第16話 祭り⑤
彼の言う〝隠れ家〟とは、町の一郭にある高級旅籠だった。
「金さえあれば、
彼は宿の女将に、もう一部屋都合してくれるように頼んだ。女将は承知して、すぐに手入れの行き届いた小部屋を用意してくれた。
「さて、あんたは運が良い」
ゾラがテルを見ながら言う。
「こう見えて、おいらは薬草師でね。勿論、医術の覚えもある。その腹」
彼はテルの傷を指さした。
「縫わにゃいかん。さもないと傷口から臓物がまろびでる。あんた、さっきから
そんなにひどいのかとミリはテルを見た。濃い色の着物を着ているせいで、にじみ出た血の染みの大きさが定かではない。テルは平気そうな表情をしていたが、顔色は青ざめ、額には汗が浮かんでいた。
「そこに横になりな。処置してやる。お嬢さん、女将に頼んで清潔な布と湯、それと酒を用意してもらってくれ」
ミリはうなずいて、さっと部屋を出て行った。
畳の上に身を横たえたテルに、ゾラは言う。
「あいにく麻酔がない。痛み止めくらいはあるがね。それでも縫われてる最中は痛むもんだ。あんた、平気かい? まあ、平気じゃなくてもやるしかないけどな」
テルは浅く息を吐き出しながら、「平気だ」と答えた。
布と湯と酒を携えてミリが戻ってくると、ゾラはすっと真面目な顔になって縫合の準備を始めた。まずテルに痛み止めの丸薬を飲ませる。次いで自身の手を酒で洗い、行灯の火で縫合針をあぶった。
血が染みこんで重くなっているテルの上衣をゆっくりと脱がせる。あらわになった身体を見て、ゾラは一瞬、動きを止めた。
「あんた――」
彼は何かを言いかけたが、「いや、なんでもない」と首を振ると、処置を続けた。
布を湯に浸してしぼり、傷のまわりにこびりついた血液を丁寧に拭き取っていく。
ミリは隣でその様子を見ていたが、傷の具合がよく見えるようになると、ぎゅっと唇をかんだ。
テルが負った傷はとても深い。それなのに、今までうめき声もあげずに耐えていたのだ。ミリを心配させないために。
私のせいだ。ミリの表情は暗く落ち込んだ。
「お嬢さん」
針に糸を通しながらゾラが言う。
「これから腹を縫い合わせる。痛いぞ。手でも握っといてやんな」
ミリはうなずき、テルの右手を握った。
「ありがとう」
テルがかすかに微笑む。
そこへ、容赦なく針が突き刺さった。文字通り身を刺す痛みに、テルの表情がこわばる。
すっすっと糸が傷を閉じていく。ゾラは非常に手際が良かった。素人であるミリの目から見ても、その手つきは鮮やかである。しかし握っているテルの手が時折びく、と痙攣するのが分かり、相当痛むのだろうと思われた。
「……終わったぜ」
ぷつん、と糸を切ってゾラが告げる。
永遠のように思われた時間が終わったとき、ミリはつめていた息をようやく吐き出した。
「テル、大丈夫?」
ミリがそっと問うと、テルは額から汗を流しながら、「喉が、乾いたな」と言った。ミリは汗を拭ってやりながら、「水をもらってくる」と言った。
「おいらの分も頼む。できれば薬缶に入った湯がいい。茶を淹れたいんでね」
ゾラが道具を片付けながら言う。ミリはうなずき、再び部屋を出て行った。
「しばらく安静にしないとな。どれ、包帯を巻こう。身体を少し起こせるかい」
包帯を巻かれている間、テルはゾラの髪をじっと見ていた。ミリの髪色と非常によく似た金髪だ。
「あなたは、あの子と何か関係が?」
テルが問うと、ゾラは「ああ」と言った。
「同郷の者だ」
「たしかに、よく似ている」
「この髪だろう? まあ、北の方じゃよくある色なんだがな。この国じゃあ少々目立つから不便なもんだ」
「故郷はどこなんだ? あの子は幼い頃から母親と旅をしていて、自分の故郷を知らない」
そのとき、ミリが湯飲みと薬缶を持って戻ってきたので、「ちょうどいい」とゾラは言う。
「おいらも、いろいろと話したいことがある。まずは茶でも飲もうや」
ゾラは三人分の茶を淹れながら、ミリの顔をじっと見る。
「おいらたちは、ずっとあんたを探してた。〝水晶の歌のアリ〟の娘をな」
母親に瓜二つだ、と彼は言う。
「まず、名前を聞こうかね。やっこさんの名前はさっき聞いたから、次はあんただ」
ミリはうかがうようにゾラを見て、「……ミリ」と答える。
「ふむ、ミリ、ね」
彼はうなずいた。
「となると、本名はミリィザ・マハリリヤだな」
ミリは目を丸くした。「ミリ」は本当の名前ではなかったのか。
驚いた様子の少女を見て、ゾラもまた驚いたようだった。
「いや、あんたの名前はミリィザ・マハリリヤで間違いない。マハリリヤ氏族のミリィザ。ミリってのは愛称だ。お袋さんはアリィザ。『ィザ』ってのは、おいらたちの言葉で〝尾〟を意味する」
「尾?」
「氏族の守り神が、蛇なんだ。豊穣の女神ダーナ・ハリ。蛇の尻尾はハリィザ。『ィザ』ってつく名前は、まあ女神にあやかってつけられたんだな。マハリリヤの女子はだいたい『ィザ』がつくんだ」
本名を娘に教えなかったということは、出自を知られないためか……とゾラはぶつぶつ言う。
「うん、なるほど。だいたいつながったな。やっぱり、お嬢さん――いや、ミリィザ・マハリリヤは〝ヴィカ・チャハリ〟なんだ」
「〝ヴィカ・チャハリ〟?」
どこかで聞いたことがある、とミリは思った。一体どこだったろう。
ミリの記憶はテルとの暮らしの中を遡り、銀の谷にまで行き着いた。
そうだ、あの時。ミリははっとした。川で出会った女。彼女は、ミリを見ると驚いた様子で、〝ヴィカ・チャハリ〟を知っているか、と尋ねたのだ。
思えば、彼女は同胞だったのだろう。それを確かめる符牒が〝ヴィカ・チャハリ〟だったのだ。
「〝ヴィカ・チャハリ〟と聞いても意味が分からんだろう。『ィザ』と同じく古代語だからな。〝隠された子蛇〟を意味する言葉だ。単語を意味で区切ると〝ヴィカ/チャ/ハリ〟〝隠された/子供/蛇〟」
「なるほど」
ミリはうなずいた。
「でも、それが私とどういう関係が?」
すると、ゾラは待ってましたとばかりに身を乗り出す。まるで子供が秘密を打ち明けるときのように、その目は明るく輝いていた。
「あんたが女神の子ということさ」
「は?」
きょとんとするミリに、ゾラは「そりゃそうなるわな」と姿勢を戻した。
「まあ、長くなるが、同郷の者として話しておかなきゃならない。アリィザがミリに話さなかった理由も、分からないではないがね。今はそう言ってられない状況なんだ。言ったろう、おいらたちはあんたを探してたんだ」
マハリリヤ氏族の守り神は豊穣の女神であると同時に、大地の精霊の母とされている。
北方大平原は、古来の精霊の影響が色濃く残る土地だった。ゆえに、平原の民は精霊の力が絶えた南の国々を「神なき土地」と呼んでいる。
マハリリヤ氏族領は特に大地の力が強い土地柄で、そこで生まれるマハリリヤの民には、精霊が宿ることが時々あった。それがダーナ・ハリの子蛇である。
〝
「私の中に、蛇が?」
ミリは気分が悪そうに言った。ゾラは苦笑する。
「まあそう言ってやるな。別に害があるわけじゃない。同じ身体を共有していると思えば良い」
むしろ、子蛇は宿主に恩恵を与えるのだと言う。
「なんか、自分が他の奴と違うと感じたことはないか? 勘が鋭いとか、鼻がよく利くとか、見えざる者と会話ができるとか」
「あ」
ミリは口をあけた。
「地面が話しかけてくる……けど」
「ほほう」
ゾラは顎に手を添える。
「地面は、あんたになんて言うんだ?」
「よく、分からない。いつも、なにかを教えてくれる気がする、けど」
ミリはしどろもどろになった。子蛇の恩恵だと? 地面はいつも突然話しかけてくる。会話ができたことはない。いつも、一方的に声をかけてくるだけだ。
ミリは気を落ち着けるために、冷めかけた茶を一口飲んだ。ゾラはこの国の茶の淹れ方をよく知らないのだろうか。かなり苦くなってしまっている。
ゾラが言うには、宿主の中で子蛇が孵ると、宿主を守るために不思議な力を与えるものらしい。
「そういう〝
「私だけ……」
「そう。だから、おいらたちはあんたを探していたのさ。他ならぬ、アリィザも〝
「つまり」
横たわったままのテルが口を開いた。
「マハリリヤ氏族の権力を維持するために、この子が必要ということか」
「まあ、そういうことだな」
ゾラは正直にうなずいた。彼自身の性格は実にさっぱりとしているように見える。ごまかしや嘘を好まないのか、あるいは相当な役者なのか。
「ミリの父親は? マハリリヤ氏族にいるんだろう?」
テルが問うと、ミリも興味深げにゾラの返答を待った。ゾラは姿勢を正し、まっすぐにミリを見つめる。
「――アンダム・ジュスル」
彼は告げた。
「あんたの父親の名だ。この国じゃあ、北原将軍のほうが通りが良いかな?」
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