BCS
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闇に紛れる肌色の女性が、懐と足首にハンドガンを隠したまま、ケルスの昼を歩いていた。当然その姿は違法以外の何物でもなかった。しかし彼女にはそうしなければいけない理由があった、そうしなければいけない状況があった。
いつだって彼女は逃げることを準備していた————目をつけられたら、即座に退去できる程度の家具しか、持たないでいるべきだった。
合成ゴムの靴底がシルクリートを蹴り、少しだけそれにめり込んだ砂利が路面とこすれてきゅっきゅと声を上げる。時折じゃりじゃりと野太く吠えるが、そんな些細な物理現象には当然ながら目もくれず、彼女は急いで借りたセーフハウスへの階段を上がり、いつでも抜き放てるという風にしてから、クリアをする。
カチリ。古ぼけたハンドガンのハンマーが起きる。
「これでまだ一週間………慣れるまでが辛そうだわ」
そして何もないとわかったなら、彼女はそれをゆっくりと引き戻し、ホルスターに収めて扉を開く。
ブラウンの疑似木材のフローリングに敷いた合成糸の柔らかなマットにジャケットを投げ、クリス・エヴァンスはひとまず安全を確認しアンクルホルスターを外してラックに銃を掛けた。そして
ポリスを辞めて、守られる立場ではもうなくなったんだ。まだあそこで昼の住人をしていたなら、黒いところにかかわらなくてもよくなる。そうしていた方が、きっと平穏では、いられる。
でも、それで良かったのかと言えば、きっとそうじゃない。
私はきっと、死んでいった人たちのことを忘れられない。忘れたくはない。
あんな風に壊されていた人たちがいることを、壊したものがいることがこのケルスの中にあるかぎりは、きっと。
————でも、それはどうにかなるもの、なのか?
ガードの装備を持ち出せるような奴らが、
「大まかに地理だけはわかったけど、いつアイツらが来るかが怖いのよね……長居はできなさそう」
彼女は無理くりにそう押し出して、ネガティブを押し止めた。
法の番人が
そして夕飯にでもしようと、オートショップで何にしようと、玄関の扉を開ける。
「なんか見覚えがあると思ったら……アンタ、ポリスのババアじゃないのさ。こんなところで何してんだい?」
そこでバッタリと出くわしたのは、死ぬほどデカい荷物を抱えた女だった。
ポリス時代————それも今から3年前ぐらいに、取り締まったネットヤンキーの一人。あの時はエレクドラグの売人をしていた、高校生だったかしら。彼女は思い出す。
なんだかんだしていまだに辞めていないたばこ、無理矢理染めた赤毛、ほんの少しだけ高めの声。何度となく世話する羽目になったために聞きなれた、まるでノコギリのような声。忘れたくても特徴的な波形でババアババア呼ばわりされたから、忘れようがない————当時はまだ20代前半だったクリスにさっさと出せだのと悪態をついては檻にしまわれるを繰り返していた、うら若きマージナルの少女。
そしてそれは3年たった今でもあまり変わらず、退廃を少し味わった反抗的な女性へと、年齢だけが成長していた。
まるで昨日逮捕したかのように、クリスは呆れる。
「アンタに言う必要がある?」
「こんなとこに『ポリス様』が来てるんだ。少しは理由が欲しいのさ」
懐かしい顔をしたビッタ・ベリスは、ふてぶてしくにやけながら吐きつけると、少しだけ背後を荒くカットして続ける。
「それとも何かい?『潜入捜査だから言えません』とでも理解してほしいのかい?」
やはりというかなんというか、こいつもこいつでまた何かやらかしたのだろう。
その荷物で何を言い出すのやら。お前も絶対逃げてきたんだろうが……それもクソ雑服着ないといけないくらいヤベー奴じゃねえか。
なんだよ『THえ エビマキ ジャパニーズ』って。どこでそんなもん買って来た、いつの時代のネオカワイイだ。
「…………追われてるのさ。それでポリスは廃業ってわけよ」
懐かしい取り締まりの時の出来事を思い起こしてから、クリスはビッタの肩を乱雑に抱き寄せ、聞き取れるギリギリで答えた。
ウザそうにベリスは、それをすぐに引きはがす。
「だったらどうしてこんなとこに。アンタが言ったには法治国家でしょうがケルスは」
「それが通ってたらこんな落ちぶれた場所来ないわよ。暗殺者と無縁の暴走族様には関係ないでしょう?今の私の状態さぁ」
「つーかいつの間に転職したの知ったんだよ。私の担当外れたじゃんアンタ。縦割りなんだからそういうの入ってこないはずでしょ?それともストーカー?」
「…………検索したのよ。オールド・モトに乗ってるの知ってるでしょ?」
「あー…………アンタ、意外と違法好きだったんだね。うん、ごめんごめん」
ポリス時代の名残をビッタは無理矢理に押し広げ、うっとおしかったぞといわんばかりに服をぱんぱんとはたき、自宅の戸に鍵を差し込んだ。というかお前隣に引っ越してきてたのかよ。マジで何なんだこの腐れ縁。
クリスはため息を分かりやすく吐く。
「ったく……ま、隣になったのもなんぞかの縁よ。いくらかは手助けしてやる」
当然ビッタも同じである。彼女は鍵の開いた戸を雑に蹴り飛ばし、その姿はバタンという音に消える。
全く何なんだ。
クリスは肩をすくめて、適当に歩き出す。
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スクランブルのかけ方とパスワードさえわかれば、どこまでも進化した暗号技術であったとしても無用の長物である。この時代でもいまだにRSA暗号やシーザー暗号が場合によっては使われるし、何なら合言葉を使う人間もいる。そんなレベルで問題ないなら別にそれでいいのだ————当然、ポリスはそうではないが。
とはいえポリスの使う、一次互換性を持つ手法であるPPSS転置法を用いた暗号化方式だって、それはパスワード一つのみを用意すれば受信を、そしてロックキー一つを用意すれば発信のみを利用できるというRSA方式の基礎をそのままに進歩させたものであった————つまりまだ人類は、近く地上からは離れられないのである。
彼女はそれを利用する気満々で、まだ変わっていないパスワードをタッグから入力する。
メリットとして、送信者ですらパスワードなしには内容を把握できないための高度な機密性と、大本の技術ツリーが既に成熟しきっているための脆弱性のなさとコストの低さが————デメリットとしては異常なまでに長いパスワードとロックキーがあるそれは、人間が覚えられない長さのくせにコンピュータには計算できないという解読難度があるゆえに、ポリスはそれを使っているのだ。
だがそれを自力で覚えてしまえば、果たしてどうなるか。
端末は簡単に一つ買えるし、接続方法もキーもわかってる。傍受するのに必要なネットワーク環境なんて、今の時代じゃ空気のようなもの。どこでもつなげられるがゆえに追えないっていうのも実務で知ってるし、お手軽に利用させてもらいましょう。
クリスはサクサクと環境構築を終え、一つ一つブレインメモしておいたパスを入力。流星のようにロックを解除しては、深く深くへと送受信されるパケットを横取りしていく。
「日報、報告書、私の辞表………」
というか、そんなもんをネットワークに流すな。人の辞表だぞ。
軽く目を通しながら彼女は、あんな化け物の情報をどこに隠しているのかと考え、持てる限りの限界まで深いネストへと端末を潜らせていった。
今現在流れている、流出OKな表層からギリギリな第二層へ、それなりにアウトが混じり始める三層から、捜査関連のアウトな資料の第四層…………。ダイブシステムがあったら、生身の身体で泳ぐようなイメージだろうか。
情報の海の中を、深く深く。ジャック・インするように彼女は電子をすすめる。
だが当然、そんな夢か幻かというような出来事の記述は、軽く探してみた結果どこにも出てくることは無い。
最後に次の更新はいつなのか、パスワードはどうなるのかとギリギリ行ける範囲までクリスは調べ、そのまま端末の電源を落として退出ログに残らないようにして接続を切った。
「……やっぱり出ないのよねぇ、あんな荒唐無稽なの…………」
けれども手に入るものは手に入った。
ローカルに残った二つの戦利品を確認し、そのままインスタント・タッグを真っ二つに砕く。クラウドコンピューティングの接続程度だ、パン代くらいの価値。
彼女はホルスターの銃に手をかけスライドロックを押しまわして外し、一つ一つをバラして眺めた。
こっちの方が、思い入れがあるだけ高い。価値は同じになるかも、しれないけれど。
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