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聴診器の冷たい感覚は心臓に悪いから好きではない。けれど何度となく当てられるうちに慣れてしまって、今は半月ほど刺さっていた点滴の針のように、違和だけが小さくあるといった感じにしかならなくなった。
薬のにおいと同様に、瞬間的な不快だけはある。けれどそれがどうしたものか。
酸素には青いにおいがあるとどこかで聞いたのだが、空のどこからもそれを感じないのと同じなのだ。
「あの人、前々から別の病院から『引き取ってくれ』ってされてましてね…………」
呼吸音とエアコンだけが響く診察室で、そう医師は語った。少し前に彼は、隣人についてとうとうとアースチンの隣人について語っていたのだ————どこから来たのか、なぜ来たのか。いろいろがアウトにならぬ範囲で彼の耳に届いた。
時計の針が13時ちょうどをさした。アナクロなクォーツ式の時計がボンと響き、昼の時間ですと彼らに伝える。
「それで、ですか」
アースチンは一度会話を打ち切り、ゆっくり息を吐いて虚空を薙いだ。
「気に障りましたか?」
抑えるような医者の問いに、彼は小さく微笑む。愛想に近いのはよくわかった。
「そう、ですか…………」
少し前に気まぐれに、あの王様気取りについて少しだけを聞いたことを彼は思い出した。
誰がアイツを収めたのか。
それは自分自身だと豪語するけれど、家族が邪魔がって投げたことは簡単に分かった。手が付けられないから、あくまで入院として死ぬまで。ドグマに落として回収しないというだけのことだろう。
自分から進んでとはいえ、自分だってそんな風に埋められたようなもの。棺桶めいた部屋に檻付き鍵付きになったこともある————どうやって抜け出したかはわからないが、あの男だって同類だった。
カルテに書き込むペンの音だけが、カツカツと響く。
「いやはや、空気の一つもやわらげられないとは。お恥ずかしい限りです」
彼は一筆やり切ったという感じをして、無理した笑顔で風を切り裂いた。
「それはそうと、調子はどうです?」
ぽんぽんと空腹を示して見せ、医師は肩をすくめる。
「腹回り、何か起きていませんか?」
昼の時間だから、昼食に行きましょうとの暗な提案なのだろう。
「……少しだけ、たぷんとする……くらいでしょうか?」
お茶を少し前に飲みすぎた。そんな冗談だったけれど真に受けたのが目の前の彼だ。
「服を捲ってくれませんか?」
冗談ですよと答えてみたけれど、熱心に聞く彼はどうもあながち冗談でもないらしい。二重三重にチェックしてみるその姿と、急いで書き込む追加の記述。ちらと見えただけでも、要検査だそうだ。
嘘から出た実とは、現状にあるのだな。
アースチンは微妙に笑みを緩め、ああそうかと現実を受けて吐き出すことにした。そして医師は最後の最後まで聞いて、あきらめたように口を開く。
「腹水、ですか。明日には起きるのでしょうね」
「…………予兆」
薬で何とかなると聞いていたけれど、駄目な時もあるとは別で言われていた。確率はわずか3%だった。
「痛み止め、出しておきます」
けれど何とかならん時は、物理的にいなくなるまで耐え忍ぶしかできることはない。だから前兆————あるはずのない質量の増加だったり、耳内部での異音だったりがあれば諦めろと知っていた。
確かにかつては何とかなった。
副作用か、傷かでひどい目には合ったが、末期症状だけはまだ来なかった。
「明日はよく注意しておけと、伝えておきますから」
けれどこんな簡単に。
慣れたこととはいえ運が悪いだけでというのは受け入れがたかった。アースチンは擦り減っていく何かを押し殺しながら、感謝の気持ちだけを表す。真実ではなかったが、そこに一切の嘘はない。
「ありがとうございます。では、また」
「良い日をお過ごしになることを、心から祈ります」
病が末期症状になったとしても死なないとはいえ、激痛が走り全身が組み替えられるような衝撃がある。ドクササコを億倍にしてハザードにまき散らしたようなものだ。彼はケ・セラ・セラとしかできずにつぶやく。
「ハウメアの神の御加護があらん事を」
「?」
「冗談ですよ。隣人にほだされたとでも言ってみるだけです」
そうでもしないとやっていけない職業なのだろう。人の死にかかわるというものは。
肩をすくめ、これで今日の診察は終わった。彼は一度もらった薬を置きに部屋へ戻り、鍵をかけて通貨素子をとる。今日のランチはまずいだろうが、食わねばやってられん。
遠くから差し込む日差しのように、一瞬の鋭さが彼の右腰を突いた。
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空を切り裂くような痛みがあったから、何がしかがあるとはおもった。裏切られてまずい飯になってしまったのがとてつもなく腹が立ち、安心したようでいらいらした。前も似たようなことがあってストレスをためたっけか。
アースチンは中庭に出て、噴水に腰かけ空を見る。今日は雲一つない快晴で、誰もがうらやむくらいの美しい昼間があった。
願わくばこんな状態がいつまでも死ぬまで続いてくれればいいのだが、100年を超えた平均寿命から察せる通り、末後の苦しさは終わることないだろう。
せめてこのすがすがしさを肺に詰め込んで生きていたいと、彼は息を吐いて色を飲み込む。
囚人服めいた病院の部屋着がすこしそらんじた気がして、臓物の奥に刃が刺さった。
「…………ッ!」
そこで感じたものは、30分遅れだった。
よりにもよって、今更か!
声を出そうとするものの、どう頑張っても腹筋で押し出せない。肩の力は体を支えるためだけに使われていて、そうなったのは倒れかけていたからだ。
内臓の痛みはどこから来るかわからない。表皮はどこから来るか正しいが、内臓はたまに嘘をつく。筋肉と思えば心臓で、腰と思えば股の中身。虫歯なんてわかりやすいだろう。
ぜーはーぜーはーと状態から抜け出せず、ガンガンに叩く頭痛が運命のように私を愛する。余計な恋人の無駄な反応を怒りに満ちてアースチンは転がり、ただあえぐばかりだ。
急いでアンプルを取り出して飲み干したが、即効性の割には効果がない。むしろ痛みを増しているのではないか?と疑われるくらいには悪化したようだった。
「どうしました?!」
窓の向こうか付き添いかの看護婦が、そう叫んだ。
「どうしました!?」
一回目で反応がなければ二回目。それで反応がなければ三回目。意識があるなら語り掛け、なくても繋ぎ止めたいとする行動だ。アースチンが対象であることはわかっていたけれど、返答なんてできるわけがない。こっちはそんな声を出せるような状態じゃない。
「コレマッタさん!?」
助けてくれと言外にしていると理解しているから、彼は私の元に駆け寄り、急いで回復体位を取らせる。そして酸素ボンベを使って呼吸を楽にして、何があったか吐かせようとしてくる。
「…………痛みが…………」
アースチンは言葉をまっすぐに押し出そうとしてみたが、どうやってもつらいままで失敗する。流麗に語ることは不可能とみて、彼はアンプルの空き瓶を差し出そうとして落とし、草むらに紛れさせててしまった。
仕方ないので、脳を殴るようなそれを絞りきった『あ』の羅列で耐えつつ、彼は空気を吐く。
「いた……み……どめ…き…………」
アンプルで止まらなかったと伝えたいが、わかってくれるだろうか。
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