2
————
何かの像がクリスの網膜に映った。彼女はそれに照準を合わせようとするが、影は建造物の裏へとすぐに消えてしまった。見たことも聞いたこともない速度、まるでツバメのようだ。
明らかなる人間の像が人間離れした速度でビルとビルの隙間から出て消えた。そして破片が彼女のすぐわきに飛び、地面をえぐって砕け散る。それでも十分な勢いを持っていたかけらが彼女の装備に傷をつけ、中の防御用装甲液を流出させる。目で追うことどころか、残像すらこの距離で残れない。なんという能力だろう。
間違いなく何かがいる。間違いなくそれがこの状況を作っていて、間違いなくそれは殺しにかかっている————どんな人間の力でも、どのような非熱量装備を使っても断裂しない特殊繊維が、こんな簡単に…………。
クリスは人型ながらも圧倒的な能力を持つ、カートゥーンのヴィランを頭に思い浮かべた。ビルとビルをワイヤーで飛びまわったり、顔にマスクつけてスカーフをなびかせるような奴だ。
肥大化した筋肉だったり、人間の形したリザードだったり。けれどそれらを考えてすぐに、彼女はそれを振り切った。
「……そんな漫画でもないし、それはないわよね」
けれども何か強大なものがいるのは、事実でありそうだ。彼女はトリガーに指をかけた。しかし瞬間、クリスの前2メートルに人間の形をした物体が空からたたきつけられるように落ち、受け身を取って体のバネで彼女を飛び越えてブレーキをかけるのである。
「!」
とっさにトリガーを引いたが、体にある物体への恐怖が腕の動きを邪魔し、弾丸は空や近くの地面などに飛び込むばかりであった。心の底から何かが違うとわかった。
しかし硬直した筋肉は、戻ってはくれなかった。
「ポリスか……落ち着け」
人型は乱射が止まらない彼女に高速で近づき、ライフルを握りつぶして弾丸の発射を止める。ハンマーやガスシリンダーが飛び出す。そのままクリスが、簡単に床に蹴り転がされる。
「見たところ末端配属のA入りか……消すと後々面倒だな」
そして装備のことごとくを破壊してから冷酷に言い放ち、ジャパニーズ・カタナを首元につきつける。かなりの名工、彼女の落ちた髪が触れるだけで切断されて、静かに整う。
「お前。命が惜しいならばこのことは忘れるんだな」
彼女はそう止めると、刃を仕舞い戦っていた方向へと地面を割りつつ駆けた。飲み込めない状況に数秒の間脳髄が止まったがごとくになるが、なんとかそれを振り捨てて状況に駆けた。機能しなくなった部分をすべて捨ててクリスは
熱量武器でもなければ破れない特殊装甲布を軽々に破片だけで破り、明らかに死ぬ高度から落下してなおぴんぴんしている人間に近しい謎の生物。
人間と同じ骨格をしてはいるが、皮膚のあるべき部分には外骨格として機能する硬質化したナニモノカが存在している。それは見るからに金属質で、弾丸すら弾き飛ばせそうなそれの圧倒的な重量を支えられるよう、筋肉も十全に発達していた。
そしてあれは自分がどのような区分であるのかを一瞬で当て、自分にNOという間も与えずに忘れろと言い放った。基本的にポリスの装備は階級を示す物体を存在させないように作られている————不便であるからポリス内専用装備のゴーグルで区別がつくようにはなっているが、それは外部には流されていなかったはずなのだ。
「どうして私を……それに、詮索すれば殺すとはどういう…………?」
それの答えは今の情報では出てこない。出てくるわけも理由もない。
しかし明確に上の後ろ暗いものが重なっていることは、確かだった。ずっと隠されていた物についに触れてしまったということだけは、明らかに分かった。
クリスはせめて記録しておかなければと、タッグを引っ張り出す。
だが並列分散接続までも失敗している、起動することさえできやしなかった。
————
あれから三日が経った。
いきなりの休暇を与えられることになり、ポリス・ボックスの修復工事、急なボーナスと何かが隠そうとしていることは、明白にわかった。あの事件についての情報は全くといって出てくる気配がなく、検索をかけても出てくるのは、燃料ガス輸送トラックの破損と火災による大規模な爆発事故のみ。
しかしそれが本当のことでないのはサルでもわかった。
爆発で人が猟奇になるわけがない。火災で血まみれの建物が、出来上がるわけがない。恐ろしき人外が、口止めをしてくるはずなんてない。
「何も出てこない………」
ベッドの上で天を仰ぎながら、彼女はタグレースのエア・モニターで検索を続ける。もうネットワークが地球を覆ってから長いというのに、未だ人間は何でもを知ることはできない。できやしない。
ダークウェブなんてものでも、全てをカバーすることなど不可能なのだ————現に今こうして、自分はあの惨劇の正体を、知ることができずにいる。
彼女は焼き付いた死者の姿を思い出す。
右手はいつの間にか肉が白くなるまで握りしめられていた。
「あんな虐殺が爆発なのか?あんな尊厳もない虐殺が、爆発事故でカタがつくのか?!」
彼女は外に聞こえないように吐き捨て、腕を目に当てた。
正直この展開にはついていけない。わかるのは上層部に何らかの機関が働きかけているということと、それらが建物込みで消し去ったことくらいだ。
『爆発事故』の影響で破壊された装備置き場はシルクリートと金属フレームで簡易的に修復され、中に置いてあった装備はほとんどが飛んできた瓦礫のせいで使い物にならないといつの間にか上に報告されていた。それもたった三日の間に。
————当然、彼女は一切そんなことを伝えていないのに。
「何が、裏で動いているの…………?」
公正潔白であるべきポリスに対抗できるほどの力を持つ組織なんて、この都市に存在し得るのだろうか?確かにポリスは企業の飼い犬といわれてはいるし、実際にある程度までは企業の犯罪を見逃しているのは知っている。
しかしそれは本当に軽微かつ、発覚した方が社会に与える影響が大きいと判断されたときのみであり、それでも一応は警告している。力関係としてはまだポリスの方が上であるはずだ、まだこちらが、取り締まるはずなのだ。
「なのに、あの化け物の情報はどこにも出回っていない、んだよな………」
企業はもはや旧来の社会の一部というレベルを超え一つの行政体というまでに成長しており、その気になれば小型コロニーの一つや二つくらい簡単に建造できる。銃器に防具に航空機に車両、ウィーヴスの独自設計なぞ簡単なものであるのだ————その気になれば、独自の兵だって、持てる。
だからこそ、ポリスとガードには現状で最高の装備が与えられている。
クリスは小さな胸に手を当て、大きく息を吐いた。ガード、ポリス、そして企業。その順番で、この街は力を持っているはずだ。そうしているから成り立っているはずだ。だが、あの化け物の力があれば別になるのだろうか。
彼女の脳裏に、一つだけおかしな可能性が見えた。
「いやいやいや!さすがにそれはない!」
否定したかったが、そうでもなければ納得しにくかった。限りなくそれは陰謀論なのだけれど、でもそんなアイデアでもなければ、不可能。
それは特殊用途以外に禁止されているナノマシン技術を、今だ企業が保持している可能性。アウター・テックの違法行使。
アンダーシティ建造の理由である、特殊技術兵の再生産と保持の可能性。
ばかばかしかったが、そうでないと納得ができない。納得がいかない。
だがそうだとしたら、ケルス・シティは————。
クリスはそこで、一度思考を止めた。クライム・ストップだった。いや、保身だっただろうか。
————
自宅へと歩むクリスの元に、一本の電話がかかって来た。相手は全く知らない番号であり、それは自分の状況を知っているかのようにボイスチェンジャー越しに語り掛けているのだった。
「
朗らかそうにふるまうそれは、何も後ろ暗いところないですよ、と感じさせた。しかし絶対にそれは嘘だった。少しだけ気おされながら、彼女は冷静を装って答えた。
「
するとすぐに、その態度は消し飛ばされる。
「……冗談はここまでとしよう。要件はわかっているな?」
口調はあの時のバケモノそのもの。舌の使い方、鼻濁音、短めのタンギング。きっとそうだと思えた。それは静かに静かに、同じくしている。
「わからんのならわからんでいい。だが、わかるのだとしたら————
「わからない、といえば殺すのでしょう?」
そこで電話は途切れた。おそらく数少ない目撃者だから、もっと大きな干渉があるとは思っていたが————そうしてくれないとは。個人的には嬉しいが、それはすぐに消せるということの裏返し。あまり大きな行動はできないとみるしかないだろう。
彼女は電源を落としたタッグの画面を使って、後ろについている尾行をちらと見る。一般人ですといった様子をしているが、服装を変えて合計50分は彼女の後ろにいる。セキュアの方でいくらか学んだ、ましてや今はポリス。気づかない方が無理がある。
クリスはルート上にあるコンビニに入り、いつも購入しているドリンクを手に取った。
違和感を覚えられれば、オシマイだ。
彼女はあえて、トークンで支払った。ジャラリジャラリと面倒だが、持ち合わせはそれしかなかった。
————
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます