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 注文していた書籍が、ようやっとアースチンの手に収まることになった。


『ファフナーホール』というタイトルの、かなり前のSF。3万年後の世界に文化の死んだ人類が、ベントナイトを求めて核燃料を見つけるというお話だ。


 増え続ける使用済み核燃料をモチーフにして、かなりの売り上げをしたらしく、今でもある程度重版がかかるものだ。ただ時代特有の描写も多く、タッグにタグレースができる前だから、『インターネット』での事件をも取り入れているのが数少ない問題だろうか。


 しかしそれも異世界だと見たならば、面白い具合に良いガジェットで、それがこの作品の世界をまとめてくれているのだ————だから彼は、消灯時間まで読みふけることになった。しょうがないだろう、名作なんだから。



 作品内で時代が入れ替わるにつれ、誰かが死なないための祈りと意味がなかった悲しみが何度も押し寄せる。時折の喀血も気にならないくらいには、鎮痛剤になってくれる。寝食を忘れたくなるくらいの分厚い本。


 そうして彼は2日ほどを、たまの風呂だの着替えだのとともに過ごす。なんと楽しい日々だっただろうか————それが後30ページで終わるところになったころに、かかりつけが彼の前に現れたので、彼はしぶしぶそれを止める。


「腹の傷、見に来ましたよ」


 やってきたのはあの医師だ。彼女は数日前と変わらない白衣姿で現れて、寸分たがわぬしわのそれから聴診器を出す。いくらか奇妙さを感じ、アースチンは本を閉じる。


「……昨日とおとといはどうしたんです?」


「看護師に任せたでしょう?覚えていないのですか?」


 ま、そう言われることはここではよくあることですけどねと、彼女は気にせずにアースチンの上半身をはだけた。


 それから抜糸された跡を、とんとんと調べて記述。合間に、手元にある現代では珍しい物理書籍を見て、その中身を理解し肩をすくめる。


「まあ、それを読めば記憶だって飛ぶでしょうが」


 経験から出たらしい言葉だった。表紙デザインが狂ったように埋め尽くされた核の警告マークだったり、単一の言葉と最低限の注意書きだけなんてものだからだろうか?それとも、そんな特徴的な表紙だから同じのがあったりするのだろうか?


「……読んでいたりします?」


 アースチンは冗談で聞いてみた。


 少し前に病院中の患者と話をしようと試みてみたが、小説趣味の人間はそこまでいなかった。だから趣味を理解できる人間が欲しい、というのもあった————あまり話しに行くわけにいかない医者相手には、あまり期待できないけれども。

 わずかに残った癒合しかけの部分を特殊アクリレートでかぶせながら、医師は感染などの兆候を確かめ、答える。


「名著ですから」


 その中で気を抜くのも兼ねてだろう。彼女は素直に答えたらしかった。


「なら、どのシーンが好きです?」


 針だのが狂わないように、横に寝たままで彼は問う。いったん手を止め眼鏡を拭きなおしてまっすぐ見る。彼女は微笑む。


「最後まで読んでますか?」


「いえ」


「なら駄目です。教えれば価値が消えますから」


「ネタバレは許せる派閥といっても?」


 アースチンはそれからしばらく無為な押し問答をする。彼のスタンスとしては、内容をバラされた上で細かく納得するように見物するというものなのだった————だから事前情報のないものはあまり好かないらしい。

 だがこの時代では少数派なのだろう。ネタバレをさせないようにするのがこの世界では正しい、当たり前の理屈だ。


「許可できません」


 医師はきっぱりと切り捨てるばかりだった。


 何をどうやっても変わることは無いらしい。彼はとりあえずあきらめ、そういえばと気になったことを口から吐き出す。一応の診断を終えて、彼女はカルテを看護師に任せて服を着させる。そしてそれを聞いて、答えなくなる。



「ところでですが、あの隣人。最近来ませんけどどうしたんです?」



 少し前まで檻を抜け出しては人の部屋で好き勝手していたあの男————あんな自由で適当な人間が、オペをしたからと言って聞くはずがない。ICU送りにでもなっていない限りは傷口を開きに来るだろう。なのに二日も来ないとは何なのだ?



「あの人は別室に移動したらしいです」



 医者はそう答える音が精いっぱいだった。


「別室?」


「それ以外は何も」



 医者の淡白に、個人の秘密と無関心が見えたよう。

 彼は本当に知らないらしい。失礼したと退出する姿は、いくらか申し訳なさそうにも思えた。


「……あれが、移動、か」


 また隣室に迷惑をかけるのだろうなと想像して、アースチンは小説を開く。最後のページまで、今のうちに読み進めておこうと思う。

 あいつと話をするためにも。



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 そうして彼が小説を読み終えてから半日は、誰も来ることは無かった。睡眠の為ではない。診察は朝早くにあって、寝起きに近い時間だった————だから人の往来は間違いなくあった。けれどそこに、何か必要なこともなかったのだ。


 アースチンは少しの間余韻に浸ってみて、久方ぶりにすることがないと思い立って目を閉じた。昼寝しても結局があるわけでもない。ちょいとばかりの掃除だって、明日には勝手になされるはずだろう。


 ならばと、菓子でもバカ食いに走ってみようか?


 現代では珍しく抜糸のいる傷で、食事での胃下垂だのの恐れから制限されていた。眠っていたのも込みのうっぷん晴らしに少し興味を持ちだして、彼は自室の扉を開ける。


 同時に、外で待ち望んでいたらしい女が飛び込んでくる。


「エントロピーか。八百万寄りだな」


 その声は明らかに、慣れ親しんだあの隣人だった。


 と来れば見慣れたあのしわに狂いようが見られるのだろう。アースチンはくっつかれるのはごめんだと一度受け止め投げ飛ばし、彼女に言う。


「移動になったって聞いたよ」


 そうすると少女は特に驚くことなく、


「磁場を超えただけだ」


 と自信満々にその豊満な胸を突き出して笑った。



「そうかそうか、愉しかったんだな」



 アースチンはわずか140センチの身長が飛んでくるのを受け流し、ノリノリで語り始める彼女をのけ払う。


『ともかく、ネゲントロピーについてだな』なんて意味の分からないたわごとの集まりに浸るのはごめんだからだった――――私としては、邪魔者が減って楽な限りだよとつぶやき、彼はすり寄ってくる彼女の平坦な胸を気にも留めずに押して来るなと示す。


 恐怖でもあるのか?なんて思考で隣人は、


「大丈夫だ、私がある」


 と安心するべきに語るのだ。


 本当に本当に、全く持って意味が分からない。コンクリートに埋め込んでそのままにしなければ、きっとどこまでも犬のようにつけてかみ殺されるだろう感覚がある。


 アースチンはなぜか、高速で存在が切り替わるかのような攻撃感を見て彼女をにらむ。


「帰れと言っているんだよ」


 彼はそのまま身長以上の女を抱き上げナースコールし、自室に閉じ込めて少し待つ。前隣室にいたときから変わらない脱走っぷりなので、すぐに納得されたようだった。


「なに、私は悪の本だよ」


「夢の見過ぎだよ。早死にする」


 彼女は何かを伝えようと奇妙を連呼してみるのだけれど、二次元人が内臓消化について別個体か同一個体なのかの合間に苦しまねばならないという状態と似たように、異次元の言葉を無理くり収めたらしいから意味が分からない。


 圧縮言語めいた謎理論らしいから、壁に阻まれたのもあって全くアースチンには届いていなかった。


「また、ご迷惑を」


 彼の前に医師が来たので、冗談めいて


「代金は入院費につけておいてくれたまえ」


 とアースチンは笑う。


「ええ。では失礼を」


 引き渡しに粛々と歩く彼らに引っ張られて、元隣人はどこかに消えた。



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