第13話 祭り②

 商家にたどり着いたミリは裏口から中に入り、近くにいた使用人に声をかけた。


「こんにちは。ご依頼のものが出来上がりましたので、お届けにあがりました」

「あんた、誰だい」


 洗濯をしていた女が桶に手をつけたまま、ミリをじろじろ見る。

 仕立屋のテルの娘だと名乗り、ミリはおずおずと言った。


「あの、番頭さんを呼んでいただけますか」

「ちょいと待っとくれ。これを終わらせてからね」


 女は無愛想に応じて洗濯を続ける。ミリは着物を抱えたまま、手持ち無沙汰に待つことになった。


 こっちにおいで、歌歌いの娘


「いま、なにか?」


 ミリは女に尋ねた。女は怪訝な顔をする。


「なんだって?」


 ミリは頭をめぐらせた。今、誰かに呼ばれた気がする。

 もしかして。

 ミリは足下に目を落とした。


 こっちにおいで、歌歌いの娘


 地面の声だ。話しかけてくるのは随分久しぶりだ。


「……なに?」


 こっちにおいで、歌歌いの娘……


 声が少しずつ遠くなっていく。ミリはちらりと洗濯女のほうを見やると、声にしたがって歩き出した。


 こっちにおいで……


 待って、どこにいくの。

 ミリはふらふらと商家の中庭に迷い込んだ。刈り込まれた植木の間を縫って道を辿ると、その先に四阿あずまやがある。

 四阿あずまやに誰かが座っている。ミリより年上に見える少女だ。


「だれ?」


 振り向いた彼女は、この家の娘だった。明るい色合いの上等な衣に、勝ち気そうな顔。ほどこされた化粧。細い指には指輪がはまっている。実に華やかで、綺麗だった。一度も暮らしに不自由をしたことがないのだろうと見て取れる。


「あっ」


 ミリは今更勝手に入ってきてしまったことに気づき、慌てた。


「あら?」


 少女はミリの持っている風呂敷包みに目を留める。


「もしかしてそれ、私のかしら」

「あの、お届けに……」

「まあ」


 少女は勢いよく立ち上がり、つかつかとミリに詰め寄った。


「待ってたのよ。間に合わないんじゃないかと思ってたわ。ちょっと待ってて、今、着てみたいの。寸法が合ってるかどうか確かめなくちゃ」


 少女は風呂敷包みを奪い取り、屋敷の中にかけこんでいった。

「ばあや! ばあや!」と呼ばわる声だけがする。


 ミリはまたしても手持ち無沙汰になり、仕方なく四阿あずまやに座った。

 ふと隣を見ると、椅子になにかが置かれている。梨型の木板を貼り合わせた、中が空洞になっている物体だ。


「楽器だ」


 沢山の弦が張られており、ミリはためしに一本、はじいてみる。


 てん……


 戦士が射た矢のように、その音は鋭くミリの耳を刺した。


 ミリは思わず楽器を取り落とし、耳を押さえた。両目からつっと涙がこぼれる。


「そんな――」


 ミリはもういちど、楽器を――ドゥーランガを手に取った。

 てん、ててん、とミリの指は自然に弦をつま弾いていく。


 これを知っている。とてもよく知っている。


 ミリの脳裏に、記憶の底に埋もれていた母の姿が浮き上がった。そうだ、この音。この楽器。

 これは母さんの持っていた楽器だ。ドゥーランガ。胴についたこの傷に見覚えがある。触ってみたいと母に駄々をこねたミリが、持たせてもらったはよいが重くて落としてしまった時の。

 母は宝石のように透き通った歌声をしていた。だからいつしか〝水晶の歌のアリ〟と呼ばれるようになった。母が歌うと、道行く人はみな足をとめて聞き入ったものだ。そして、歌うときはいつもこのドゥーランガが一緒だった。

 それだけがここにあるということは。


「あら! あなたそれ、弾けるの?」


 青い着物に身を包んだ娘が戻ってきた。テルの仕立てはたしかだった。色合いも良く、娘の豊かな表情を引き立たせている。

 彼女はミリが泣いているのに気付くと、目を丸くしたが、ミリの指から奏でられる音に耳を澄ませると「いい音だわ」と微笑んだ。


「こうやって弾くものなのね。全く見たことがない楽器なんですもの。これ、お父様が買い付けた荷物の中に交じっていたのよ。質流れ品ね。それを私が貰ったというわけ」


 娘はミリと楽器を見比べ、少し考え込んでから、


「それ、あなたにあげるわ」

 と言った。


「私はそれ、弾けないし」


 ミリは手を止めて、娘を見返した。


「そんな、いけません」

「この私が構わないと言っているのだから、くだらない遠慮は無用よ」


 彼女はにやっと笑う。


「その代わり、明日の祭りの舞台で、その腕前を披露しなさいな」

「えっ」

「踊り子が舞を披露することになっていたのだけど、伴奏者が風邪を引いてしまって困っているの。『蝶々姫』の曲よ。知っているわよね?」

「知っています。でも……」

「さて、お父様にもこの着物、見てもらわなくちゃ。お代は番頭から受け取ってちょうだいね」


 娘は「絶対によ。約束だから」と念を押すと、鼻歌を歌いながら行ってしまった。ミリは楽器を抱きかかえたまま、固まった。


 どうしよう!?


 その日一日、ミリは煩悶した。

 夕餉のあと、テルはミリが持って帰ってきた珍しい楽器をしげしげと眺めた。


「これがミリの母さんの楽器なのかい?」

「うん。でも、母さんがそう簡単にこれを手放すわけがない。ということは……」


 母はもうこの世にいないのではないか。確信に近い考えがミリの頭を占める。


「まだ決まったわけではないだろう。お金に困ってやむなく手放したのかも知れない」

「でも――別れる前、母さんは、病気だったの。それで私を宿屋に預けて、どこかに行っちゃった。それから私は奴隷商に――」


 ミリの目尻から涙がこぼれる。テルは少女を抱き寄せて、その頭をなでた。


「大丈夫さ。〝水晶の歌のアリ〟ほどの有名人が死んだら、きっと噂になる。そうなっていないってことは、きっとどこかに元気でいる」


 テルは話題を変えようと、わざと明るい声を出す。


「明日、『蝶々姫』を弾くんだろう? 楽しみだな」


 ミリは涙をぬぐいながら言う。


「でも私、楽器を弾くなんて久しぶりだし……母さんに教えてもらって以来よ」


 てん、ててん、と弦をつま弾く。その澄んだ音色は、天から降り注ぐ慈雨のように繊細だった。ためしにテルが引いてみると、ボヨンと下手くそな音しか鳴らない。ミリのようにぴんと張り詰めた音を出すには、相当の訓練が必要だろう。


「そこらの楽士顔負けの腕前だと思うよ」


 テルがそう請け合うと、ミリは照れたように微笑んだ。



 夜陰の中に、男がひとり。ただ歩いているように見えるが、その足が物音を立てることはない。

 道を横切る一匹のネズミが、男の足下でちゅうと鳴く。男はつま先で小さな獣をつつき、あっちへいけと促した。その拍子に、かぶった帽子の隙間から一筋の髪がさらりとこぼれる。その色は、金。

 男は髪が乱れたことに気がつくと、周囲を見渡し、誰もいないことを確認して、こぼれた髪を帽子の中に押し戻した。

 そのとき、てん、ててん、と澄み切った音色がどこからか響いてきた。男はぴたりと動きを止め、音色のありかを探して視線をめぐらせた。

 一軒の長屋の片隅。その内側から音がしている。


 てん、てん、ててん、ててん


 有名な『蝶々姫』という演舞曲だ。この国の者が好む、軽やかな節奏とゆるやかな旋律が特徴で、わらべでも知っている。


「へえ、明日の祭りで披露するのか」


 男は漏れ聞こえてくる会話に、片頬だけで笑った。

 これは蝶々の名がついた姫君が、異国の者と語らい踊り、楽しむさまをあらわしたもの。この国がこれほどの大国になる以前に作られた曲だとされている。

 嗚呼、あの頃は朱瑠アケル人も、我らを厭い蔑むことなどなかったものを、と隣国や北方でも知られている曲である。

 なかなかの腕前だ。かの〝水晶の歌のアリ〟には及ぶまいが。

 やはりは生きていたのだ。

 長年探し続け、手がかりにも満たぬ噂話に何度惑わされたことか。

 男は踵を返した。今晩は祭りの支度のせいで、町の寝入りが遅い。

 かの娘も、明日、母と同じ音色を響かせるのだろう。

 それがとても楽しみだ。

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