第42話 邂逅③

 またしても矢が飛んできた。それはナナクサを狙ったものだったが、後ろにまたがっていた女がとっさに馬の向きを変えたために、ナナクサには当たらずに済んだ。しかし馬の胴に突き立った。

 馬が暴れ出したので、ナナクサは放り出される。だが、地面にたたきつけられる直前で、女によって受け止められた。あまりにも危なげなく、しっかりと抱き留められたので、ナナクサは驚いて瞬きした。


「あの草地から矢が飛んできている」


 女が言って、少し離れた場所にある草地を指さす。人の背丈ほどの草が生い茂っており、襲撃者はそこに身を隠しているのだ。


「砦まで逃げ切れるだろうか」


 タケルヒコがアスマに言う。アスマは首を振った。


「難しそうね。少し距離があるし、射られた馬が二頭とも逃げちゃったわ。さすがに一頭だけじゃ、二人逃げるのが精一杯よ」

「ここで対処するほかないな」


 タケルヒコは言い、腰から剣を抜いた。

 そのとき、不意に襲撃者が姿を現した。

 不健康そうな痩躯、前屈みの姿勢、うつろな表情。


「あれは!」


 ナナクサが目を見開いた。

 あの男は、ナナクサを暗殺しようとした者に違いない。

 すると、隣にいた女が「あなた方は逃げてください」と言った。


「彼は、私を追って来たんです」

「えっ?」


 ナナクサは驚いて女を見た。


「いいえ、違います。あの男の狙いは私たちです」

「えっ?」


 女も驚いたようにナナクサを見返した。

 男が匕首あいくちを手に、ナナクサへ襲いかかる。女がナナクサを突き飛ばし、振り下ろされた凶器を男の腕ごと掴んで止めた。


「ツキヒナ!」


 女が叫んだ。


「お前の狙いは私だろう。なぜこの人たちを襲う!」


 男は女を振り払うと、彼女に向かって匕首あいくちを突き出した。助太刀しようとタケルヒコが剣を構えると、女は「やめろ!」とタケルヒコに言う。


「なぜだ? 殺されるぞ!」

「彼は私の――」


 言った女の声は風にまぎれ、よく聞こえなかった。

 女は、そうは見えないのに力が強いらしい。男を押さえつけると、地面に組み伏せた。


「やった! 今のうちよ」


 アスマが二人に近づく。

 男からゴキッと嫌な音がした。途端、彼は女の腕からするりと抜け出る。アスマは唖然とした。


「まさか、自分で関節を外し――」


 男は腕の関節が外れたまま、身体ごとねじるように匕首あいくちを女に振り下ろした。

 助けられない――と誰もが感じたとき。

 女は、近くにいたアスマに手を伸ばした。正確には、その腰に佩いた剣に。


 すらりとそれは輝く刀身を現わした。


 キィン、と甲高い金属音を立てて、宝剣が匕首あいくちを両断する。


「ツキヒナ!」


 女が男を再び、組み伏せた。


「私は、お前と話がしたい……」


 女の言葉に、男の表情が、はじめて歪んだ。その薄い唇が、わずかに開く。


「……」


 男はしかし、すぐにもとの表情に戻ると、女をはねのける。草地のほうへ走り、姿を消した。それはあっという間だった。しばらくは遠ざかっていく足音だけが聞こえていたが、やがて静けさが戻ってくる。

 女は力なく座り込み、その方向を呆然と眺めるばかりだった。


「いったいどういうこと? 剣が――」


 アスマは、残された匕首あいくちの破片を拾い上げる。動揺を隠せなかった。

 タケルヒコは女に手を貸して立たせると、「怪我は」と尋ねた。女は静かに首を振る。


「あなたは何者なんだ」


 タケルヒコのまっすぐな視線を、女は受け止める。


「どうしてそんなことを訊くのですか」

「さきほどの男は、我々に仕向けられた刺客なのだ。私の妹は、一度奴に殺されかけている。……それに、あなたはその男の名を知っていたな。なぜだ」


 女は沈痛な面持ちでしばし沈黙し、「彼は」と絞り出すように言った。


「彼は、私の双子の弟だ」

「なんと……」


 絶句するタケルヒコの袖を、ナナクサがそっと引く。


「兄上、さきほどの『ツキヒナ』という名前、覚えがあります」


 ナナクサは信じられないものを見るような目で、女を見つめた。


「十八年前の事件、兄上も私もまだ幼く、覚えてはいらっしゃらないでしょうが。〝一の君の乱心〟――」


 その言葉を聞いて、女がぴくりと反応する。

 ナナクサは続けた。


「私、御所の禁書庫に忍び込んで、当時の記録を読んだことがあるのです。その事件で、乱心した一の君に刺された二の君の名前が、たしか『ツキヒナ』だったかと」

「ということは――」


 タケルヒコは瞠目した。


「あなたは、十八年前の一の君。〝神子返し〟されたはずの、私たちにとっては義理のきょうだいの――?」

「間違いないわ」


 アスマが横から断言した。


「オトワ叔母上から授かったこの剣は、もとはテルナミ様のものだったのよ。その剣を使えたということは、本人以外ありえないわ」


 風が吹き、四人の衣を巻き上げる。


「……まさか、私の剣がこんなところにあるとは」


 女――テルナミがつぶやいた。

 テルナミは三人に向き直り、ふっと表情を和らげた。


「そうか――あのときのきょうだいたちが……こんなに大きくなって」


 テルナミが一の君として御所にいたとき、タケルヒコもナナクサも幼子だった。今となっては皇子、姫たちの間では一番の年長者だが、あのときはヨルナギ妃が産んだ年上のきょうだいたちがいたのだ。

 一の君テルナミ。二の君ツキヒナ。三の君ハルギク。

 とくにテルナミは、十歳の頃にはすでに神童の呼び声高く、頭脳明晰にして明朗闊達、文武両道で荘厳華麗と、一点の曇りもない存在であった。


 タケルヒコは思い出した。御所の庭園で、はじめて一の君と出会ったときのことを。


 広い御所の中で道に迷い、庭園へさまよい出たタケルヒコは、花の生け垣の間に舞う一の君の姿を見た。

 剣を手に演舞を舞う一の君は、仙人の天界より舞い降りるがごとく、美しいという言葉さえ恥じ入って隠れるほどだった。所作のひとつひとつからにじみ出る神秘的な雰囲気――タケルヒコは夢見心地になって、その演舞を見つめていた。

 ふと、一の君がこちらの存在に気づく。


「おや、これはこれは、四の君」


 一の君は剣を置いて、タケルヒコのそばに膝をついて視線を合わせた。


「そなたの宮から、ずいぶん離れたところにまで来たね」

「みちにまよいました」


 タケルヒコがたどたどしく答えると、一の君は優しく笑って、


「それなら、送っていってあげよう。今ごろアサガオ殿が心配しているだろうから」


 一の君はタケルヒコを抱き上げると、宮への道を歩き出した――。


 タケルヒコははっと夢想から醒めた。

 改めて、目の前のテルナミを見る。

 あの頃の圧倒的だった輝きはもはやない。雰囲気は完全に只人のそれ――むしろ、今は顔色も良くなく、全体的にくすんでさえ見える。


「同情はいらない」


 見透かしたようにテルナミが言った。


「私と君とでは、全く異なる人生を歩んだ。それだけのことだ」


 タケルヒコは、言葉を探し、結局は黙り込んだ。


「どうして――」


 アスマが口を開く。


「どうして、あんなことをしたの? あなたが人を殺すなんて――私たち一族は、そのせいで――」


 彼の顔は歪んでいた。アカサギ家はテルナミの外戚にあたる一族だ。〝一の君の乱心〟事件の後、彼らは一度凋落の憂き目にあっている。アスマは当時幼く、そのときの記憶はあいまいだが、世間から向けられる視線の冷たさは感じ取っていた。


「……アカサギ家の」

「アスマよ。あなたとは又従兄弟になるわね」


 テルナミはアスマに向かって頭を下げる。


「……すまない。返す言葉がない」

「私は、理由が知りたいの。どうして、聡明と名高かったあなたが――」


 アスマの言葉に、テルナミは頭を下げたまま首を振った。


「答えられない。私には、あなたを納得させられる答えを用意できない」


 アスマは文字通り納得できないといった風情だったが、それ以上の追求は無駄だと悟ったのか、渋面のままテルナミから離れた。


「改めて名乗ろう。私はタケルヒコ。母は違えど、あなたの弟だ」

「ナナクサと申します、テルナミ様」


 テルナミは二人のきょうだいをじっと見つめていたが、わずかに口の端に微笑みを浮かべ、


「私のことはテルでいい。それで通っているんだ」

「テル……姉上?」


 テルナミは十一歳になる前に御所から消えたので、ついぞ性別が公表されなかった。タケルヒコはなんとなく男なのではないかと思っていたが、目の前のテルナミは女らしい。

 だが、テルは苦笑し、


「兄でも姉でも、好きに呼んでくれてかまわない」

「なによそれ、変なの。……まあ、私が言うのも変だって分かってるけどね」


 アスマの態度はややとげとげしい。

 気まずい空気の中、ナナクサがそっと声を上げる。


「……今はとにかく、前に進みましょう。また襲われないとも限りませんし」


 彼女の言う通りだった。

 一行は前方に見える大北壁に向かって歩き出す。

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