第40話 邂逅①

 テルは国境を越えるため、深い山の中にいた。イルファン大公国との間に設けられた関所を通るには、身分証明書が必要だ。だが、女の――今のテルは女にしか見えない――一人旅は怪しまれるうえ、お尋ね者となっている彼女が関所を無事に通過できるはずがなかった。よって、法を犯してこの森を抜けようという算段である。

 テルの脚は疲れ知らずだった。彼女はいくつもの峠を踏み越え、沢をまたぎ、坂を上り下りした。夜も眠らずに歩き通して平気だった。呪いが無尽蔵の体力を与えているのだ。忌々しいと思いつつも、それに助けられている自分に、複雑な思いを抱かずにはいられない。


 近くで獣の息づかいがした。テルははっとして周囲を見渡す。

 木々の間から、ぬっと現れたのは、一頭の熊だった。

 秋の間に十分な食糧を得られず、冬眠できなかった個体であろうか。あるいは猟師に追われ、住処を失い、恨みをつのらせたものだろうか。熊は目の前の獲物に歓喜し、よだれをしたたらせた。

 テルは冷や汗をかき、じっと熊を見つめる。両者の視線は完全にからみあっていた。もはや、逃れることはかなわない。

 熊はテルの周囲をぐるぐると回り、徐々に距離を詰めてくる。テルは外套を脱ぎ、左腕にぐるぐると巻いた。


 熊が突進してくる。テルは脇に転がってかわすが、熊はすぐに向きを変えて獲物を仕留めにかかった。牙がテルの身体をかすり、爪が衣服を裂いた。

 テルの上に熊がのしかかる。その重さゆえ、巨体の下から抜け出すことはできない。目の前に鋭い牙の並んだ口が広がる。テルは今まさに食いちぎられようとした喉笛をかばい、左腕を突き出した。

 外套の上から、ぎりぎりと牙が腕に食い込む。テルは食いつかれたまま、右手で熊の下顎を掴んだ。

 すると熊はいやがり、頭を振る。テルは放さず、そのまま力を込めた。

 テルの身体がかっと熱くなる。右手の筋肉が盛り上がり、熊の顎が外れた。テルは自身が獣のような咆哮をあげながら、恐るべき怪力によって、熊の顎を引きちぎった。断末魔と赤黒い血しぶきがあがる。熊は狂ったように暴れてテルを突き飛ばすと、転がるように森の奥へと消えていった。


 テルは熊のあとを追おうと歩き出す。


 殺さなくては――あいつの息の根を――


 テルの頭の中に黒いもやが広がり、思考を塗りつぶさんとした。


 私の強さをもっと示さなくては――


 しかし数歩、熊が去った方向に歩を進め、ふと我に返る。


 殺す? 強さを示す? なぜそうする必要がある?


 テルは愕然と己を見下ろした。

 今、呪いに食われかけた。

 あたりには血なまぐさい匂いが漂っていた。テルは己の手と顔についた熊の唾液と血を、近くの沢で洗い落とした。

 外套はすっかりだめになってしまったが、かまわず着た。多少穴が空いていようが、寒さをしのぐにはこれしかない。

 熊との対決を終えても、疲労を感じなかった。テルは自嘲するしかなかった。

 どうやら、自分に残された時間はそう多くはないらしい。


「……急ごう」


 テルは西に向かって歩き出し、やがて国境を越えた。


*   *   *


 タケルヒコら一行は、朱瑠アケルにほど近いイルファン領の宿場町にいた。ここで馬を休ませ、食糧を調達するつもりだ。


「はやいとこ、宝剣の飾り石を換金したほうが良さそうね」


 アスマが、布にくるんだ剣を示して言う。


「路銀は多いに越したことがないし、なによりこんなきらびやかな剣を持ち歩いてたら、追い剥ぎに狙われてしまうわ」

「そうだな。この町に両替商はいるのか」


 タケルヒコは頭を巡らせた。イルファンの町は、朱瑠アケルと比べるとどこも規模が小さい。商業があまり発達していないと聞いていたが、本当らしい。見かける商人はほとんどが異国からやってきた者のようだし、周囲にはいかにも武人然とした格好の男たちが多かった。


「あ、あそこにあります」


 ナナクサが一軒の店を指さす。そこには天秤の図柄が描かれた暖簾が掲げられていた。


「あれだな」


 三人は暖簾をくぐる。店内は薄暗く、中の様子は判然としない。

 部屋の隅で何かが動いたかと思うと、ぬうっと影が立ち上がった。どし、どし、という重い足音とともに現れたのは、浅黒い肌をした巨漢だった。


「きっと用心棒ね」


 アスマがタケルヒコに耳打ちする。

 タケルヒコは巨漢を見上げ、


「換金をしたいのだ。店の主人はいるか」


 巨漢は三人をじろりと見下ろすと、身分証明書の提示を求めた。三人は通行手形を取り出して見せる。タキヤ、ナナミ、アカシ、という偽名が記された木札を。


朱瑠アケルの者か」

「いかにも」

「女を連れているな。夫婦か?」

「いや、私の妹だ」


 用心棒はタケルヒコとナナクサの顔を交互に眺め、なにかを納得したのか、「店主を呼ぶ」と店の奥に消えていった。

 しばらくして現れた店主は、引退した傭兵といった風情の、いかめしい顔つきをした初老の男だった。


「ミシナ商会のタキヤさん、でしたな」


 店主は眼鏡をかけると、「早速、品を拝見いたしましょう」と言った。


 アスマが、宝剣から布を外し、卓の上に置く。暗い店内であっても、わずかな光を受けて、宝剣を飾る宝石たちが燦然ときらめいた。


「この剣についた宝石を取り外し、換金してもらいたいのだ」

「ふむ」


 店主は用心棒に明かりを持ってこさせ、宝剣をとくと眺めた。拡大鏡を取り出し、宝石の一つ一つを観察する。そして、剣の刃がなまくらであることを確かめた。


「これをどこで手に入れたのですか」


 店主の問いに、タケルヒコが答える。


「ある方からの餞別の品だ」


 この剣はオトワから譲り受けたものであるから、嘘は言っていない。だが、本当の出どころを言うわけにもいかなかった。

 しばらくの沈黙ののち、店主は剣をじっと見つめたまま口を開いた。


「この剣からは、人の血の匂いがいたしますな。無論、実際に臭うわけではございませんが、戦場に出たことのある私には分かります。戦に使う武器ならまだしも、かような宝剣、祭事をのぞけば使われることのほうが稀なはず。この剣は妙です。しかも自らを封印しているときた」


 三人は息を飲んで、そっと顔を見合わせた。


「このような品、一介の商人が手にできるとは思えませんな。先ほどの通行手形ですが」


 店主は相変わらず無表情だ。


「偽造したのではございませんか?」


 指摘され、三人は固まる。アスマは内心で頭を抱えた。

 あらかじめ宝石を取り外してから、店に持ち込むべきだった――

 換金を諦めるべきか――と思ったとき、三人の背後に先ほどの用心棒が立って出口を塞いだ。三人を決して逃がさない構えだ。このまま通報されてしまえば、三人の目的は達成できなってしまう。


「イルファンには知り合いがいます」


 ナナクサが声を上げた。


「直接会ったことはありませんが、私たちが怪しい者ではないことを証明してくれるはずです」

「……その人の名は?」

「ティザン。鑑定士のティザンです。私は彼と文のやりとりをしていました。両替商のあなたならご存知では?」


 店主は顎をさすりながら瞑目し、「……と言っているが、どうなんだね、ティザン」と用心棒に向かって言った。


「え!?」


 三人は思わず振り返る。

 用心棒は――ティザンはナナクサをじっと見下ろし、「俺が手紙のやりとりをした朱瑠アケル人は一人しかいない」と言った。


「では聞くが――最初にあんたが手紙を送ってきたきっかけはなんだった?」


 ティザンの問いに、ナナクサはぐっと顎を引いた。


「古代朱瑠アケル王国第三王朝のものと伝わっている、カグヤナ王の宝冠の真贋について、だったと記憶しています」


 その答えに、ティザンは目を細めた。


「――まさか、本物のあんたとこうやって会える日が来るとはな」

「あなたが、ティザン。随分と――こう……」


 ナナクサが言いよどむと、ティザンはふっと笑った。


「人は見かけによらねえってな。あんたも、手紙で読む限り、てっきりばあさんだとばかり思ってたぜ」

「それで、ティザン。この方々はいったいどこの誰なんだい」


 店主が膝の上で頬杖をつく。ティザンは「じいさん、そいつぁ野暮ってもんだぜ」と言った。


「まあ、のっぴきならない事情がありそうなのはお察しの通りだ。最近じゃ、平原でも、朱瑠アケルでも、よくない噂を聞くからな。あまり首を突っ込まない方が身のためだ」

「そうかい」


 店主はため息をつくと、卓の上に宝石を取り外すための道具を並べた。

 換金はしてもらえそうなので、三人はほっと胸をなで下ろした。

 タケルヒコは言った。


「まさか、そなたの人脈が役に立つとはな。窮地を救われた」


 ナナクサははにかんで、


「ええ、私もびっくりです。……ティザンは、本当に博識なのですよ。彼から学ぶことはたくさんあります」

「店主のほうも侮れないわね。あの剣がいわくつきだってことを見破るなんて」


 アスマは、店主が道具を使って丁寧に宝石を取り出していくのを眺めながら言った。

 店主が作業を終え、宝石に見合う分だけの硬貨と交換してくれる。重くなった財布を大事にしまいこみながら、アスマは輝きを失った剣を腰にさした。


「これでどう見てもボロ剣ね。まあ、下手に目を惹くよりは断然いいわ」


 三人は店主とティザンに別れを告げ――ナナクサは再び手紙を書くことをティザンに約束し――町の宿で一泊してから出発した。

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