第1話 大地の声 闇の中の出会い①

 地の裂け目のごとく、深い谷が横たわっていた。

 一面灰色に覆われた土地は生気に乏しく、緑に茂る木々もなければ、みずみずしい草花もない。そそり立つ崖の冷たい面差しは、旅人を拒むかのように睨みをきかせている。点々と湧いている泉には錆が浮いており、喉を潤すことを許さなかった。

 その中を、目にも鮮やかな集団が列をなして進んでいく。朱旗を谷風になびかせ、その中心には漆黒の牛車。一歩進むごとにしゃん、しゃん、と涼やかな鈴の音が鳴る。


 牛車の中に少女がひとり。朱子しゅす織の衣に錦の帯をしめ、墨を流したような髪には金のかんざし。丸い頬はさながら蓮のつぼみ。その優美さ、繊細さは職人が丹精込めて作り上げた陶器のごとし。扱いを知らぬ者がうっかり触れれば、簡単に壊れてしまうであろう――少女は、労苦という言葉からほど遠い世界の出身であった。


 ところが、彼女は悄然としている。


 やんごとなき姫は沢山の家来を連れており、牛車の周りには侍従や近衛士が付き従っていた。しかし、生まれの高貴な幼き者にとって、それは日頃の生活の一部にすぎない。(ただちやほやされるだけでご機嫌になれるとすれば、それは本当の高貴さではない――ともいえる)


 少女は殺風景な景色に嫌気がさし、侍女との遊びにも飽き、ままごとの人形をぽいと放る。道はでこぼこで牛車の乗り心地は悪いし、どこまでも続く荒れ地は見ていると気が滅入ってくる。普段、御所から見下ろしている地上には、鮮やかな屋根瓦や緑の畑が広がっているというのに。本当にここは父上が治める国の中なのかしら?

 この姫君の御成りは、他でもない彼女が十一歳の誕生日を迎えたことによる、正式な皇族の仲間入りを果たす儀式の一つであった。


 ところで、牛車にはもうひとり、姫と同じ年頃の娘が同乗していた。侍女よりも質素な着物は寸法が合っておらず、ぶかぶかの袖の下で両手にはゆるく枷がはめられている。


「あっ」


 牛車が揺れた拍子に、姫の人形がぽろりと落ちてしまった。腕を伸ばして落ちかけた姫をあわてて侍女が引き戻す。


「なにをしているの。さっさと取りにおいき」


 侍女が娘に命じる。娘はさっと目を伏せて、急いで牛車から飛び降りた。人形は道から逸れて、谷底に向かってころころと転がっていく。はやく捕まえなければどんどん遠ざかってしまう。

 優雅に前進を続ける牛車に背を向けて、彼女は小走りに人形を追いかけた。沓(くつ)を履かない、布を巻いただけの足は、走るたびに鋭い砂利を踏む。痛みをこらえてようやく追いついたと思っても、今度は枷が邪魔でうまく掴めない。足場の悪い斜面では、どうしても身体を支えるのに腕を使う。両腕を繋がれたままそれらを両立させるのは容易ではなかった。


 そうして手間取っているうちに、人形は錆溜りに落ちてしまった。

 ああ、どうしよう。娘は苦労して拾い上げた人形を、袖で拭った。人形の髪に、汚れがついてしまっている。

 娘はとぼとぼと――しかし急いで――牛車に戻り、侍女の平手打ちを受けた。


貊氊ばくせん


 そう罵る侍女の視線は、娘の髪の毛に向けられていた。姫君や侍女、牛車の周りを固める警護の者たち。この旅に参加している者は、皆黒い髪をしている。この娘を除いては。

 娘の髪は、日差しに透けるススキ穂の色をしていた。肌は乳のように白く、瞳は飴色である。その淡く儚げな容姿は、国によっては美の基準を満たすにあまりあったが、生憎この国の者にとっては、絵巻に描かれている鬼子が、その風貌に近い。

貊氊ばくせん』とは、彼らにとって主に北方の異民族を総称して言う言葉であった。獣臭い野蛮人という意味である。遊牧し、農耕をしない民。馬で草原を駆け、定住せず、略奪に明け暮れている。ゆえに、蔑みをこめて、貊氊ばくせん


 この幼い貊氊ばくせんの少女は、姫君の初めての御成りに際し、主に毒見役のために奴隷市から連れてこられていた。いざとなれば影武者にもなるだろう。侍女の荷物の中には髪を黒く染めるための粉が入っているのを、彼女は知っている。


 この旅が無事に終わったら、どうなるのだろう、と少女は考える。また売り飛ばされるのかしら。それとも城の片隅で下働きとして働くことになるのかしら。働くのは好きだ。けれど、見下され、意地悪をされるのはごめんだ。娘はつい、汚れた人形に自分を重ねた。あなたは私が拾ってあげたのよ。


「そうですわ、姫様」


 侍女が明るく言う。


「姫様の大事なお人形を汚しましたので、この者は大変苦しんでおります。どうかこの貊氊ばくせんに責任を取らせてやってくださいまし」

「責任を取るって、お前、いったいこの子に何ができるというの?」


 姫が首をかしげると、かんざしがチラチラときらめいた。綺麗だなあ、とぼんやり眺める少女の髪を、侍女がむんずと掴む。


「この娘の髪、妙な色をしておりますが長さは十分。切り取って縫い込めば、お人形ももとの美しい姿に戻りましょう」


 娘の髪を切って、汚れた人形の髪の代わりにしようというのだ。流石に姫君も驚いたのか、しばし言葉を失った。


「ちょうどここに染め粉もございますし」


 侍女は荷物の中から粉の入った容器を出してみせる。

 姫は少し考え、侍女の持つ粉を見た。これを使えば、娘の淡い色合いの髪は、たしかに黒く染まるだろう。


「そうね! ねえお前、私にその髪をくれるでしょう?」


 姫は無邪気に尋ねた。娘は人形と姫を交互に見つめ、うつむいた。

 私の髪は、玩具ではないわ。

 そう言えたら、どんなに良いか。実際、喉までその言葉は出かかった。だが、侍女の形相が目に入るとその気力も萎えてしまう。


「……どうぞ、お好きなだけ」


 あはは、と姫君は手を叩いて喜ぶ。侍女が勝ち誇った表情で、染め粉を手に取った。


「ちょっと待って」


 それを見て姫が止める。今にも娘の頭に粉を振りかけようとしていた侍女は、やや焦れったそうな表情になったが、姫相手に不敬だと気づき、あわてて穏やかな微笑みを浮かべた。


「いかがされましたか?」

「……やっぱり、染めるのはなしにしましょう。そのままがいいわ」


 というのも、姫にとって、人形をもとに戻すことよりも、珍しい金髪を我が物にできるということのほうが、魅力的なことに思えたのだ。


「まあ……」


 侍女は不承不承染め粉を荷物の中に戻す。だが気を取り直し、今度はハサミを手に取った。

 ジャキ、ジャキ、と髪が切り落とされる音を聞きながら、娘はぐっと両手を握りこんだ。

 人形の髪は、もともとが人毛でできている。汚れを吸着しないので、丁寧に拭けば落ちるはずなのだ。わざわざ娘の髪を刈り取る必要などない。(この侍女が異民族を蔑みながらも、獅子のたてがみに似た金髪をうらやんでいることを、誰が知っているだろう)

 腰まであった髪は、肩上まで切られてしまった。人形用にするにはいささか多すぎる量である。


「宮にはいつ着くの? このままでは日が暮れちゃう」

「もうじきですよ姫様。もう〝銀の谷〟に入りましたからね。この道を抜ければ、〝磺宮あらがねのみや〟が見えてきます」

「お腹が空いたのよ。宮におまんじゅうはあるかしら……」

「すぐに用意させましょうねぇ」


 侍女が猫なで声で言う。

 二人が楽しげに饅頭だの焼き菓子だの、果物の砂糖漬けだのと話している。こんな寂れた場所に、そんな贅沢な食べ物があるものだろうか。仮にあったとしても、毒見のためでなければ決して娘の口には入らないのだろうが。

 首がすうすうして落ち着かなかった。それに、不揃いな毛先が頬にあたってかゆくてたまらないのだ。ポリポリと指先で掻くが、掻けば掻くほど余計にかゆく感じる。


 そのとき、牛車が妙な揺れ方をした。

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