第28話 大北壁にて③

 気がつくと、ミリは先ほどの部屋とは別の、少し大きな部屋に通されていた。ここはどこなのだろうとぼんやり眺めていると、公子が何かをミリに差し出す。

 鍵だった。


「しばらくはこの部屋を使うと良い。だが、念のため確認したいこともある」


 ミリは受け取った鍵をぼうっと見つめながら、「なぜ」と言った。

 公子は答える。


「マハリリヤ氏族は、我々と同盟関係にあった。その首長の娘とあれば、我々には保護の義務が生じる」

「……私は本当に、アンダム・ジュスルの娘なの?」

「北原将軍が、自由奔放な妻に手を焼いていたという話は聞いている。その女の他に妻をめとらなかったことと、その唯一の妻が名の知れた吟遊詩人であったことも。あの楽器」


 公子は部屋の隅を指さした。そこにはドゥーランガが運び込まれていた。


「あれはマハリリヤ氏族独特の楽器だ。奏法は非常に複雑で、まともに音を鳴らせる演奏者は数少ない。〝水晶の歌のアリ〟の他にも弾き手はいたというが、みな先の戦いで命を落とし、楽器もすべて燃やされた」


 つまり、現存しているドゥーランガは、〝水晶の歌のアリ〟のもの、たったひとつということだ。


「だが、〝水晶の歌のアリ〟は行方不明。彼女が手放した楽器を、なんの関係もないお前が手にしたという可能性もある。……もしそうなら、捕虜の立場に逆戻りだ」


 彼の言わんとすることは分かった。ミリはドゥーランガを手に取ると、そっと指を弦に添える。


 てん……


 ミリはゆっくりと音を奏で始めた。曲は『蝶々姫』。

 まるまる一曲弾き終わるのを、公子は最後まで聴いていた。


「分かった」


 公子はうなずいた。


「たった今から、お前は我がイルファン大公国の正式な客人だ。数日もすれば、ここより安全な場所へ送り届ける手筈も整う。それまでここで暮らしてもらうが、何か不便があれば言うといい。女手も必要なら手配しよう」

「安全な場所って?」

「大公の膝元であり、我が国の都、シンキという街だ」


 ミリが沈黙したのを見て、公子は言う。


「この砦は堅固とはいえ、平原の民の襲撃を受けることもある。客人を逗留させるべき場所じゃない」


 ミリはしかし、首を振った。


「私、朱瑠アケルに戻りたい」


 すると公子は「ばかな」と言った。


「また貊氊ばくせん貊氊ばくせんと指を差されたいのか?」

「……そうじゃないけど」


 ミリは両手を握りしめた。商家の娘に頭巾を払い落とされ、そのあとに起こったことを思い出すと、今でも身体が震えそうになる。


「でも、テルが私を探しているはずだから、戻らなきゃ」


 公子は「育ての親を恋しく思う気持ちは理解する」と言った。


「だが、お前はすでに、その辺にいる普通の娘とは違う。マハリリヤ氏族の生き残りで、アンダム・ジュスルの一人娘、しかも隠された子蛇ヴィカ・チャハリときている。お前を狙う者は多い。その意味を?」


 いつのまにか、己に絡みつくしがらみが増えていることにミリは気がついた。いや、増えたのではない。もとからあったのだ。ただ知らなかっただけ。

 それはまるで、手足を縛る枷のようであった。かつてはテルが鎖を引きちぎってくれた。だが、今はこの見えない鎖をちぎるすべはなく、テルも側にいない。

 ふとミリはある発想にいきついた。すなわち、テルにとって、自分は厄介者なのではないかと。――ゾラにも似たようなことを言われた。ミリはその言葉を受け入れなかった。しかし、自分を取り巻く環境が大きく変わったことを理解した今となっては、果たしてテルの側に戻ることが、本当に正しいのかどうか分からなくなってきた。


 私がいないほうが、テルは幸せになれるのかも……。


 ミリはうつむいた。心の中に宿っていた小さな炎が、落胆の雨に打たれ、見る間に輝きを失っていく。

 悄然と沈黙したミリを見やり、ユウジュンは内心でため息をついた。相手は齢十三の少女だ。どう扱ってよいか分からない。ユズリハ姫とそう歳も変わらぬはずだが、比較するのは酷というものだろう。皇族の生まれである姫の振る舞いは洗練されており、たとい落胆したとして表情に出すことは決してない。間違っても相手を困惑させることのないよう、常に計算しつくされた美しさを保っているのだ。対してミリはどうだ。事務官の質疑にも馬鹿正直に答える、取り繕うことをしない、己の立場を理解するのが遅い、思っていることが表情にだだもれ。――いや、これが普通なのだ。だが、宮廷にてあらゆる権謀術数を目にしてきたユウジュンからすれば、ミリはあまりにも危うい存在に思えた。都に送られたあとも、廷臣たちの鵜の目鷹の目の餌食になるのは間違いない。もはや力を失ったマハリリヤ氏族、その族長の娘。イルファンで言うところの没落貴族の娘と同義だろう。ミリを手に入れたいと望む者も現れるはずだ。ただの物珍しい蒐集品のひとつとして。しかも隠された子蛇ヴィカ・チャハリともあれば――


 ユウジュンは考えるのをやめた。自分には関わりのないことだ。


「私、これからどうなるの」


 ミリがつぶやく。都に送られ、どのような保護を受けるのか――ということを訊きたいわけではないことは、ユウジュンにも分かった。これから訪れる運命という、もっと漠然としたものを掴みかねて、当惑した末に出た問いだった。

 そんなもの、ユウジュンとて分からない。ゆえに答えようもないのだった。

 しかし、ユウジュンは口を開いた。


「イルファンにはこんなことわざがある。剣は己が誰を斬ることになるのかを知らないが、人を斬る道具であることは知っている――分からない未来のために心を悩ますより、自分が何者なのかを見失わないことのほうが大事だ」

「私が、何者なのか……?」


 ミリは軽く首をかしげる。

 ユウジュンは柄にもないことを言ってしまったと、やや後悔した。だが、ミリが大真面目に「考えてみる」と言うので、うなずくしかなかった。

 部屋をあとにしたユウジュンは、ふうと息をついた。

 ミリの存在は、ゾラを取り調べるのに役に立つ。少女を利用しようという魂胆があるという点では、廷臣たちと自分はそう変わらないのかもしれない。

 傭兵たちはユウジュンをひとりの戦士として認め、尊敬さえしてくれる。だが彼は公明正大な武人であるだけでなく、策を弄するということを知っていた。武術においては兄より優れ、勘も鋭い。傭兵たちからの支持は厚く、大公からの覚えもめでたい。それらを活用するだけの才覚がある。彼は自分のずるさを自覚していた。

 だから、皮を剥かれた果実のような少女を前にすると、どうしても居心地が悪くなるのだった。

 ユウジュンは廊下を歩きながら頭を振った。余計なことを考えるな。少女が国都に送られれば、どうせすぐに忘れることだ。



 ユウジュンは再び地下牢に赴いた。


「殿下」


 見張りの傭兵が敬礼する。


「様子はどうだ」

「何も喋りません。どれだけ痛めつけようが、だんまりを決め込んでいます」


 ユウジュンは椅子に縛られているゾラを一瞥した。額から血をにじませ、朦朧としている様子だが、瞳にはまだ生気がある。


「そうか」


 ユウジュンは言った。


「では、あの娘を取り調べろ。子どもでも手を抜くな」


 その言葉に、ゾラが反応した。


「……無駄だ」


 ゾラはうめきながら、きっとユウジュンを睨んだ。


「あの子はお前たちが知りたいようなことは、何一つ知らない」


 それが真実であることは、すでに明らかになっている。だがユウジュンはおくびにも出さずに、片眉を上げてみせた。


「それを決めるのはお前ではない」

「あの子を傷つけるな!」


 叫んだのが傷に響いたのだろう。ゾラはうっと短くうめきながら、再びユウジュンを見上げた。

 長い沈黙が落ちる。

 やがて、ゾラの顔に諦観が浮かんだ。次いで、今までの態度が嘘だったかのように、あっさりと彼はうなずいた。


「……分かった。どの情報が欲しい」

「知りうること、すべてだ」


 冷淡に見下ろすユウジュンに、ゾラは歪んだ微笑を浮かべながら言う。


「あのお嬢さんとそう歳も変わらんだろうに、立派なもんだ。末恐ろしいね」


 ユウジュンは答えなかった。ミリは十三、ユウジュンは十六。たった三つの違いだが、成長過程にある若者にとっては大きな差だ。大人からは大した差異には見えないのだとしても。

 だがなにより、自分とあの少女では育ってきた環境が違う。ユウジュンには、暢気に過ごせる子ども時代などなかった。幼い頃より武術の鍛錬に明け暮れ、宮廷では大人たちの策謀にはまらぬよう慎重に歩いてきた。だがそれも行きすぎれば、公明正大たる公子の風評が損なわれる。どちらにも傾かず、常に水平を保つ天秤のような平衡感覚が必要不可欠だった。


 これまでユウジュンは大きな失態は犯さずに過ごしてきたが、唯一誤ったとすれば、武術大会で兄を負かしたことだ。強さがそのまますべての評価に直結するイルファンにおいて、第一公子であるダーロゥは、負けるべきではなかった。だが、わざと手を抜けば兄は必ず気づく。侮られたと怒るだろう。そうなれば自分は公明正大な公子という評価を失うことになる。とどのつまり、ユウジュンは己の立場を守れる方法をとるしかなかったのだ。兄の立場を脅かすことを承知の上で。


 ミリがむき出しの果実なら、自分は飾り切りを施された装飾品としての果実だ。味はともかく、見た目が美しければそれでいい。

 ユウジュンは意識して酷薄な表情を顔面に貼り付け、傭兵たちに尋問の再開を指示した。

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