第9話 崖上りの悲劇

 第三の支流にたどり着き、そこからさらに支流を遡上していく。

 支流の周りも特に変わった様子は見られない。


 煎じてはいないものの、途中で草に薬効が無くなっていると困るので、確認のために時々薬草を摘んではもしゃもしゃ食べる。


 食べにくいし飲み込みにくいし青臭くてしょうがない。煮詰めた訳ではないので効果も薄い。煎じ薬は煎じて飲むものだな、と思いながらも、確認しないわけにはいかないので、時々摘んではクチャクチャさせながら先へ進む。


 川の周囲の草に薬効があることを確認しながら2日ほど歩くと、尖った岩肌の雪山は仰ぎ見るほど近くなり、平らだった道も、いつの間にか上り坂になっている。ゴツゴツした岩も増え、大きな岩をよじ登るような機会もぐっと増えた。


 体は軽いが、如何せん小さいので、岩々を登るのは苦労する。ヒョイヒョイ木の上に登っていったりすることが得意な紙人形に木の上から登りやすいルートを探してもらって回り道をする機会も増えた。


 出会ってから今まで、役立たずだなんて思っていたことを心の奥でこっそり謝っておく。


 また、岩やちょっとした崖が増えたことで、岩と岩の間に隙間ができているなど、夜に身を隠せるような場所が見つかりやすくなったのがありがたい。平野で身一つで夜を越すよりよっぽど安心できる。これも身軽な紙人形が見つけて来てくれた。感謝しかない。


 ただ、とにかく寒い。

 山を登っていくたびにどんどん寒くなっていく。頂上付近に雪が積もっていたことを考えれば仕方がないが、移動中も毛布をきつく巻き付けながら進むようになり、とても動きにくくなった。


 考えた末に、せっかくの毛布がもったいないが、毛布の中央辺りを尖った岩でゴリゴリやって穴をあけ、手が通る場所も作って服の上から被ることにした。羊の奥さんの顔が始終浮かび上がってきて、申し訳ないと心の中で謝り倒した。


 腕にも毛布がほしかったが、籠を背負うためには仕方がない。


 そして、川というより沢という感じになってきた頃には、石や岩がゴロゴロし、危険な場所も増えてきた。回り道しようにも、そちらも急な山道や崖だったりして、いずれにしても危険が伴う。


 湿った山道で足を滑らせてせっかく登った道をザザザザーーっと数メートル滑り落ちたり、


 岩から足を滑らせて沢にバチャーンと落ちて数メートル流されたり、


 足をかけた大きな石が体重をかけた途端にボロっと崩れて岩の上にビタンと無様に倒れ込んだり、


 大岩から転げ落ちそうになってたまたま掴んだ木の枝が脆くなっていたためにポキっと折れてズシャーっと大岩を滑り落ちることになったり、


 とにかく涙なしには語れない苦難の連続だった。身も心もボロボロだ。


 途中で、なんでこんなことしてるんだっけ?と目的を見失って、すべて投げ出したくなったりしたけど、ここまでの苦労を無にしたくなくて足だけは懸命に動かし、前へ進んでいったことを誰か褒めてほしい。


 そんな中で、大した水量でもないのに高さだけは数メートルもある滝を目の前にした時には、目の前が真っ暗になった。


 しばらく滝を見たまま硬直していたが、紙人形に強めにツンツンされてハッとする。


「……ちょっと休もうか……」


 私の言葉に紙人形は僅かに首をかしげたが、どうしてもすぐに登る気にはなれない。


 ちょっと時間を下さい。


 まだ午前中だったというのに、私は現実逃避ぎみに動くのをやめ、さっさと野営の準備を始めた。


 紙人形は早く行こうと急かしたが、そんなものは無視である。

 むしろ、何故お前はそんなに元気なのかと問いただしたい。

 断固として動くことを拒否して、焚き火の火を突きながら残りの半日過ごした。

 紙人形が、まだ行かないのかと訴えるように、ピョンピョン、ピョンピョン周りを飛び跳ねるのが鬱陶しい。


 さらに翌朝、昨日と同様に焚き火をつつく。

 日が明けても動こうとしない私を見兼ねたように、籠をよじ登った紙人形が一つ目小僧からもらったリンゴのような果実を勧めてきたので、何個かかじる。


 さあ、体力は回復しただろ、と急かす紙人形を無視し続けて、ぼんやりと滝を眺める。


 わかってるよ。ここにいたって仕方ないことくらいわかってるよ。


 私はハァーーーと大きく息をついた。


 そして昼頃にようやく、重い腰を動かすことにしたのだった。


 紙人形に確認してもらったが、進みやすいのは滝の脇にある岩を登っていくルートのようだ。


 確かに階段状に点々と大石があったり岩が僅かに突き出したりしている。滝の脇は一見垂直の崖だが、よく見るとかなり急な斜面という感じだ。


 突起のない岩壁と違い、岩や石がゴロゴロしているだけ登りやすいと思う。


 こういうときは躊躇わずに一気に登ってしまうのが肝要だ。

 私は気合いを入れるため、一度、よし!と大きな声を出してから一番手前の石に手をかけた。

 道を確かめるために先行していた紙人形が驚いたように振り返ったが見なかったことにしよう。


 一歩一歩確かめながら足を上げ手を突き出し進んでいく。登り進めていくうちに足も腕もガクガクしてくる。でも、一番の敵は、滝から絶え間なく飛んでくる水しぶきだと思う。冷たくて冷たくて凍えそうに寒いし、手の指も足先も感覚がなくなってきた。


 上にあがったら真っ先に火にあたりたい。叶うことなら湯船に浸かりたい。足湯でもいいから!


 とはいえ、登ってすぐに温泉が湧いているなんて、そんな都合の良いことなんてあるわけがない。とにかく暖を取ることだけを希望に、私は岩にしがみついた。


 滝上まであと少し、というところまで来た。

 が、そこで私は手と足を止めた。あとちょっとなのだが、そのあとちょっとの部分にある岩は完全に水をかぶっている。ビチャビチャ水が跳ね返っているのが見えて、私は顔を顰める。


 うわぁ……あそこ行きたくない。


 水しぶきの冷たさも、手足が切り裂かれるように痛む寒さも、全てはこの滝の水が原因だ。その中にわざわざ入らなければ上にあがれないなんて。


 私はギュッと目を閉じた。


 いや、行くしかない。

 暖かい焚き火に当たるのだ!


 そしてキッと目を見開く。

 

 私は心と手足に鞭打って、グッと手を伸ばし、水が当たって跳ねている岩を掴んで体を乗り出した。


 しかしその瞬間、ズルっと手が滑って岩を掴みそこねてバランスを崩す。


 うわっ!!!


 体がグラっとし、落下しそうになる。数メートル下は固い地面と浅い川だ。


 死ぬ!


 咄嗟に逆の手を伸ばし、なんとか別の岩を掴んだものの、水が容赦なく叩きつけてくる。


 じりじりと手が滑っていく。もう掴んでおけない。

 そう思ったとき、ついにズルっと体ごと滑った。


 私は必死に掴まれる場所を探す。壁から体を離したらおしまいだ。とにかく、腕と体で引っ掛かりを探す。バランスを崩したことで、勢いよく水流が打ち付け息がしにくい。服は上に捲れてお腹が直接岩肌石に擦れる。それでもどうにかこうにか滝の裏側の岩に体を引き寄せ、ズズズと少し滑り落ちたところで体が岩の突起にぶつかることで、ようやく落下の危機的状況から解放された。


 顔には未だバチャバチャと水が当たるが、落下が止まり、ホッとする。


 慎重に水の当たらない場所まで移動すると、上から降りてきた紙人形が、心配するように私の顔を覗き込んだ。


 大丈夫だよ、と言って強気に微笑んでみせる。


 とはいっても、体は水でびっしょり濡れて凍えるように寒いし、体中が痛む。


 上を見上げると、滝の上に上がるには、まだもう少し登る必要があることがわかる。

 私は岩にギュッとしがみついて泣きたくなった。


 ただ、ずっとここにしがみついているわけにはいかない。そのうち凍え死ぬか力つきて落下死することになるだろう。


 泣き出したいのを必死に堪えて、私は奥歯をきつく噛み締めて、再び登り始めた。


 先程は先行していた紙人形は、今度は励ますうに私に寄り添って進んでくれた。

 途中で諦めずに登り切ることができたのは、紙人形のお陰だったとおもう。


 今度は慎重に登りきり、私はようやく滝の上の平らな場所にたどり着いた。ようやくホッと息をつく。

 しかし、手も足も限界だし、お腹がヒリヒリして痛む。そして、とにかく寒い。


 火を焚きたかったけれど、そんな元気もない。

 籠をおろして、なんとか体温を下げないようにと蹲っていたら、いつの間にか自分の体は、一つ目小僧を追っていたときのような四足歩行の形になっていた。


 服はサイズが合わずにその場に脱げてしまっているが、濡れていて脱がなくては体温を奪われるばかりなので丁度いい。丸くなって手足をしまう。


 そうやって小さくなっていると、どこかに行っていた紙人形が心配そうに私を見たあと、私の耳を引っ張った。


 どこかに連れていきたいようだ。

 正直、微動だにしたくなかったのだが、あまりにもしつこいので、体に鞭を打ってのそのそ着いていくと、そこには小さな木の洞があった。


 四足歩行の今なら何とか入れるくらいの大きさだ。


 風を凌げて少しでも休める場所を探してくれたらしい。私は紙人形にお礼を言って、もそもそと洞の中に入って小さくなった。

 先程よりも少し暖かい気がする。そのままじっとしていていたら、どんどん眠たくなってきて、私はウトウトと眠りこんでしまった。


 目が覚めると、空には月が高く上がっていた。

 少し動くとカサカサ音がして、いったい何の音だろうと見遣ると、枯れ葉が洞の中に敷き詰められていた。それがじんわり暖かくて、私は少し身動ぎしてそれに埋もれる。

 すると、葉音に気づいたのか、紙人形が洞の中を覗き込んできた。私の目が覚めたことを確かめると、一枚、また一枚と蓮華姫の花びらを持ってきてくれる。


 今までケチって使ってなかったけれど、私が寝ている間に巾着を探して持ってきてくれたのだろう。


 随分心配をかけたらしい。


「木の葉も君が?」


と声をかけると、紙人形は小さく頷いた。


「ありがとう。暖かく寝られたよ。蓮華もありがとうね。」


というと、照れた様子で木の洞から出ていった。

 外で見張りをしてくれているのだろう。


 私は持ってきてもらった蓮華の花びらを口にすると、すうっと再び眠りについた。


 目が覚めると、もう昼頃だった。

 洞から出ると、夜に食べた蓮華と睡眠のお陰で動けるくらいまで体力が回復していた。

 私はとにかく温まりたくて、すぐに火を焚く。

 一晩中見張りをしてくれていた紙人形にお礼を言って休ませて、私は火を突きながら息をついた。


 昨日、四足歩行に変わったときに脱げた服を探しに行かなくてはと思いながら体を見回すと、あちこちに擦り傷ができていた。


 特にお腹は酷い有様だ。ところどころ毛がはげ、乾いた血がこびりついている。今は血は止まっているけれど、鈍い痛みがある。妖でも血は出るんだ……と、どうでもいいことをぼんやりと思った。そういえば、顔に水がかかったときも苦しかった。空気も必要なようだ。


 なんとなく、妖というと、食事も不要、空気も不要、実体もあるようでないもの、という印象があったが、そうではないらしい。

 紙人形に血が流れているとは思えないので、妖に依るのかもしれないけど。


 そんなことを思いながら、改めて自分の体を見回す。今までなんとなく服を着てたけど、そもそもが毛皮なので、何も着ていなくても恥ずかしくはない。


 ふと自分の背中、腰の右下辺りに奇妙な模様があることに気付いた。鏡もないしよく見えないが、焼き印のように黒くて、黒くなっている部分だけ毛が生えていないので模様がよくわかる。

 丸い陣に見たこともない文字のようなものが刻まれていた。


 今日初めて気づいたのだが、ものすごく気味が悪い。良くわからない不安とゾワっとする悪寒が湧き上がってきて、この紋様が自分の腰に刻まれていると思うと、言い表しようがない位の嫌悪感に苛まれた。しかし、くっきり刻まれたこれを、私はどうにもできない。


 ……早く服を着よう。せめて隠して見えないようにしよう。


 私はすぐに立ち上がり、自分の着ていた服を探しに歩き出した。


 たぶんコッチからきたよな、と記憶を辿りながら河原に向かうと、服はそのままそこに落ちていた。蓮華姫から貰った巾着も一緒だ。

 見知らぬ妖や獣に持っていかれてなくて良かった。


 手早く頭から被り、毛布の方はそのまま持って焚き火のところまで戻る。どちらもまだ濡れている。少し破れているが、着られないことはない。


 焚き火の側に枝を二本立てて、そこに広げるように毛布をかけて干した。巾着も一緒に干した。

 水に濡れて腐ったりしたら大変だ。


 服は自分が着たまま焚き火に当たっていれば乾くだろう。


 まだモヤモヤした気持ちはあるものの、努めて頭の角に押しやった。


 私達はその日ゆっくりと休息を取ることにし、そのまま動かず野営地に留まった。

 夜、とても怖くて嫌な夢を見た。冷や汗をかいて飛び起きたのだが、その瞬間にどんな夢を見たのかすっかり忘れてしまった。



 朝が来た。

 ここまで来たのだ。何が何でも源流にたどり着いてやる、と決意を新たにする。


 だいぶ川幅が狭くなってきたので、源流まであと少しだと思う。

 自分の体力回復と傷の治癒が出来たらいいなと思いながら、薬草をもしゃもしゃ食べたが、効果が少しあったので、まだまだ薬効はありそうだ。


 しばらく歩いて行くと、だんだんと沢のようだったところから、さらに水量が減ってきた。


 もうちょっとだ、と少し足取りが軽くなる。


 更に歩くと、この小さな体でもピョンと飛べば越えられるくらいの幅になり、ついに跨いでも渡れるくらいになったとき、小さな岩壁からチョロチョロ水が流れ出す、川の源流にたどり着いた。

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