められ、部屋を静かに見下ろしている。この類い稀な祭器――もとはカゼハヤの剣だったものが、鋳溶かされてセゥルの剣になり、さらに鋳溶かされて匕首あいくちとともに精製されたもの――は、役目を終え、眠りについた。今はもうテルが手にしたところで、何も斬ることはできない。


「忘れ物――これ――」


 ツキヒナが、ミリに弁当箱を手渡す。彼は徐々に言葉や感情、思考を取り戻していた。テルやミリと暮らすうちに、彼はもとの彼に戻りつつある。二年前に帝弟ミズワケが失脚し処刑されたという報せが届いてから、その傾向は顕著であった。今では笑顔を見せることもある。


「ありがとう」


 ミリは弁当箱を受け取り、家を出た。


 朝日がまぶしい。


 昨日の雨が見事にあがり、空には虹がかかっていた。


 ミリは爽やかな風を胸いっぱいに吸い込み、意気揚々と医学校へと向かったのだった。


(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪神の子 放浪記 雨丹 釉 @amaniyu01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ