第57話 呪いと妄執④

 テルとミリは精霊の胎ナアベ・モイの麓にいた。周囲は硫黄の独特な匂いが立ちこめている。馬がそれ以上進むのを嫌がったので、二人は徒歩で斜面を登り始めた。

 地面のところどころから白い蒸気が噴き出していた。その周りの雪が解けているので、高温なのだろう。うっかり触れてしまわないように、二人は注意した。


「カゼハヤ王子は、この山で精霊と契約したの」


 ミリが言った。


「つまり、ここが呪いの始まりの場所」

「なるほど」


 テルはうなずいた。


「原点に還るってことか」


 それほど高い山ではないが、二人は汗だくになって、山頂へ至った。

 山頂はすり鉢状に陥没し、底のほうでぐつぐつと溶岩が煮えたぎっているのが見える。もうもうと立ち昇る煙に巻かれてしまわないよう、二人は風向きに気をつける必要があった。


「喉が痛い」


 ミリがげほげほと咳き込んだ。テルは「きっと火山の瘴気だ」と言うと、衣の裾をびりびりと裂く。


「気休めだけど、これで口と鼻を覆って」


 ミリが素直に布を巻いていると、どんっと山が揺れた。


「テル!」


 ミリが火口を指さす。

 黒く空へ昇っていた煙が、ゆっくりと形を変え始めた。ミリは地面から怯えたような声が上がるのを聞き、とっさにテルの腕にしがみつく。

 煙が巨人となる。熱風が吹き付け、二人の肌を灼く。

 テルは叫んだ。


「私はカゼハヤ王子の子孫だ。かつて王子があなたに願い、あなたが王子に授けた力を返しにきた!」


 巨人がじっとテルを見つめる。神なる精霊に見つめられ、テルの内側に深い闇が広がった。そのまま奈落へ落ちていきそうな恐怖を感じ、しかしテルは傍らのミリの存在を支えにして、踏みとどまる。

 そのとき、テルの左肩に鋭い痛みが走った。


「ああ、テル! 矢が!」


 ミリが叫ぶ。テルが自身の肩を見ると、一本の矢が突き立っていた。よく見ると、刺さっているのは矢じりではない。矢柄にくくりつけられているのは、ツキヒナの匕首あいくちの刃だ。

 テルは矢が飛んできた方角に視線を向けた。そこには――


「……ハルギク」


 弓を手にしたゼヌベクが、こちらを睨んでいた。


「兄上」


 ゼヌベクは早足で近づきながら、口を開く。


「だめだ、兄上。呪いを還しては」

「どうして、ハルギク……」


 ゼヌベクが二人の前に立ちはだかる。


「呪いは我らに力を与えてくれる。俺と一緒に行こう、兄上。朱瑠アケルの玉座に本来座るべきは兄上なんだ。一緒に朱瑠アケルを征服するんだ。俺たちきょうだいの国を作ろう」


 テルは首を振る。弟の誘いが、ひどくむなしく胸に響いた。


「――いいや。私は、玉座など望みはしない。朱瑠アケルの滅亡も望んじゃいない。私にはもう望むものなんて何もないんだ」

「俺と一緒に来ないのか?」


 ゼヌベクの問いに、テルは「ああ、行かない」と言った。すると、ゼヌベクの瞳が闇色に染まった。


「ならば、その呪いの核を俺に寄越してもらうぞ。すでに祭器は兄上の身体に刺さった」


 テルの身体から、黒いもやが立ちのぼった。いつものように人型にはならず、ゼヌベクのほうに吸い込まれていく。


「だめだ!」


 テルは叫んだ。だが、もやはどんどんゼヌベクのほうに流れていく。テルは肩から匕首あいくちを抜き、投げ捨てた。それでも止まらない。


「俺を止めたくば、俺を殺してみせろ!」


 ゼヌベクが剣をテルに向かって振り下ろす。テルはとっさに腰の宝剣を抜いて受け止めた。

 二人の剣から火花が散る。テルは己の中にまだ残っている呪いの核が、ふつふつと沸き立ってくるのを感じた。それと同時に、『テルナミ』と呼ばれていた頃の、冴え渡る剣技の感覚が蘇る。それらが絶妙に絡み合い、テルの動きが変わっていく。


「兄上――やはりあなたは美しい」


 ゼヌベクが恍惚とした表情で言った。テルの剣がゼヌベクの頬をかすめる。ゼヌベクの剣が、テルの衣の端を切り裂く。

 ミリは息をするのも忘れて、二人の戦いを凝視していた。ゼヌベクの言葉通り、テルの動きは美しかった。剣筋はまるで流れる水のごとく、足運びは仙女の遊び舞うがごとし。

 ゼヌベクの剣がテルの首に向かって吸い込まれていく。テルが身体をねじり回避すると、剣は束ねられていたテルの髪をざっくり切り落とした。短くなった髪がはらりと頬にかかる。まるで出会った頃のテルのようだとミリは思った。

 斬られた髪が地面に落ちるよりも速く、テルの剣が流星のようにひるがえる。


 ゼヌベクの剣が、その腕ごと宙を舞った。


 肘から先を失ったゼヌベクは、一瞬呆気にとられ、次いで「ははは!」と笑った。


「負けた! この俺が負けたぞ!」


 ゼヌベクはどっと斜面に倒れ込む。

 はっ……はっ……と荒く息をしていたテルは、剣を投げ出すとゼヌベクに駆け寄り、その身体にすがった。


「ハルギク……ハルギク!」

「兄上、俺は最高に愉快だ」


 ゼヌベクがきらきらとした瞳で、テルを見上げた。

 二人の身体から同時にもやが噴出する。それは二つの人型をなした。ひとつはセゥル、もうひとつはカゼハヤ。

 影たちは、火口に揺らめく巨人を見上げた。


『さあ、呪いの王、悪神たる精霊よ、永らく預かったこの力、お返しする!』


 セゥルが朗々と告げると、カゼハヤがぎりぎりと歯を噛みしめて『まだだ!』と叫んだ。


『我が夢は、願いは、まだ終わらぬ!』

『もう終わったのです、王子』


 セゥルはすげなく返すと、そっとテルのそばにかがんだ。


『君が最後まで呪いに食われなかったから、我らもやっと解放される。ありがとう。どうか残りの人生、息災であれ』


 セゥルがテルの肩を抱き、そして離れていく、テルははっとセゥルを振り返った。

 巨人が二つの影を飲み込んだ。テルは自身の身体に違和感を覚えた。同時に、再びどんと山が揺れる。

 テルは呆然としたあと、衣の中をのぞいた。性別を失っていた身体が――もとに戻っている。


「兄上。テルナミ兄上」


 ゼヌベクが苦しげに声を出す。テルの表情を見て、彼は笑った。


「悲しむな、兄上。俺は駆け抜けた。俺の人生を……。道が途中で途絶えるのは残念だが、気分はそう悪くない」

「ハルギク……」


 知ってるか、とゼヌベクは言った。


「以前、俺は銀の谷を襲撃した」


 三年前のことだ。テルは目を見開いた。


「俺が人買いに売られる直前、テルナミ兄上が実は生きていて、銀の谷に送られたという話を宮中で聞いていた。だから俺は、族長として力をつけたあと、兄上を探しに行ったんだ。だけど、兄上はいなかった……」


 テルは顔をゆがめ、弟を抱きしめた。


「いたんだよ。私は、あそこにいたんだ」

「そうか……」


 もしあのとき、ハルギクと再会していたら、どうなっていただろう。今となってはもう分からないし、詮ないことだ。

 斬られた腕から、どくどくと血が流れ出していく。ゼヌベクの顔がどんどん白くなっていき、身体も冷たくなっていく。


「兄上、ツキヒナ兄上のことを頼む。俺は二人が好きだった……また仲良くしているところを見たかったぞ……」


 ゼヌベクはそう言って絶命した。

 ぐらぐらと山が揺れ、ひび割れる。ミリがとっさにテルを引き寄せた直後、斜面が陥没した。ゼヌベクの亡骸は、崩れた地面ごと、火口の中に落下していく。


「ハルギク……!」


 テルは喉も裂けよとばかりに叫んだ。ミリはテルを抱きしめ、その震える身体を支える。


「テル――帰ろう」


 空を見上げると、一羽の鷹が弧を描いて飛んでいる。そのもの悲しい鳴き声が、天空を風とともに渡っていった。

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