ウインド・エッジ
1
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アンダーシティNo.88、ケルス。『地上とほとんど同じ空間を』との依頼で作られたこの都市は、地かでありながら太陽とほとんど同じ光を太陽灯によって受けることができ、日の出日の入りなどは当たり前として、日食に月食、流星群までもが地表と同じように見られるように、製造されていた。
この日はちょうど、久方ぶりの月食の夜であった。天体イベントという名目で、人々は様々に外を歩く。例えばウィスキー、例えばセックス。そして例えば、アンダーテイキング。
数兆では済まない建造費用をかけられて造られているくせに、やることはだいたいが地上と同じなのだ————金持ちの道楽じみた安全の確保ゆえ、同じにできることもセールスポイントでは、あったのだけれど、はたして50メートルほどのビルが地下でありながら林立するのは、その為だけだったのだろうか。
中では奴隷制が復活し強制労働が行われている癖にな。
今日もまた、軽犯罪で逮捕される悲しい人物がいる。路上での排尿に酔った勢いでの喧嘩、吐しゃ物を吐いては万引きが、空気のようにこの街を包んでいる。でも大掛かりな犯罪は、形式でしか見られない。資金と権力ゆえにすべては塗り潰されるからだ。
彼らにとっては、人を消す方が早くて楽だったからだ————この歪んだ街にも抗う人間はいるが、別にそれらでどうなった、という話はない。
労働者集団が人権を求めてストライキを起こした時もあるし、奴隷住居エリアの汚染反対と声を上げた人間もいた。だがそれらは全て、一人の重役の責任問題という風にして終わらせられたのだ。
結果得られたのは、求めていた待遇改善の2%程度。その改善すらも後の業務改革という名の乱雑なチェックポイントの付け外しによっていつの間にか消え去っており、結局この街は絞るだけ絞る側と絞られる側、まるで軌道エレベーターと地球の関係じみた異常なピラミッド構造となっていた。
それはまったくもって、取り締まる側としては不服の極みでも、あった。
なぜここまで犯罪というものは減らないのだろうか。小さな詰め所のデスクの前で、クリス・エヴァンスは静かに思った。ヒマなポリスをしているのが、世界の一番の幸せなはずだ。それは旧世紀からも、繰り返されてきたはずだ。
でもそれらは一向に改善されることはない。今でもアホは酒で設定ミスの事故を起こす。今でもアホは、禁止だというのに路上で排尿する。
彼女はまた
アレルギー気味の鼻をかむと、本日12回目の来客が心から助けを求めてやってくる。
休憩の一つもままならないと、カップの中身を一息に飲み込んで、クリスは立って来客に、落ち着くように促す。
「はいはい、どうしたんですか?ここはポリース・ボックスですよ?ご用件は?」
「要件だって?!そんなもん見りゃわかるだろ!助けてくれ!アンタポリスなんだろうが!ほら!さっさと!」
しかしその市民は、言葉を使ってわかるような状態ではないらしかった。乱数表のように取り留めのない言葉と重要な単語が並んでいて、でもるつぼでなくサラダ。かき混ぜられていて、ないまぜで。
「モールがボーンでジョックがジャニーになって!丸かったのが死角になって真っ黒で!とにかくでっかく燃えて!それで!」
「落ち着いてください!まずは何があったのか聞きますから!」
彼女がそう言うまでは、ワードのミックスボウルが止まることはなかった。
いや、止まったのはほんの一瞬だっただろう。
「そんな落ち着いている場合じゃあ!ないん」
反駁があったのだけれど、それが一瞬で消え去ってしまったのだから。
飛んできた弾丸をとっさに伏せて躱し、クリスは腰に下げている制式拳銃を取った。破壊の跡を見てそれがライフル用の弾薬によるものと推定し、手鏡で誰も見ていないことを調べてから、ひとまずの隙間を縫い、奥の装備保管庫へと飛び込む。
一体どこのテロリストだ?アンダーに潜り込めるなんて……?
とにかく、装備だ。出せるものを出さないと。
パスコードを入れようと扉の方へ振り替えると、誰も入らなかったはずだし破壊音もなかったのに、どうしてか保管庫の外壁は破壊されていた。嫌な予感がしてラックを確認すると、ライフルはほぼすべて盗まれていた————丁寧にトラップのもの以外、全て。
ワイヤーが飛び出て感電で麻痺するという罠があるのは公然の秘密であるが、その設置場所、方法、そして奥の手があるとまでは公示されていない。それを知っているのは、ここの中の連中か、設計を知っている奴か、または。
クリスは考えてはいけないことを考えたが、すぐにそれを振り払ってライフルを握り、その状態でトラップユニットを解除。弾薬とマガジンも含めポーチに収めた。
今はそんな細かいことを考えている暇なんてない。そうだとしたら厄介ごとだが、上のことだ。今自分がすべきなのは、状況の判断と応援の要求。だからすぐにでも外に出るべきなのだ。
軽量なタイプの防弾装備を着込み、可動域が十分であると確かめて彼女は出入り口の壁に身を隠した。弾丸でガラスが割れる音が響く。叫び声と倒れる人々の声。今すぐにでも行かなければと職務の感情が動き出すが、同時に
「中央署ですか!こちらアーレット詰め所!聞こえていますか!」
状況は最悪も最悪だった。
「中央署!聞こえていますか!」
外から内側へと破片のとんだ窓ガラス、弾痕の残ったコンクリートの柱、倒れて尋常でない量の血をシルクリートに投げ出した人間。ところどころに見えるこの破壊の方向からして、犯人は通りから無差別に市民を虐殺しているという風に見るのが正しいだろう。
一人で対処できるようなものではない。初期対応しかできない、増援が必須————しかし返答はない。あまり使っていなかったからかもしれない。ダイヤルがイカれたのかもしれない。
「畜生こんな時に!通信部分でも逝ったか!」
効果のない通信を
「……こっちも?!」
腹立たしい不思議だった。
じゃあ手配できるエレカはと検索をしてみるが、こっちはこっちでルート障害が発生しているらしい、手配できるものはないと冷たく戻ってくるばかり。
「中央署!聞こえていますか!聞こえるかってんだよ!」
効果がないとわかってはいるが、万に一つの可能性を考えて、通信を続けながら彼女は推測する。
落ち着け、まずはあの男がどこから来たかを考えろ……服も顔も、特筆すべき点はない。単語はどうだ。何があった…………モール、モールか。
銃弾の方向はどうだ?合致する。流れ弾が偶然の可能性は?わからない、だが何かを見たのか?そうだとしたら、そうだとしたら!
このまま1、2キロすれば、ショッピングモールだ。そこに立てこもりでもして自爆テロでも試みられ、彼がそれから逃げてきたのだとでも考えたら、どうだ?
とにかく、被害がこれ以上増える前、今まだ犯人が徒歩で乱射のこの状況のうちに、事態をどうにかするしかない!
「畜生!間に合えよ!」
彼女は重たい装備を纏い、一心不乱に駆ける、駆ける。
通信機は静かに、それを聞いている。
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現場にたどり着いた彼女は言葉を失った。溺死、急死だのは職務上目にすることはあった。でもそれはまだ、人が人として偶然にいなくなったということだったから、納得自体はできた。割り切ることは、できた。
けれどそこに広がっていたのは、今まで見たこともない文字通りの死体の山と血のカーペットだった————人間の肉体が合体ロボのごとく背中に開いて折れていたり、原義の達磨めいて四肢がないのは当然だった。口を裂けるほどに開かれているだけというのがごく普通の方に位置できるほどに、何もかもがまともな人間の形をしていなかった。
「これは………なんとひどい……」
人間の尊厳とはなんぞやといわんばかりに、彼ら彼女らは破壊されつくしていた。
クリスはすこしだけ吐き気を覚える。猟奇殺人にまでは、彼女は耐えられるほどにこころを殺せない。時には銃殺をしたことのある彼女であっても、必要以上の殺戮には顔を歪め、眉を顰めずにはいられなかった。
いったい誰がこんなおぞましいことを……なぜこんな、邪なことを…………。
「誰だ!」
彼女が思った時、どこかから砂利の音が響いた。
カチリと銃を向けたけれど、居たのは猫だった。それはこんな状況でも無邪気に
「おい、やめろ!」
クリスがそう叫ぶと、猫は驚いて走って逃げた。まだ正しくあれることがほんの少しの救いになって、数瞬気を抜いて、彼女は気を入れなおしてあたりを警戒する。
まだ明るい時間帯のケルスに不釣り合いなほど、人のいないアーレット通り。その中でひときわ破壊の著しい建造物の中を、クリスはゆっくりと歩んでいく。
それから10分ほど、経過する。もともと見回りやすく設計されていたから、それだけの移動でも変化を見るのに充分であった。
エスカレーターは崩落しており、エレベーターは動いていない。破壊の跡は次第に乱雑になっていき、余裕が消えているのが見える。しかしそれは一続きでなく乱雑な順序をしており、まるで階層を飛び越えた動きをしているかのようだ————吹き抜けをジャンプして移動して、アニメイションのような戦闘をしていたとしか、思えないほどに激しい。
クリスは階段の方へ行き、まだ綺麗な血の跡を踏み超えて二階に上がった。そこにも
そして何があったのかを明らかにしていき、また階を上がる。減っていく死体を意識の敷居に並べ、超現実としての現状を、考える。
これは人間ができる破壊の量なのか?
不可能とすぐに結論づける。
この量は明らかに人間一人の持てる武器の量を軽く超えているし、ライフルが盗まれてもここの柱一本折れやしない。出来るわけがない、鉛玉ごときで。
なのにここでは構造に関係しない柱の十数本が砕かれていた。
本当に、ただの人間がやったのか……?昔じゃないんだぞ?爆弾ごときで壊れる建築物じゃあ、無いんだぞ……?
クリスにはこれが、人間の所業とは思えなかった。むしろこれは兵器の所業、ウィーヴスやタンク、フローターだのの仕業だとしか、状況を理解するすべがなかった。
けれどそんなものが使われたはずがないのは、重々分かっていた。
分かっていた、だからこそ。
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