番外編ーside.椎ー
灰色の渦の向こう側には桃源郷が広がっている。
そんな噂を耳にしたのはいつだっただろうか。
特権階級の連中が食べこぼした妖界の者が、命からがら逃げ出して、そういったのだと誰かが言っていた。
もちろん、そいつはあっという間に骨も残らず食い尽くされた。だから、本当にそいつが言ったのかも定かではない。
鬼界は常に飢えている。
大昔は植物が生い茂り、動物が多く居て、暮らすに困らぬ場所だったらしい。
それが、後先考えずに食い物や資源を取り尽くし、荒れ地が増えていったのだと聞いた。
今や数少ない森の恵みを、強者だけが独占するような世になった。
弱者はただ、干からびた土地で僅かに残る食料を争うように集めて食べるその日暮らしの生活だ。
私の育った村もそうだった。
子らが飢えや病に死んでいくのを見送ったのは一度だけではない。
そんな村に居ることに耐えかねて飛び出したのは随分前のことだった。
ただ、どこへ行っても状況は変わらなかった。
この世のどこも地獄しかない。
悲観に暮れながら旅を続けたそんなある日、私の前にぽっかり浮かぶ灰色の渦があった。その中心には、緑が生い茂り、小動物が駆ける楽園があった。
私は言葉を失った。
そんな場所がこの世にあるとは思わなかった。
あちら側に行けたら、一体どれほどの者が助かるのだろう。
私はゴクリと生唾をのみ、その灰色の渦を乗り越えた。
私はしばらく、貪るように目に映るあらゆるものを喰いまくった。
満腹になることなど初めての事だった。
何日か過ごすことで気づいた事もある。こちらの者は、鬼を殊の外怖がる。角があるだけで逃げ惑うのだ。
ある日、私の存在を聞きつけ、様子を見に来た者がいた。隠れていたつもりだろうが、私は幼い頃から、生きるために生き物の気配を察知するのは得意だった。
直ぐにその者の背後に回って捕らえた。
一体何を嗅ぎ回っていたのか、その者を脅して聞き出した。
このままでは、私を討伐するために、複数の妖が遣わされるらしい。
一対一で妖になど負ける気はしないが、大勢で来られるのは厄介だ。
私はその者からできる限りの情報を引き出し、殺して成り変わることに決めた。
鬼なら誰にもできることなのかは知らないが、姿や口調、性格を模倣することは然程難しい事ではない。
私は翠雨と呼ばれる者の下にうまく紛れ込むことができた。
運の良い事に、翠雨とやらはかなり地位の高い者だった。
翠雨の使いと言えば、ある程度の自由がきいた。
私は時折外に出ては腹を満たし、翠雨に使える椎という者に成りすまして生活をした。
ある時、鬼界と呼ばれる場所の話を聞いた。どうやらそれは、私の生まれ育った場所のことを指すらしい。
そちらとこちらの間を隔てる結界が綻び始めているというのだ。
この世を治める帝が死んで結界を維持できなくなっているらしい。
時が経てば、あちらとこちらは一つの世界になるだろう。
それは、私にとって大きな希望の光だった。
あちらの世界に残してきた者たちにも、この世界を与えてやれる。
ただ、一方で懸念も生まれた。
もうすぐ、結界を強固にできる帝が、人の住む別の世界から遣わされてくるそうだ。
そうなってしまえば、結界を消失させることが出来なくなるばかりか、私が通ってきたような穴でさえ塞がれてしまうだろう。
どうやら、今の帝は今手にしている権力を手放す気はないらしい。
丁度いい。
今の帝に取り入って、新たな帝を排してしまえばよい。
私はこの世界に来て、一つ良いものを手に入れていた。
翠雨の命をこなすうちに偶然手に入れたものだが、その者が執着するものを見せ続ける事で生気を取り込む類の木の実だ。
無味無臭。粉にして、不安に苛まれる者に飲ませれば、不安を増幅させるような夢を見せ、希望野望に満ちる者に飲ませれば、その野望を増幅させるさせるような夢を見せ、次第に夢現の世界にとり込んでいく代物だ。
私は翠雨の使いとして帝に近づき、心を許し始めたところで、飲食物にそれを混ぜて飲ませることにした。
妖達は飲み食いせずとも生きていけるのに、贅を尽くした食事を取ろうとする帝に苛立ったという理由もある。
都合の良いことに、帝は人界への欲を見せ始めた。よほど憧れがあったのだろう。
夢現の境が曖昧になってきた頃、私は鬼の使いとして、帝に正体を明かし、鬼の武力と引き換えに人界をくれてやると提案した。
妖界と人界のどちらも統治する夢に打ち震えている。よほど実が効いているようだ。
実際には、どちらも我らの天下になろうが、そんな事にも気付けないほど、夢の世界に囚われているらしい。
世の頂点に立つものが憐れなものだ。
私はそれから、機を見ては、鬼界と妖界を行き来するようになった。
ある程度話の通じるものをこちらの世界に連れてきて、帝の用意した山に潜ませていく。
皆、こちらの豊かさに目を見開き、私の計画に賛同してくれた。
こうして武力を蓄え、新たな帝の排除と共にこの世を手に入れるのだ。
そう企んで準備を進めてきたある時、あっさり新たな帝は現帝に掴まり処刑された。
これで、このまま待てば結界はいずれ崩壊するだろう。
後は、現帝に協力するふりをしつつ、武力を蓄え、支配してしまえばいい。
翠雨の元にも、その頃からある変化が訪れた。見知らぬ者が出入りする事が多くなったのだ。
特に、璃耀だか璃鳳だかと言う名の者は頻繁に翠雨の元にやってくる。
大体人払いされるか、特定の者だけが同席を許されるのだが、険悪な様子で部屋から出てくる事が多かった。
面倒な者なのだろうと思っていたが、烏天狗の使いが現れたその日、私と凪が呼ばれてその者の共をせよと命じられた。
上手く事が運び始めた時に京を離れるのは避けたかったが、向かう先が、死んだはずの新たな帝がいる場所だと聞いて考えが変わった。
現帝の元に報せに向かう余裕はないが、生き残っていられては困る。
何処かで抜け出すことはできるだろうし、折を見て新たな帝その者を消し去ることもできるだろう。
私はそう考え、ひとまず諾々と翠雨の命に応じた。
しかし、実際に烏天狗の山へ向かうと、新たな帝、白月は想像以上に厳重に護られていた。
凪に加え、本人は気づいて居ないだろうが遠くから動きを見守る者が複数。よほど気に入られたのか、烏天狗の護りもある。
とても手を出せる状況では無かった。
しかも、どうせ大したことなかろうと見縊っていた璃耀に薬を盛られるという屈辱まで味わった。
その日から、璃耀の口にするものに例の実の粉末を混ぜ、寝ている隙に水に溶かしてちびちび喉に流し込んでやるようにしてやったが、腹の虫は収まらなかった。
白月も、見ていると苛立たしくなるような者だった。周囲を巻き込み自由奔放に振る舞う様も、虫酸が走る程の甘さも、何もかもが気に入らなかった。
そんな中、翠雨が野営地に現れ、京に攻め入る準備を始めた。流石に報せに戻り、計画を前倒しにせねば、今までの努力が水の泡になりかねない。
京の様子を見に行く口実を得た私は、宮中に舞い戻り、これまでの経緯を全て報せた。
その上で、鬼共を京に放ち軍の大部分を引き付けて白月の護りを薄くすること、鬼界の入口を閉じられてしまうのは惜しいが、一つを顕にして小鬼共を放っておくことで更に護りを手薄にした上で、鬼界の入口を閉じようとする白月を背後から射掛けることを提案した。
こんなところで、こちらの野望を潰されてたまるものか。
私は焦る思いで鬼どもが潜む一角へ急いだ。
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