白月色の兎 ー妖兎の幻妖京異聞ー

御崎 菟翔

第一章 旅の始まり

第1話 泉の畔

 目が冷めた時、私の頬に一粒の涙が伝っていた。


 激しい痛みと苦しみに苛まれ、心の中は怒りと憎しみ、深い悲しみと孤独感がごちゃまぜになって渦巻き、人の陰の部分の全ての感情に呑み込まれるような、言葉では言い表わせないほどの不快感が押し寄せていた。


 酷い悪夢だ。


 悪夢の中身は覚えていない。ただ、その強烈な感情だけは、夢から醒めた今もまだ、鮮明に思い出せる。


 夢の最後に占めていた感情は、諦めと絶望。まるで泣き腫らしたあとのように、今もまだ、それが心を埋め尽くしている。



 今、目の前には深い森が広がり、鏡のように波一つない美しい水色の泉が見える。木々の隙間を縫うように、空の端に白い満月が薄っすら浮かんでいた。


 ここはどこだろう。

 

 私は漠然とそう思った。

 しかし悪夢の続きを引きずっているのか、未知の場所にいることに、焦りも何も感じず、ただただ凪いだ気持ちでその光景を見ていた。


 夕方か夜明けが近いのか判断がつかない。僅かに白んだ空に照らされるように泉や木々が幻想的に浮かび上がり、すべての音が消えて無くなったように静まり返っている。


 ぼんやりとしながら泉に近付くと、最初に綺麗だと思った泉の水は、絵の具を溶かしたような色をしていて湖底が全く見えない。不気味なほどの水色がどこまでも深く続いているように思えた。


 私は心に蠢く感情に折り合いをつけるように、しばらく、ぼーっとその泉を眺めていた。


 頭が働き始めたのは、それからしばらく経ってからのことだった。


 ……あれ、なんでこんなところにいるんだっけ?


 ハッキリとしてきた頭で、ここに来るまでの事をなんとか思い出そうとする。でも、靄がかかったように、何も思い出せない。

 それまで自分が何をしていたのかも、どこから来たのかも、自分が何者なのかさえも。


 記憶は断片的に残っている。人生で見聞きしたものも覚えているし、自分が会社員として働いていたことも覚えている。

 でも、自分の名前も同僚も友達も家族も、自分が生きてきて出会ったであろう全ての者達や、それに関する出来事や思い出などの記憶がすっぽり抜け落ちていた。

 記憶喪失ってこういうことを言うのだろうか。


 それなのに、焦る気持ちが沸き上がるでもなく、心の中は空っぽのままだ。

 まあ、どうだっていいか。

 そんな風にすら思っている。

 だいぶ意識はハッキリしてきたと思ったのに、まだ悪夢を引きずっているらしい。


 周りを見渡すと、私の記憶の中にあるよりも太く、高く生い茂る木々に取り囲まれていることに気づいた。原生林の様相すらある。

 泉の水も、よくよく見れば不思議と水自体がラメを混ぜ込んだようにキラキラ輝きを発しているように見える。


「変なの。」


 そう呟いて水に触れようと手を伸ばす。

 しかし、突如その視界に銀色の毛むくじゃらの何かが映って


「うわ!?」


と素っ頓狂な声をあげ、私は慌てて手を引いた。


 凪いでいた心が驚きと共にようやく動き出し、急なショックとともに心臓がバクバクいっている。凄く心臓に悪い。

 気を取り直し、動物でも出てきたのかとキョロキョロとあたりを見回す。でも、それらしいものは何もいない。


 何、今の……

 ……え……? ……いや、まさか。


 さっきの動きで目に映るべきだったのは、私の手のはずだった。それなのに、出てきたのは毛むくじゃらの何かだ。

 私は、恐る恐る、自分の両方の手のひらを見下ろす。


 その目に映ったものに息を呑んだ。


 自分の手があるはずの場所には、先程視界にうつった毛むくじゃらが2つあった。毛が生えているのに、子どもの手のような小さな五本指で絶妙に気持ちが悪い。ついでに見えた体も全身毛むくじゃらだ。


 あまりの事態に思考が追いつかない。


 しばらく絶句したまま固まっていたのだが、静まり返った中に、異様に響くポチャンっと言う泉の音に、私はようやく我に返った。


 慌てて泉を覗きこんで自分の容姿を確認する。


 そこに写ったのは、小さな兎だった。泉のせいで青っぽく見えるが、おそらく白に近い銀灰色だ。毛並みが光の加減でツヤツヤと輝く。

 そして、金色の小さな目が自分を見返していた。


 私は力なくその場にへたり込み、額に手を当てた。

 手と額にふわっとした毛の感覚がある。


 ……なに、これ?

 どうしてこうなった?

 いや、そもそも、ここはどこ?

 なんでここにいるんだっけ?


 そうは思っても、混乱しているせいか、思い出そうとしても、何一つ浮かんでくるものがない。直前の記憶すら無く頭の中は完全に真っ白だ。


 でも目が覚める前までは、少なくとも、兎ではなかったよね……?

 こんなフサフサした感覚なんてなかったし。


 うんうん、と、冷静になれるように努めながら、さっきまでの自分の思考を思い返す。


 人だったと思う。そう、人だった。だって会社行ってたもん。

 あ、あれ? でも、じゃあ、なんで兎に……?


 今の自分の体を見下ろしてみる。


 今の私は、身体全体が銀灰色の毛で覆われ、首と腕を通すところに穴を開けただけのような、ぼろ布を纏っている。

 フサフサした毛はついているが、その下はそのまま地肌で、着ぐるみを着ているわけでもない。


 長い耳は、動かそうと思えば自分の意思で動かせる。


 そして、頭の中で思い描ける四足歩行でピョコピョコ跳ねる兎とは違い、二足歩行できるような足がある。記憶の中にあるデフォルメされた兎のぬいぐるみのようだ。


 うーん……死んだ記憶すらないけど……これは流行りの転生というやつだろう……か……? じゃあ、さっきの悪夢は夢じゃなくて前世の死の間際の記憶? だとしたら、きっと碌でもない死に方をしたに違いない。


 しかも、転生したこの世界は動物が二足歩行で生活して種族関係なくお話しちゃったりするタイプの不思議の国ってことだろうか。

 

 いやいや、まだ夢の続きってことも……


 うーん、と考え始めたところで、不意にすぐ背後から、カサカサっと乾いた音がして、ドキっと心臓が跳ね上がった。


 む、虫!? 動物!?


 恐怖で強張った首を恐る恐る動かせば、そこには白い紙で出来た人形がひらりと落ちていた。

 よくよく周りを見渡すが、それ以外には目立ったものはなさそうだ。


 もう一度紙人形に目を向ける。


 これが風で飛ばされてきたのだろか。

 風なんて吹いてなかったと思うけど……


 紙人形には、梵字のような文字列が一行中心に書かれていて、どことなく不気味だ。


 気味が悪いな、と思いながらまじまじと見ていると、突如紙人形が、風もなにもないのに、身体を山型になるようにくにっと折りまげた。


 え、何?


と思っている間にも、紙人形は動き続け、そのままフラフラと垂直に立ち上がる。

 まるで、自分の意思で起き上がったかのようだ。


 こ、怖っ!!


 私がヒっ! と息を呑み、身を固くしていると、紙人形はお構いなしに、ペラペラな足を左右に動かしこちらに近寄って来ようとする。


 あまりの恐怖の光景に総毛立つ。


 私は慌てて立ち上がり、勢いでボチャンと泉に足を突っ込み、バシャンと音を立ててそのまま転んだ。


 水しぶきが飛んだはずだが、紙人形は怯む様子はなく、よたよたと近寄ろうとしてくる。


「ヒィっ! こ、来ないで来ないで!」


 私はバチャバチャと勢いよく水をかけて撃退を試みる。紙ならクチャっとなって動きを止めるかと思ったのだ。

 しかし、思い切り水がかかっているのにまったく形は崩れない。どう見ても紙なのに!


 私は水に浸かりながら恐怖に慄く。

 幸いなことに、紙人形には虫のような機敏性は見られない。私は紙人形を警戒しながら目を離さないようにしてしばらく後退りして距離をとったあと、くるりと背を向けて全力で駆け出した。


 ムリムリ! 気持ち悪い!


 石につまずき、木の根につまずき、足をもつれさせて数回転びかけたが、とにかく追って来られないところまで逃げたくてひたすら走る。


 紙人形が動くなんて!

 ファンタジーじゃなくてホラーの世界じゃん!


 舗装されていないのはもちろん、獣道のように踏み均されているわけでもない、足場の悪い山道をとにかく全速力で下って行く。


 どれだけ走っただろう。人だった頃より明らかに持久力はあるようで、結構な距離を軽々走っていられる。

 ただ、しばらく走り続けると、当たり前だが息も絶え絶えになり、足も痛くなってくる。とにかく苦しい。でも怖い。


 いや、でももう走るの限界!


 そう思った時、視線の先に木々が開けているのがうつった。


 せめてあそこまで……!


 息も切れ切れに一気に走り抜けると、ぼうっと周囲に浮かび上がるようなピンクの花畑が一面に広がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る