第4話 大地の声 闇の中の出会い④

「皇太子殿下、一の姫様」


 秘書官が恐縮しつつ割って入った。


「神官長のサユリバ様がお召しでございます」


 サユリバは帝の叔母にあたる。普段は表に出てくることはないが、御所における神事のいっさいを取り仕切っている存在だった。

 二人を呼んだのは当然、ユズリハの儀式と地震について話すためであろう。


 台地の北西、御所の隅に乾宮いぬいのみやがあった。先帝がサユリバに下賜したというその宮は、王朝が興った時代の様式を伝えるもので、この台地の上では最も歴史ある建物の一つだとされている。


 タケルヒコは、以前訪れた乾宮いぬいのみやの様子を脳裏に浮かべた。鮮やかな瓦で葺かれた御所の中で、その宮だけは茅で屋根が葺かれている。苔が表面を覆って緑色になった屋根は、ところどころキノコが生えたり鳥の巣があったりして、いまにも地面と一体化してしまいそうな風体だった。きれい好きの宮女が見たら、ボロ屋のようだと悲鳴を上げるかもしれない。

 だがタケルヒコは、不思議とその宮の姿を好んでいた。


 この台地の上に存在するものすべては、王権のありかたそのものを写し取っている。荘厳で硬く無機質、絶対的で不変――歴代の帝がかくあるべしと定めてきたことわりである。

 しかし、この宮を造った当時の王――帝国になる前の――はそうは思わなかったのではないか。苔が生えるのや、時に花の苗床や動物のすみかになるのと同じように、大地と同じ時間を過ごし、変化や老いを受け入れて……。タケルヒコは名も知らぬ先祖に親近感を抱いていた。


 乾宮いぬいのみやは、ほぼタケルヒコの記憶通りの姿で佇んでいた。以前はなかった蔦が柱に絡んでおり、咲いた花に寄ってきた蜂が、ブンブンと小さな羽音を唸らせている他は。


「兄上、ミツバチですよ。近くに巣があるのでしょうか。あとで蜂蜜を採りに行きませんか」

「採ってどうするのだ」

「もちろん食べるに決まっているでしょう。栄養があって薬にもなりますし。父上の政務疲れにも効くかもしれません。私の咳にも」


 二人が到着すると同時に、中から帝その人が出てきた。サユリバが老齢で足腰が弱っているため、帝みずから足を運んだのであろう。


「父上」


 二人はその場に膝をついて頭を垂れる。帝は軽くうなずいて、無言のまま去って行った。

 少し頬が痩せた。

 タケルヒコは思った。

 それに、肌の色艶もかつてほどではない。足取りは以前と変わらず力強いが、タケルヒコは父帝の老いを感じずにはいられなかった。


「我が父ながら、寡黙すぎて何を考えておられるのか分かりませぬな」

「……口を慎むのだナナクサよ。為政者たるもの、常に凪いだ湖面のように、冷静であるのが正しき姿であろう。むしろ、物静かな父上から何故そなたのような、賑やかな姫が生まれたものかと、兄は不思議に思うぞ」

「身体が思うように動かぬ分、口と頭はよく動くのです」


 サユリバとの面会は、ユズリハの儀式の日取りを決めたとき以来、じつに半年ぶりのことであった。帝よりはるかに多く歳を重ねた老婆は、しばらく経ってもさして見た目は変わらぬものらしい。古木のように、実に超然としている。

 サユリバは老体を脇息にあずけ、火鉢にあたりながら二人を待ち受けていた。

 風邪を引きやすいナナクサには火のそばに来るように言い、タケルヒコには先ほどまで帝が座っていたであろう、錦の座布団をすすめた。


「おひさしぶりです、大叔母上」

「皇太子、一の姫、ふたりとも息災のようでなによりです」


 サユリバは柔和な笑みを浮かべた。


「銀の谷のこと、六の姫のことはもう耳に入っていることと思います。帝には、通例通り儀式を行うよう申し上げました。災いで人心が荒れるときこそ、六の姫の来訪が民にとって希望の光となるでしょう、と」


 老いた神官長の目には静かな光が宿っている。彼女は政には関わらない。ただひたすら鎮護国家のため、また有職故実の守護者として心血を注いできた彼女であるからこそ、思慮は世俗の雑音から最も遠いところにあるのだ。


「他の姫や皇子と違い、そなたたちの負う役目はことさら重いもの。問題が起こったからといって、途中で止めるべきではありません」


 皇太子と一の姫はうなずく。儀式はつつがなく実行されなくてはならない。

 ナナクサは顎に手をあてた。


「銀の谷にはおもだった街もなく、土地の性質上農業も盛んではありません。地形は険しい山と谷。万が一街道が崩れていれば、かの地へ運ばれる食料や物資が届かなくなりますね。そうなると生活の困窮によって反乱も起きかねない」


 すると、皇太子に随従し背後で直立不動の体勢をとっていた秘書官が口を開いた。


「銀の谷を管轄する磺座府こうざふより、先刻調査隊出発せりとの狼煙が確認されました。各地を巡回し、被害状況の確認と、被災した民の救済にあたるとのことです」

「人手は足りるの?」

「銀の谷の人口は、鉱山に集中しています。巡回箇所は関所や街道沿いの宿場を含めても、数カ所に留まるかと。問題は……食糧ですが」


 秘書官は手元の書簡に目を落とした。銀の谷の人口は、何年も一定の数を保っている。増えも減りもしない。これが街や村なら、豊かになれば人は増えるし、逆なら減る。しかし銀の谷の事情は違う。

 かの地はこの国の富を生み出してはいるが、みなが思うような宝の山ではない。秘書官は皇太子の顔色をうかがいながら、そっと口をつぐんだ。


「急ぎ輜重隊を編成せねば。父上はもう動いておられるだろうか」


 タケルヒコは、すでに官たちが義倉を開けているだろうと思った。御所や各地の役所には、飢饉に備えて穀物を蓄えておく倉がある。有事の際には開放できるようになっているのだ。

 だから、サユリバの「帝は、『それには及ばず』と仰せです」の言葉に、呆気にとられた。 


「食糧を輸送しないのですか? 自給自足のできない地域に?」 


 思わず立ち上がったタケルヒコの裾を、ナナクサが引いた。


「兄上、銀の谷に民は住んでいないのです」

「なぜだ。大勢の人間がいるのであろう?」

「たしかに、人はいます。しかし、その……」


 ナナクサにしては歯切れが悪い。

 タケルヒコは秘書官を見た。こちらも目を伏せて黙っている。彼の手にした書簡にはシワが寄っていた。


「人ではあるが、民にあらず」


 サユリバが静かに言う。


「良いですか、タケルヒコ。この国において、帝が救いの手を差し伸べるのは、民だけです。税を納め、土地を耕し、物をつくり、商いをし、国に仕える者のみ。罪を犯した者、法から外れた者、奴隷や貊氊ばくせん、それらは民にあらず。ゆえに救うべき者ではない」


 そこに住まう者たち。どこか別の場所から運ばれてきた者たち。足りなくなれば補充される者たち。人口が増えも減りもしない理由。

 それは冬の冷たい雨のように、しんと静かに降ってきた。タケルヒコはゆっくりと室内を見渡した。落ち着き払っているサユリバ、ばつが悪そうにうつむいているナナクサ、口元を引き結んでいる秘書官。この場で混乱しているのは、皇太子だけだった。

 タケルヒコは脱力して、座った。


「私は幼き頃の勉学で、銀の谷は、諸国がうらやむ財の山だと教わった。だが、本当の姿は恐ろしき監獄だったということか」

「兄上」

「私はとんだ物知らずだ」

「そのようなことはございませぬ」

「ナナクサよ。私は、罪人や奴隷、貊氊ばくせんを、国を乱す存在として忌み嫌っておったのだ。勿論、罪はつぐなうべきであるし、奴隷には使役される事情があり、貊氊(ばくせん)にこの国の土地を与えることなどできぬ。しかし、彼らとて人なのだ。腹は減るし老いもする。家族もいるかもしれぬ。民ではなくとも、かような場所に閉じ込められ不安にさらされている者を、易々と切り捨てたら天はお許しになるだろうか?」

「帝が天に反することはありません、タケルヒコ。帝は常に、天からの声に耳を傾けていらっしゃる」

「帝が聞くべきは、天よりむしろ、地に生きる人々の声ではなかろうか!」


 叫んで、タケルヒコははっと口を押さえた。皇太子の身で、父帝をそしるようなことを口にしてしまった。


「お許しを……」


 座布団から降りて頭を垂れたタケルヒコを、サユリバは温かい双眸で見つめた。

 この皇太子は、しがらみの多い宮中にあって、のびやかな精神をはぐくんでいる。父親が静かな冬の湖面ならば、この息子は水鳥や小魚の遊ぶ春の小川のように、ひとところに留まることなく流れ続ける柔軟さを持つ。

 その性格は、この台地の上では少し窮屈かもしれないが……。


「頭をお上げなさい、皇太子。そなたはいずれ、この国を治める者。そなたの父が天の声に従う帝ならば、そなたは地の声に耳を傾ける帝となればよいのです。どちらも間違いではありません。天と地、ふたつがあってこそ、この世は成り立つのですから」

「あのう、大叔母上」


 ナナクサが声をあげた。


「ユズリハが銀の谷にいる以上、国が支援を送るのは当然のことだと思います。帝も、なにも銀の谷を――六の姫をそのまま放置しようというおつもりはないでしょうし」

「ナナクサの言う通りです」


 サユリバはうなずいた。


「帝は、ユズリハからの要請を待つ、と仰せでした」


 儀式のために銀の谷に赴いたユズリハ。現地の状況を直接知ることが出来るのは、齢十一になったばかりの幼い姫ただひとりである。


「六の姫がかの地の人々を、民であろうとなかろうと、救済すべしと判断したなら、しかるべき方法が取られるでしょう」

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