第3話 大地の声 闇の中の出会い③

 青年のいた坑道が崩れた際、ミリの落ちた洞窟と繋がった、ということらしい。

 二人はなんとか地上へと這い出した。空のまぶしさにミリは一瞬目を閉じる。

 はっと気がつくと、青年がじっとミリのことを見つめていた。


「あ、の」


 ミリが顔を歪め、つないだ手を離した。日の下に出たからもう必要ない。

 それに、ミリの特異な風貌を見て、青年はどう思うだろう。(そして、やはり太陽の下でも、彼が男なのか女なのか、その見た目からは判断がつかなかった。全身泥だらけならなおさらだ)

 彼の口が開き、「貊氊ばくせん」という単語を――発することはなかった。


「ありがとう。おかげで助かったよ」


 青年は膝をつき、ミリの服についた泥をはらった。


「膝と脛をすりむいているね。歩くのはつらくないかい?」

「だい、じょうぶ……」


 怪我をしていることなど、気付かなかった。牛車から放り出されたときか、逃げているときか、洞窟に落ちたときか。いずれにせよ、痛みを感じるひまなどなかったのだ。


「この枷は?」

「これは……」


 青年が怪訝そうに、ミリの鎖に触れる。長さがあるので、難しい動きをしなければ不自由は少ないことは、彼にも分かった。


「嫌だろう、これ。外すよ」


 青年は鎖を手に取り、ぐっと思い切り引っ張った。するとそれはギチギチと音をたて、やがてぶちりとちぎれる。なんという怪力か。


「とれた……?」


 ミリは自由になった手首をさすった。鎖で擦れたところは赤くなっているが、じきに治るだろう。

 肩が軽い。頭も、なんだがすっきりしたような。

 まさかこんなに簡単に外れてしまうとは。ミリはまばたきした。

 この鎖はきつく縛っていたのだ。身体ではなく心を。そうして抗う気力を奪っていく。支配する者の都合がいいように。


「よく頑張ったね。強い子だ」


 青年が微笑む。彼はミリのことなど、なにひとつ知らない。鎖をつけられた異民族の子。奴隷であることは、察しがついたかもしれないが。

 他人の所有物である奴隷を勝手に解放することは、どの世界でも御法度のはずだ。それなのに、こうもあっけなくやってしまうものなのか。


 長い間、ミリはひとりぼっちだった。母と別れてからは、守ってくれる手も、気遣ってくれる声もなく。助けてなんて言うこともできずに――だから誰も助けてくれなかった。


 ミリがこみあげてくるものを我慢している間、青年はふっと沈痛な表情を浮かべる。彼も仲間を失い、孤独の底にいた。

 日が傾きかけている。戻らなければ。青年は、自らの影に目を落とした。本体から離れたがっているように、長く長く伸びている。

 青年は、この少女を助けてやれない自分に憤っていた。彼もまた、ここ〝銀の谷〟に縛られた坑夫どれいの一人だったからである。


 こっちにおいで、こっちにおいで。

 いい子やいい子。

 野原を駆ける子兎や。

 こっちにおいで。気をつけておいで。

 空高く、上からトンビが見ているぞ。

 いい子やいい子。

 穴の中でお眠りよ。眠ればトンビにも見つからぬ……。


 頭上を見上げれば、天高く旋回するトンビの姿が見えた。

 トンビが兎を狩ることが自由なら、兎がトンビから逃れることだって自由のはずだ。自由とは平等で、残酷なものだ。自然の中ではそれがはっきりしている。

 青年の目は空を映していた。

 奴隷を使役することが特権なら、支配から逃れるのもまた、特権たりうるだろう。兎を狩る権利をもたないトンビはいないし、トンビから逃れる権利をもたない兎だっていない。


 少女の鎖を壊した瞬間、青年の心の鎖もまた砕けたのだった。

 あと少しだけ、力が必要だ。追い風が必要だ。

 青年はそれを、この少女の中に見出したかのように思った。


「君、名前はなんというんだい。私はテルだ。今日、君に救われたテル」


 ミリは顔をあげ、青年の顔を見つめた。


「私は、ミリ。今日、あなたに枷を外された、ミリ」


 日没。夜の帳が降りていくが、不思議なことに暗く感じない。空にはまだ、光が残っている。

 天空でトンビが一声鳴き、どこかへ飛び去っていった。


*   *   *


 この物語は、【朱瑠アケル】という国を起点にして始まっている。


 朱瑠アケルは大陸随一の帝国であった。帝都ミハラは階段状の台地を中心に、外郭が幾重にも同心円を描いている。その壁と壁の間に広がる街は商いの中心地であり、そこからさらに外側は豊かな穀倉地帯で、川を行き交う船は収穫物を満載し各地へ運んでいく。


 台地の上には漆喰しっくい弁柄べんがらに彩られた建造物群――伽藍がらんとも言う――がある。そこは帝や皇族の住まいであり、百官が政務を執り行う。世に〝御所〟と呼ばれているところである。


 皇太子タケルヒコは自らの執務室で、「銀の谷で災いあり」との報告をうけたばかりだった。


「それで、六の姫の安否は」


 六の姫、六番目の姫。皇太子の末の妹である。

 秘書官が報告書を読み上げた。


「かすり傷を負われたものの、無事に磺宮あらがねのみやにお入りになりました。非常に落ち着いておられ、ご立派なご様子であるとのことです。随従した者たちにも被害はありません。奴隷が一人逃げ出したようですが、周囲は人家もない荒野で、夜は野犬などの獣がうろつきます。生きてはおるまいと捨て置かれました」


 タケルヒコはふーっと息を吐いた。


「ならば良い。早馬で戻ってきた近衛士には十分な休養をとらせよ。……さて、そろそろもう一人の妹が駆け込んできそうだな」


 その言葉どおり、執務室の扉が勢いよく開かれる。現れたのは一の姫であった。


「ナナクサよ」


 皇太子は名を呼んでたしなめる。


「息を落ち着かせよ。ぜんそくがひどくなるぞ」

「兄上」


 ナナクサは肩で息をしながら、ふらふらと兄の机に寄った。秘書官がさっと椅子を差し出したので、遠慮なく腰掛ける。


「ユズリハが無事というのは聞きました」

「そうか」


 六の姫ユズリハは、この兄と姉にことさら愛されており、十一歳を無事に迎えたことを一番に喜んだのも、帝と皇后を除けばこの二人であった。


「しかし兄上、ご存じでしょうか。銀の谷を襲った地震ですが、六の姫の儀式を目前に不吉な兆しなのではないかと官が噂しているとか、いないとか」

「ふむ」


 タケルヒコは眉を寄せた。

 皇族の子は十歳までは神の子として天界に属するとされる。帝国が祀る主神は性別を持たぬ独神ひとりがみで、ゆえに皇族の子も十歳までは性別を伏せて育てられる。その間は一の君、二の君などと呼ばれ、十一歳を迎えると人界に降りて皇族に迎えられ、一の皇子、一の姫などと号が変わるのだ。(このたび十一歳を迎えた六の姫は、帝の十番目の子であったので、それまでは十の君と呼ばれていた)


 古来より帝は天の神から王権を授かった者。また人でありながら神の一柱として玉座に座る。その血を引く者もまた神の一族となり、帝の治世を支えるものとされてきた。

 帝の子が増える、すなわち、それだけ天の祝福を受けた支配者ということなのだ。ゆえに皇子や姫の成長は非常に尊ばれていたのである。

 逆に育たなかったり問題があったりすれば、十一歳を迎える前に〝神子返し〟され、存在そのものを記録から抹消されることもしばしばであった。


 今上帝の治世においても、〝神子返し〟されたきょうだいがいたらしいことを、タケルヒコは耳にしたことがある。皆恐れて口をつぐむので、詳しいことは分からず、当時タケルヒコも幼かったので、そのきょうだいのことはよく知らない。また、心根の優しい皇太子に、宮廷の汚点を話す者などいなかった。


 だが、そういった事情があり、、帝の気苦労が絶えなかったことを、長子となったタケルヒコは知っている。

 結局タケルヒコ、ナナクサ、ユズリハを産んだアサガオという妃は、三人の優れた子を産んだ功によって皇后の位に叙せられ、後宮で権勢をふるっている。


「こたび一番気を揉むのは帝であろうな。神官はなんと言っておるのだ。よもや父上に、儀式は不吉なり止めるべしと進言してはおるまい?」

「神官とて、首と胴とが泣き別れになるのは嫌でございましょう。なにより皇后が怖い。ただでさえ私がこの通り病弱でございますから、ユズリハの儀式が不吉とされれば、立場がなくなりましょう」


 ナナクサは「こほ、こほん」とわざとらしく咳をしてみせる。タケルヒコは「そなたは……」と呆れた顔をした。実母にとんだ言い草である。

 二人が話している間、入室してきた下官が秘書官に耳打ちをしていた。

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