第32話 死の泉の湖底
ザボンという音を立てて私は水面にぶつかった。
着ていた白装束が、ジュッと音を立てて黒い炭に変わっていく。しかし、やってくるはずの身を焼くような痛みは襲ってこなかった。私は少しだけほっとする。
水面の向こうで、駆け寄ってきたらしい璃耀が見たこともない必死な表情を浮かべて私に向かって手を延ばそうとした。
しかし、水面に僅かにその手が触れた途端、その部分だけが羽に変わり、次第に端から黒く染まり始めた。
お願い、やめて!
私がそう思うと同時に、璃耀の翼は何者かにむりやり泉から引き抜かれ、飛び込まないように体を引っ張られたように見えた。
誰かの悲痛な声が何か叫んだ気がしたが、もう私には何を言っているかは聞こえない。
元々濁った泉だ。重りで体を引っ張られているせいで、すぐに水面の向こうは見えなくなってしまった。
陽の気が満ちた泉に身を焼かれることはないけれど、水中で息をすることはできない。
必死に息を止めたまま、鎖を外そうと身じろぎするも、緩む気配はない。ただただ、足に括り付けられた重りに引っ張られて同じ速度で下へ下へとどんどん沈んでいくだけだ。
苦しい。
息が続かなくなってきた。
空気をもとめて必死にもがきたいけれど、それさえも出来ない。上を向いても空気なんてものはない。
苦しい!
助けて、誰か!
そうは思っても、誰も来られない。さっきの璃耀のように泉の水に焼かれてしまう。
次第に、絶望が自分の中に満ち始める。
ゴボっと口から空気が全て出ていく。反射で水を思い切り吸い込む。
ダメ、死ぬ!
そう思った。
しかし、次の瞬間、口と肺に入ってきたのは、何故か新鮮な空気だけだった。
……あ、あれ?
何故……と思ったところで、目の前にフワっと首にかけていた小さな巾着が浮かび上がったのが見えた。
人魚の真珠だ。
私はハァー、と大きく息を吐いた。
何で忘れていたんだろう。これが無かったら、きっと私はこのまま溺れ死んでいた。
そう思った瞬間、「無くしたら溺れ死ぬから気をつけてね。」という人魚の言葉が突然蘇ってきた。あの時、「溺れ死ぬ」という言葉に少しだけ違和感があったのを思い出す。
いやいや、まさかね。
そうは思いつつも、このことを示していたのではと思うと背筋が薄ら寒くなった。
でも、ひとまず人魚のおかげで助かった。
璃耀に怒られることのほうが多いけど、何かに巻きこまれて助かることもあるのだな、とほっと息を吐く。
しかし、安心したのも束の間だった。
……何だか、この湖、深すぎない?
落とされてから、ある程度時間が立っているはずだが、全然底につく気配がない。
さらに、流れのない泉だと思っていたのに、沈むに連れて、だんだん自分の体が流され始める。
何事かと周囲を見回すと、だいぶ暗くなった足元に大きな渦が出来ていることに気付いた。
何故こんなものがと思う間もなく、渦がどんどん激しく周囲を巻き込むようになり、重りごとその渦に取られて流される。
底が未だに何処にあるのかわからない深い深い泉の中で、まるで風呂の栓を抜いた時のような水の流れとともに、私は抵抗も許されず、どんどん下へ下へと吸い込まれていった。
「人の子よ、こんなところで何をしている?」
上の方から突然低い声で呼びかけられて、私はハッと目が覚める。
どうやら、何処かで気を失ってしまっていたようだ。
ガバっと起きると、太いひげをゆらゆら揺らしたとんでも無く大きなワニのような顔が目に入った。
顔だけで私の身長より大きい。
生暖かい鼻息が、強い風のようにブワっと私にあたり、私は絶句した。
一瞬時が止まったかのように、私の思考も停止する。しかし、もう一度、ブワっと風に吹かれてハッとした。
く……喰われる―――!
私は慌ててワニに背を向け、顔面蒼白のまま、なんとか逃げ延びようと足をバタバタさせる。
しかし、体に何かが引っかかって動けない。
それをどうにか外そうと身をよじると、自分を捕らえているのが巨大な鉤爪だったことに気づいた。
全身に寒気が走り総毛立つ。
「ヒィいぃぃ! ワニに喰われる!!」
さっきと同じことを、今度は声に出して叫んで再びバタバタし始めたところで、
「喰ったりせぬ!」
と大声で怒鳴られた。空気が振動するほどの声に震え上がる。
「ヒィィ!」
耳を塞いで、全身を縮こませていると、先程よりも長く深い吐息が私にかかった。
「
震える体のまま鉤爪に掴まれて、ワニの顔のあたりまで持ち上げられる。
大きな目で見据えられて、私は息を呑んだ。
喰われる! ひと飲みにされる!
そう言いかけた言葉を、私は口を抑えて飲み込んだ。「喰わ……」と言いかけたところで、ワニに睨まれたからだ。
ワニは、はあ、と大きくため息をつく。
強風どころか突風が当たり、体が風にぶわっと流される。
吹き飛ばされそうになったところで、大きな鉤爪は、近くにあったらしい大岩に私を座らせた。
「縛られ、意識を失っていたところを助けてやったのだ。感謝されこそすれど、喰われるだなんだと恐れられる
岩に置かれたことで、私はようやくその姿をしっかり見渡す事ができた。
あ、龍だ。
御伽噺とかに出てくる、長い体に大きな鉤爪、長い髭に鹿のような大きな枝分かれした二本の角の龍だった。
鱗は白い中にキラキラ虹色に光る部分があり、すごくキレイだ。
うわぁ、大きい! そしてカッコいい! 初めて見た!
私が、ほうっと見惚れていると、龍はそれに気づいたように
「龍など見ることはなかろう。」
と、ふふんと胸を張った。
「して、人の子よ。こんなところで何をしていた?」
私はハッとして周囲を見る。
「そうだ! 私、死の泉に縛られたまま落とされて、渦に巻きこまれて……
あ、龍さんが助けてくださったんですか?
あれ、でも、私、今人の子じゃないですよね?いったい……」
疑問が次々と浮かんでくる。混乱し始めたところで、龍に鉤爪の甲の部分でちょんと突かれた。
「ひとまず落ち着け」
そう言われて、私はいったん深呼吸をする。
「まず、其方が水底に沈んでいたところを、私がこの龍脈まで運んで連れてきた。手足を縛ってあったものも壊して解いた」
龍はそう言うと、先程まで私が寝ていた場所を指し示す。確かに、鉄の鎖が落ちていて、括り付けられていた忌々しい石もごろんと転がっている。
「其方は人の子だろう。この場にも耐えられるだろうとひとまず避難させた。
均衡を保つ役割を持つ者を死なせるわけにはいかぬからな」
龍の言葉に私は首をひねる。
「私、今は人の子ではないですよね?」
「何を言う。元は人の子だろう?」
「はい、だから元は、ですよね。今は妖で……」
そう言うと、龍はゆっくり首を振る。
「そうではない。妖と其方は全く違うではないか。妖はその身に陽の気を宿すことは出来ぬ。其方は人のまま妖に身を転じただけだ。」
「……ちょっと意味がわからないんですけど……」
首を捻っていると、龍は少しだけ目を丸くさせる。
「なんと。もしや自分の使命まで忘れているのではあるまいな」
「使命、ですか……?」
もう、全く話について行けない。この龍が何をいっているのか、誰かに解説してほしい。
「人の世と妖の世の間にあった結界の綻びを結び直していたであろう。ほんの僅かではあるが、それぞれの世が隔絶されていったのを感じ取っていたのだが、其方がやっていたのではないのか?」
やっと意味が分かる質問をされて、私はほっと息を吐く。
「ああ、それは私です。でも、使命というか、穴が空いているところに近づくと、閉じなきゃって強迫観念が凄くて、落ち着かなかったから閉じていただけなんですけど……」
今度は龍が小首をかしげる。
「強迫観念というのは良くわからぬが、その行為自体は其方の使命だ。其方が一生をかけて果たさねばならぬ仕事だぞ」
「……はぁ」
一生とはまた大げさな。
「気の抜けた返事をしているが、本当に分かっているのか?」
いえ、全然わかりません。
心のなかでだけでそう返事をしていると、私の顔つきだけでそれがわかったのか、龍はもう一度、深く長いため息をついた。
「仕方がない。全て最初から教えてやる。全く、あちらの者共はいったい何をしておるのか……」
龍は、誰かに文句を言いながら、私を見据える。
「いいか、よく聞けよ」
私が頷くと、龍もそれを確認したように頷いた。
「随分前になるが、人の都が妖によって滅ぼされたことが幾度とあった。今の妖の世にある都のような場所であったが、大きな混乱であったようだ」
幻妖京に似た都で妖に滅ぼされた、と聞いて、私が思い至るったのは長岡京だった。災害や飢饉、疫病、天皇に親しい者の死などが相次いで、遷都したと聞いている。それ以外にも滅ぼされた都があったとは初耳だったが。
「同様に妖の世では、妖共に対抗しようと人があちらこちらで暴れ周り、方々に災厄をばらまいていた。人は非力ではあるが、陽の気を振り撒かれれば、妖では太刀打ち出来ぬ」
ほう。人も攻め入ってきた事があるらしい。そういえば、峠で悪さをしていた落武者達もその類だったと聞いた気がする。何となく、やられっ放しという印象だったけど、思った以上に勇ましい。
「妖には自然を味方とできるような強大な力があり、人には知恵と陽の気がある。
妖も人も、互いが互いの生きる場所を守るために、相手を屈服させて支配下に置くために、大小様々な戦を繰り返したのだ。
妖は人の知恵や知識を欲し、人は自然すらも操ることができる強大な力を欲した」
人は知恵と知識とコミュニケーションでぐんぐん文明を発展させてきた生き物だ。
その一方で、妖の都は人の都を模倣したような作りである上に、時が止まったように発展が足踏み状態である。
妖が知恵と知識を欲したのもわかる気がする。
「互いが疲弊しきったときに、時の賢者は、それぞれを2つの世界に隔てる事を提案した」
龍が言うには、人はそれを無条件で受け入れたそうだ。力は欲しいが、妖の驚異がなくなれば、強大すぎる力は不要だからだ。
一方、妖の世の指導者は一つ条件をつけた。自分の子を人の世の帝に嫁がせ、子のうち一人をある程度の年齢まで育てて妖の世に送り、残った子を人の世に残すこと。その後、300年に一度、必ず妖の血を引く子どもを送ってくること。
人の世の知識と陽の気とを持つ者を、妖の世の指導者に据える事で、欲していたものの一部を手に入れようとしたのだ。
人の世の指導者は渋ったものの、妖の指導者が譲らなかったため、それを受け入れた。
世界が別れたあと、帝の元で人同士の婚姻で生まれた子は人の世の正統な世継ぎとされ、妖との婚姻で生まれた子は人の世では傍系とされた。
妖の血の混じった一族は、次第に帝から離れていき、それでも、三百年に一度、一族の子を妖の世に送る役目を担った。妖の寿命は500年程だ。先代から次代へつなぐには200年あれば十分だと考えたのだろう。
しかし、最初の子は500年程生きたが、次は400年、次は300年と短くなり、先代は200年しか生きなかった。人の世から使わされた時に人から妖にその身を転じているにも関わらず。
それに、あちらから来た者は何故か子を成すことができない。
先代亡き後、陽の気を宿す者が不在のまま100年の空白ができた。
「そこへようやく来たのが其方だった」
「へ?」
今まで凄く他人事に、妖と人の壮大な歴史を聞いていたのに、突然そこに自分が組み込まれて、物凄く間抜けな声が出た。
あれ、つまり、私は遠い昔の妖と人の世の帝の子孫にあたるってこと? そして、意図的に人の世界から送り込まれたってこと?
混乱している間に龍の話は進む。
「さらに、あちらから来た者の役目の一つに、人の世と妖の世を隔てる結界を維持するというものもあった。結界は陽の気と陰の気から成るからだ。だが、先代不在のまま100年放置された結果、随分脆くなってしまった。
そして最近、その脆くなった結界をこじ開けて人の世へ行こうとする不届き者が現れた。その者は結界石を壊そうとしているようだ」
ああ、その不届き者なら心当たりがある。
ただ、それと同時に、嫌な予感がする。
「……それで、私にどうしろと……?」
何故解らぬ、と言いたげな目で龍に見られる。
「結界を破壊しようとする者を捕らえ、結界石に力を注いで結界を補強せよ。
今までのように一つ一つを塞いでいてはきりがない。結界石を満たせば結界が強固に閉じられる」
……国家転覆を企てろと。そういうことですか?
私が全く乗り気で無いことに気づいたのか、龍は片眉をあげる。
「結界を強化することには、もう一つ大きな意味がある。結界が隔てているのは、なにも妖の世と人の世だけではない。同じ結界で鬼界との間も隔てているのだ。結界が消えるということは、鬼界の者も含めて世の中が一つに混じり合うということだ。」
……はい?
今なんか物凄く物騒な話を付け加えませんでした?
「え、今までの話の何処に鬼界の話がありました?」
「鬼界の話など出てきておらぬ。そもそも、鬼界はそれよりも更に前に隔絶されていたものだ。もともと一つだった世界から鬼界が分けられて二つになり、人界と妖界が隔てられて三つになった、そういうことだ。」
龍は至極面倒そうな顔でそう言う。
「何れにせよ、結界が壊れて得をする者など、最終的には鬼界の者しか居らぬであろう。人と妖の争いが絶えず、鬼に支配されるような世にしたいのか?」
「……いえ。」
私はただ平穏に暮らしたいだけなのに、そんな混沌とした世界で、のほほんと何も考えずに暮らしていけるわけがない。
ただ、問題はその秩序を保つために動かなくてはならないのが私自身だということだ。
「人の世の明暗まで私にかかっているんですか? 荷が重すぎませんか?」
私が苦情を申し立てるように言うと、龍は疲れたようにため息をつく。
「別に全ての世の明暗が其方にかかっている訳ではない。人の世には人の世の結界があり、妖の世には妖の世の結界がある。
それぞれの結界で閉じられているから、謂わば二重になっているのが本来の状態だ。人の世のことは人の世がやれば良い。其方にかかっているのは妖の世の明暗だ」
ああ、そうなんだ。
あれ、でもそうするとちょっとおかしくない?
「え、だったら、こちらの結界が綻んでもあちらの結界があれば、こちらとあちらが貫通するようなことは無いはずでは? 何で今、ポコポコ穴が開いてるんですか?」
「あちらでも結界の綻びが出ているのだ。人界で起こっていることは帝が変わればそれで良いという問題では無い分難しいであろうが、実際に危機に晒されねば気づけぬかもしれぬな。」
そういえば、東京一つとっても、建物や山々などで結界が作られているという話を聞いたことがある。歴代の京も同様だ。一方で、昨今では大きな建物を建てて利便性を追求するあまり、それらが崩れているらしい。
都市伝説か何かかと思っていたが、龍の話を聞いていると、あながち嘘では無かったのかもしれない。
「じゃあ、鬼界も?」
私は以前、黒い渦から突き出し、璃耀を捉えていた鬼のことを思い出す。
しかし、龍は首を横に振る。
「そもそも鬼界側には結界などない。人と妖の都合で閉じ込めてあるだけだからな。ある意味、一番脆弱だ。結界が綻んで一番に雪崩込んでくるのは人ではなく、鬼であろうな。」
それを聞いて、ざっと体から血の気が引く。
あれが一番にこっちに雪崩込んでくるの?
「それ、あっという間に滅ぼされません?」
「だからさっきからそう言っているであろう。其方、一体何を聞いていた」
龍はイライラとそう言うが、規模が大きすぎて実感がわかないのだ。
渦から突き出した鬼の手を思い出してようやく危機感が湧いてくる。
「え、じゃあ、どうすれば……」
「だから、結界が消え失せる前に、結界石に力を満たせとさっきから言っているではないか!」
あ、ああそうか。
あれ、でもそのためには、国盗りをしないといけないって話で……
「あの、そもそも、何で龍さんはそんな事を知っているんですか?」
そんなに物知りで、現状を憂えてるなら、この龍が何とかしてくれたらいいのに、と思いながら聞く。すると、龍はフフンと自慢気にひげを揺らした。
「我は全ての世の地脈を巡る龍神だからな。混沌を退け秩序を保つよう監視するのが役目だ」
「えぇ、そんな大事なお役目があるならば、龍さんがやってくださればいいのでは? せめて国盗りだけでも……」
自分を龍神様だというならば、その力を使って、今の帝の世を壊してくれたらいいのに、と思ったが、龍は呆れ顔で私を見る。
「我は監視者だ、馬鹿者。助言はすれど、実際に事を行うのは、そこに住まう者共だ」
「でも、知らないうちに勝手にそんな大層な役目を押し付けられても……」
私が更に言い募り、文句を言おうとしたところで、ついに我慢の限界を迎えた龍に怒鳴られた。
「ええい、うだうだと煩いやつだな! 選ばれたのだから仕方あるまい。さっさと役目を果たしてこい!」
そう言うと、龍は乱暴に鉤爪で私の胴を掴み上げ、ポーンと空に放り投げた。
反抗する間も抗議する間も、叫ぶ間さえないまま、私を取り巻く周囲の景色がパッと変わる。
そこには龍の姿はなく、最初に落ちた泉の水面がゆらゆらと眼の前で揺れていた。
「何かあれば助言くらいはくれてやる。まずは自分で何とかせよ」
吐き捨てるような龍の言葉が、水底から聞こえてきた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます