第2話 大地の声 闇の中の出会い②
「……?」
それは一瞬のことだったので、他の者は気にも留めなかったらしい。だが、娘の聡い耳だけは奇妙な音を拾っていた。
地の底からのぼってきて、空気を震わせるような――これはいったい、なんの音だろう?
山から一斉に鳥たちが飛び立った。巨人が足を踏みならしたような音がして、一呼吸ののち。
「わっ!」
「――地震だあ!」
大地の鳴動は、地上の者たちをにわかに混乱に陥れた。
「揺れてる!」
「牛車を守れ!」
「姫君!」
隊列が乱れ、牛車を曳いていた牛が暴れ出す。
「いやあっ、助けて! きゃああ」
侍女の金切り声が響く。がたん、がたん、と牛車が揺れ、鈴がけたたましく不快な音をたてた。
牛が恐慌状態に陥り、一時野生に戻ったかのように暴れ始める。従者の制止もむなしく、その巨体が牛車に体当たりをした。
「あっ」
娘は牛車から放り出され、数秒後、牛車は横倒しになった。
「姫君を救出しろ! はやくするんだ。牛をなんとかしろ!」
「しかし、この揺れでは――」
「どけっ」
数人の近衛士が娘を乱暴に突き転がす。誰も彼もが、揺れ動く地面の上で思うように動けず、互いにぶつかり合っていた。
娘は地面を這い、牛車から離れる。誰も、彼女のことを気に掛けない。
「はぁ、はぁ……」
揺れがもう少しで収まりそうだ。今なら立って動ける。
娘はよろめきながら立ち上がると、きょろきょろと周囲を見渡した。
「姫様ぁ――!!」
倒れた牛車の側から離れたところで、侍女が叫んでいる。彼女も同じように放り出されていたらしい。中に残されているのは、姫君ひとりだけ。侍女は暴れ牛を恐れて近づけない。
従者が数人がかりで牛を引き離した。何人かは弾き飛ばされて転がる。
近衛士が牛車の戸に手を掛けるが、びくともしない。牛がぶつかった衝撃で、蝶番が歪んでしまったのだ。
「
「狭すぎる、我々では入れない! 女官は」
「この侍女も無理だ。肥っている」
皆が娘を見た。彼女の小さな身体なら、牛車の中に入れるだろう。
「お前、こっちに来い! 姫様をお救いしろ!」
「卑しい
近衛士たちが近づいてくる。娘は恐怖した。この人たちは、自分たちの姫を助けるために私の手を借りたいのだわ。いいえ、借りるつもりは毛頭ないのよ。所詮、
もし、牛車の中で姫が死んでいたら、一体誰が責任を取らされるのだろう? 侍女は確実に咎められるだろうし、重い罰を受けるだろう。そして、彼女が申し開きをすることがあれば、間違いなく私を犯人に仕立て上げる。
「
娘は叫んだ。今まで出したこともないような、はっきりとした大声で。
「あなたたちの姫は、あなたたちの手で救うがいい!」
すでに大地は鎮まっていたが、娘は己の足ががくがくと震えているのを感じた。けれど、力も湧いてきている。自身を解き放つべく、己の中でなにかが目覚めていた。
娘は駆け出した。唖然としている者たちを置き去りに、灰色の地面をひた走る。
朱色の旗がみるみる遠ざかっていく。怒号も叫びも小さくなっていく。ぶもー、という牛の悲しげな声だけが最後まで聞こえていた。
* * *
こっち、こっちにお逃げよ。
荒れた大地が、娘に親しげに語りかけた。
こっちにおいで。逃がしてあげよう。守ってあげよう。
娘は岩壁にぽっかりと口を開けた洞穴を見つけ、飛び込んだ。そこには水が流れた痕があった。床面がとてもなめらかに削れていて、娘は足を滑らせた。
そのまま勢いにのって、彼女は闇の中に落ちていった。
洞窟の中は、うっすらと明るかった。燐光を発する地衣類が、岩壁を覆っているのだ。ずいぶん深くまで落ちてしまったが、わずかに草――キノコ?も生えている。
自分を捕まえにくる人間は、いない。
近衛士たちは姫君を救出しただろうか。
姫は――無事だっただろうか。怪我をしているかもしれない。下手をすれば死んでいるかも。牛車があんなに揺れたのだから。
実際のところ、姫を見捨てて逃げたことに、心が痛まずにはいられなかった。怖くて痛い思いをするのは誰だって嫌なはずだ。
勿論、この国の人間は嫌いである。姫だって、
姫はあの侍女のように、娘を特別に敵視していたわけではなかった。ただ関心がなかっただけだ。
「お前が毒見をするの。へえ、そうなの」
姫が最初にかけた言葉である。名前を尋ねることすらしなかったし、自らの名も名乗らなかった。それだけのことなのだ。
「私は……ミリよ」
「行商と音楽が得意な母さんから生まれた、天涯孤独のミリよ」
ミリは、溢れてきた涙をぐいと拭った。
こっちにおいで、ひとりぼっちのミリ。可哀想なお前を助けてあげよう。
洞窟を通り抜ける風が、人の声に似た音を奏でる。ミリはその場に立ち尽くした。
こっちにおいで。さあ。
こっちにおいで。
こっちにおいで、こっちにおいで。
いい子やいい子。
野原を駆ける子兎や。
こっちにおいで。気をつけておいで。
空高く、上からトンビが見ているぞ。
いい子やいい子。
穴の中でお眠りよ。眠ればトンビにも見つからぬ……。
ちがう、本当に人の声がする。唄を歌っている。子守唄だ。
この唄は知っている。昔、母さんが歌ってくれた。
「母さん、なの……?」
ミリは壁に手をついて、ゆっくりと歩き出した。声はところどころ掠れて、弱々しい。
なめらかだった足下が、ゴツゴツした感触に変わった。土塊と砂利が積もり、ところどころ木片のようなものが落ちている。
声が、すぐ近くから聞こえた。
「母さん? 母さ――ん!!」
「……誰かいるのか?」
呼びかけに応えたのは、母の声ではなかった。
「いるなら、ちょっと手伝ってくれ。動けないんだ」
その声を聞いて、ミリは少し首をかしげた。男にしては高く、女にしては低い。歳はまだ若いだろう。だが、この人物が男なのか女なのか、ミリにはどうしても判別がつかなかった。
「ここだ。ここにいる」
声は随分低いところから聞こえた。かがんでみると、ミリの腕が軽く掴まれる。ミリはびっくりして「きゃっ」と叫んだ。
「あ、ごめん」
その者は謝る。
「驚かせたね。私も驚いたが。こんなところに人がいるなんて思ってもみなかったから……。まあいいや、手を貸してほしい」
彼?はどうやら寝そべった体勢で身動きが取れない状況にあるらしい。ミリが手探りしてみると、倒れた身体が途中で土砂に埋まっているのが分かった。
「これ……」
「さっき地震があっただろう」
ここは坑道なのだと彼は言った。崩れた坑道の土砂に埋まってしまい、運良く岩と岩の隙間に入ったので命は助かったが、足が抜けなくて困っていたと。
「こうどう……?」
「このあたりじゃ、銀を採るために穴を掘っているんだ。そうやって地面から資源を採るための場所を鉱山と言って、掘った穴を坑道と言う」
青年――と便宜上呼ぶことにする――は、本当は一刻もはやく抜け出したいだろうに、丁寧に説明をしてくれた。肝が据わっているのか、それとも暢気なのか。
「そこに折れた支柱がある。君でも動かせそうなやつだ。そいつをここに差し込んでくれるかい?」
ミリはとりあえず言われた通りにした。そして思い切り踏めと言われる。意味が分からず青年に問うと、てこの原理だと言われた。
「こうやって……これでいいの?」
「ああ、これならいけそうだ……。ふんっ!」
青年はうめき声を上げながら、身体をよじる。ミリの軽い体重で岩を持ち上げるなど無謀にしか思えないが、青年が自分を引き抜く力と合わせれば、なんとかなりそうだ。
「あぶない!」
青年が抜け出すと同時に土砂が崩れる。彼はミリを抱えて脇に転がった。
「助かった……」
青年が重いため息をつく。
「巻き込んで悪かったね。大丈夫かい?」
命が助かった途端、どっと疲労感が彼を襲ったようである。青年はミリを気遣いながらも、声色が暗くなっていく。
「あの、さっき、唄っていたのは、あなたなの?」
ミリの問いに、青年は「ああ」と重々しくうなずいた。
「そうだよ」
「どうして?」
母ではなかったという失望感が、ミリを襲っていた。母なら良かったのに。ひょっとしたら迎えにきてくれたんじゃないかと、淡い期待を抱いてしまった。
青年は、ミリのがっかりしたような様子に首をかしげながら、答えた。
「……もう死ぬんだと諦めていたからね。自分を慰めてたんだ」
ここは、鉱山である。
「一緒に穴を掘っていた仲間が……」
青年は土砂を指さしかけて、やめた。幼い少女に聞かせることではない。
彼らは、今も土砂の下に埋まっている。少し前まで声がしていた。生きていた。だんだん声が小さくなっていき、ついに途切れたとき、彼はみなの死を知った。
子守唄は、せめてもの手向けのつもりだった。遺体を掘り出すことは不可能だ。弔ってやりたくとも、ここに捨て置くしかないのだ。
そんな惨い死の顛末を、命の恩人の少女に聞かせるべきではない。きっと心に傷を生む。いくらこのむなしさを訴えたくとも。だから黙った。
「……さあ、ここから出よう。また崩れるかもしれない。このあたりの土は、脆いから」
青年が手を差し出してくる。ミリは戸惑った。どうすればいいのだろう、この手は?
「どうしたんだい? 危ないから、私と手をつなごう」
大丈夫だよ、ほら、と青年がミリの手を握る。分厚いタコのある、ざらざらしたたくましい手だ。けれど思ったよりも細い。そして温かい。
ミリはそのぬくもりにひどく安心した。たとえ青年が、ミリの嫌う国の人間だとしても。
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