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「マスター。プラントの空気からジャック・OのDNAデータコア・コードが採取できました」


 灰色をした亜人は低い落ち着いた声でそう告げる。彼は長身を折り曲げてタッグを差し出し、受け取ってもらうとすぐ、彫像めいて跪く。


「それで、次はどういたしますか」


 男は口元に手を当て、肘をソファにつき空間をにらみつけながら確認した。アデニン、チミン、シトシン、グアニン。ところどころに誤差のウラシル、イントロンとエクソン。マトモな量でない文字列だったが、ある種のハンコのように、一定のアルゴリズムで絵となるように、その一部は設計されていた。


 彼の足元に猫が飛び乗り、あくびをして体を丸める。しかしそれに一つも和らぐことなく、彼は静かに述べめいじる。


「殺せ。それだけの能力者だ、きっとこっちには靡かんだろう」


 当然ナイフが刺さっている。あるいはクギか、あるいはライフル弾か。彼の実力を知っているのならば、それを聞いたもの全員が震え上がると思えるほどに、それらは殺傷を貫通させた状態で伸びている。


「御意」


 亜人は影となり、風となってその場から消え去る。男も猫の背をなで、彼女を持ち上げて立ち上がった。


 不快そうに猫は手を振りほどき、気に入りの柔らかなクッションに着地して丸まりなおした。男は書架から分厚い本を一冊取り出し、パラパラとページを捲る。『赤と青の交差による有限認識と無限性』と題されたその書物は、何十何百回は軽く手に取られたのだろうか、ページが皮脂で黄色く染まっていた。


 男は目を通していく中で、一つの記述を発見する。『クオリアによる思考と、赤は赤であるという思考』そう記されたページを彼はおもむろに破り取り、いったいどうしてか残りのページも千切りばらまいた。


 影の兵士が代わりに数百、立ち上がった。



————



 未来も過去も明日への希望も、今まで生存していたという事実をも隠す夜の闇に、同化する小さな姿が一つ。それはせめてもの情けでもらったチョコレートバーを一本ほおばり、極寒の寒さを耐え忍んでいた、どこのものとも知れぬ少年である。


 彼はまだへばりついていたロックをブレスレットのように、膝を立てあごをつく。


 あれから二日たった。思考も、ちゃんと回るようになった。だから今になって思えば、ああして飛び出したことは失敗だった————少年は追ってこない組織の殺し屋たちを思いながら、次はどこに身をひそめるべきかと想っていた。

 彼の移動は、ほとんど一日ごとであった。


 彼は鴉の視力で索敵を行う。すぐに、何かが動いているとわかる。ついにバレたか?と思ったが、今度現れたのはプラントにいたとおぼろげの、最下級のチンピラであった。


「また来たのか……」


 彼らとは追いかけっこをずっとしていた。そして見つかるたびに銃撃されるので、面倒だからと彼は逃げるのみだった————またそうなるだろうなと、彼は翼を広げ、夜の闇に紛れて飛び立とうとする。


 戦わないに越したことは無いんだ、それにまずくしたら…………から。


 しかし飛び立つ前に聞こえたチンピラの声が、彼の飛び立とうという意思をほんの僅かだけ揺さぶった。



「………きっ…ん…………」



 それは彼の記憶にある単語の混じった文だと聞こえた気がした。

 少年の脳裏に五十三時間前の出来事が甦る。


 砂糖を一ケース丸ごといただいてしまったことや、部屋の中をのぞいてしまったこと。叩きだされたこと、この食事をもらったこと。そして、夢の中で見るという形なのだけれど、戦い方。


 ありとあらゆるのがごった煮に彼の脳に浮かぶ。呆れた顔で投げ飛ばされた痛みが、消えたはずなのに彼の体を刺す。そして最後に、一人の男の姿が映る。


 彼は手をたたけば破裂音が鳴るほどまでに強靭な筋肉と持ち、彼と同じ黒い羽と鳥の足を持っていた。そして一瞬で行う状況判断の正確性に、自分と同じような姿で、自分よりも圧倒的な速度を引き出すことのできる身体機能の制御力。そして明らかに食い違う室内と室外の整頓だの、不思議な統一感。


「あの人が……?」


 少年はほんの少しうろたえる。遠く遠くのちょっとした単語なのに、確定的に考えてしまうのはなぜだろう?

 ノイズがカクテルパーティーに消え去ると、クリアに何を言っていたのかがわかる。


「レイヴン、ですか。あのカラスのガキで、いいんですね?」


 相手のまではさすがにわからないが、続いて追いかけろと命令されたことがわかって、彼はうんと呟く。


「俺が入っていったのを、見ていたんだろうか……?」


 否定だろう。良くも悪くも、あの時の自分は追いかけられていたのではない。どうでもいい捨て鉢と見られていたはずだ、明確に蹴りだされるまでは、無意識とはいえ敵意は見えなかった。なら————。


「まさかあの人の方がターゲット………?」


 体を翻し、少し覚えた肉体変化で、夜の中に溶ける


「それとも、追い出されたのを知らない………?」

 彼はゆっくりと耳に集中する。


「ああ、奴だ。生活の跡がある」


 チンピラは確かにそう言った。

 少年は後者の可能性が濃厚であると、ハッキリと理解した。


 奴隷にあんな酷い行いををするやつら達なのだから、間違うことは無いにしろ、自分にかかわった者すべてを消すぐらいはするだろう————そうでなければメンツと律令で問題になる。敵になりそうなら全て消すのが彼らの流儀なのだろう。


 少年は耳にエネルギーを回し、今までより細密な分解能を発揮する。まだ残った雑音にまみれた世界が、小さく消えてアンチエイリアシングされる。エッジのかかった男性の声のみが、はっきりと形をもって聞こえてくる。彼が声帯を開け閉めする音すらも耳に届く。


 今なら通話相手の声すらも、ここから。


「例の烏のミュータントだが、やはりB区の喫茶店にいた。三時間後までに全員に通達せよ。処分する」


 そして少年はゆっくりと立ち上がり、いくらか後ずさる。


「奴はここを本拠点としている……元はフリーランスの傭兵のだったらしいが、彼奴を殺して奪ったと見える、レインドッグ、だったか。まあどうでもいい、今はそこが、ヤツのねぐらだ」


 なら、そうなのか。彼は安堵しつつ罪悪を覚えた。ゆっくりと息を吸い、分解能を許容できるまで落として、強張った体を緩める。



「ごめんなさい、あの時の人」



 彼はどうしてかつぶやき、チンピラと反対の方を向く。そして理由づけるかの如く、自分には彼を助けられるだけの力はないのだからと心の目をつぶり、願うのだ


「……うまく生き延びてください」


 そしてもう一度翼を広げ、夜の闇に飛びたつ。



————



 姿を人に戻し、少年は夜の喧騒を歩く。木の葉を隠すならば森のメソッドに基づいて、彼は自らの姿をこの雑多な違法物市場へと溶け込ませているのだ————おそらく今の彼を見れば、誰もが「ああ、ただの乞食か」と思うことだろう。


 少年は引き裂いたボロを身にまとい、いつの間にか拾っていた小鉢を目の前に掲げ、これまたいつの間にか纏っていたぼろぼろの薄いタオルを頭からかぶって、それらしい演技をして言う。


「お恵みを……お恵みを……」


 それが功を奏して、砂と泥にまみれたその姿を振り返る者はいない。ごくごくまれに振り返る奇特な人物もいるにはいたが、そんな時は普通に恵みを受け取ればよかった。だからゆっくりと移動しながら、その演技を彼は続けた。


「新型チップ、今なら3K」「バイオで一商売」「金が簡単に手に入る」

 表面的な売り文句が、彼の耳に痛々しく届く。どこかから人の足が踏み砕かれる音が聞こえて、そしてまた窓が一枚割れた。


「恵みを………」


 少年が歩く、少年が歩く。

 ケルスの暗黒市場ダーティ・ワークスは今日もまた、旧世代に想像された世紀末の通りに動いている。


 路地への道に落ちる、真新しい小型チップを踏み砕いて、彼は少しずつ人気のないほうへと進み、そして時折目だけを変質させて後ろに誰かがいないかと確認する。 追っ手を確実に見つけるための行動だったが、さすがにこの人口では人を追いかけるのは厳しいと見え、特に何もついてきてはいなかった。


 それも当然だ。金と暴力のあるものが正義というこの街で、自分のようなあからさまな弱者についてくるのは、弱いチンピラか能力を見切ったハンターかしかいない。たとえ各種ガジェットを使い、人を変え手法を変えして気づかれないように努力しても、人の壁を失えばそれはあからさまに発現するのだ、この暗黒の繁華街では。


 彼は二時間かけて牛歩で市場を抜け出し、複雑に込み入った市場周囲の路地に踏み込んでいく。途中でカメラドローンを見かけ、それが自分を追っているのか確かめようと音速以上で背中の布から翼を出して戻し、AIの反応があるか見た。


 反応はなかった。

 誰かが適当に飛ばしたものだろうと、息を吐いた。それを覚えるくらいには、ひっきりなしに追っ手が来ていた。


 少年は歩きながら、適当に選んだ三番目の路地へ足を踏み入れた。そこには明らかに掃除されていないゴミ箱が大口を開けて天を向き、シルクリートの破片が鉄骨を空に向けて転がっている。


 燃えカスと何かの白い瓦礫、そして穴の開いた道路。それらを勘案して、彼はここに生活者がいないのだと見て取った。そして胸から血を流し死んでいる男を見つけ、着ていた服をはぎ取った。


 少しだけ骨の見えた彼が来ていたのは、あまり傷のない強靭そうなデニム生地のジーンズとジャケットであった————おそらく死んでからかなりの時間、ここには自分以外来なかったのだろうと、わかった。


 彼はいただいたジャケットの胸ポケットに入っていたビスケットを腹に入れ、せめてもの礼として手を合わせ、開いたままの目を閉じて想う。体を変質させて、ビルの外壁へと体を蹴り上げる。


 壊滅的な音を上げながら、一度、二度、三度……。七回目に彼は長年掃除されていないすすに足を取られかけたが、壁に爪を食い込ませてどうにか回避。勢いを殺されたのでウォールクライムに切り替え、しばらく上ったのなら、屋上端の手すりを乗り越えて前転着地を見事に決めた。



 少年は少しの間たたずみ、風の方向を感じる。



 どこかからかすかに聞こえてきた、最低最悪なジェノサイドの音を無視して、彼は靡く羽根にかかる力を精密に分析した。合成肉を食している人間の作り出すごくわずかな風が音となり、力のパルスとなって彼にぶつかり、運動となって彼の脳に三次元情報として伝わる。玉のない石だけの街が、希望のない現在の街が、宝のない宝箱の事実が、彼の脳に伝わる。途方もない熱量を持った上辺に隠れた争いの事実が彼を闇に引き込む。


「………どこまでも、こうだ」


 彼は恐ろしく吐き捨てた。実年齢を十数偽っているかと思えるほどのその声は剣山のごとく見た目だけが尖り、彼が逃げる間にほんの僅か見せたその光景は、ステンドグラスめいた恐怖的なパッチワークであり、古代ギリシアの彫刻と同じように美しい。


「何が、あったんだろう————」


 そしてそれを眺める瞳は、ずっと前と同じように苦しく、そうしか生き方を知れなかったことを伝えている。何が何でどうでもよいこと、そうじゃなければここには場所なんてないことも、同じくしている。


「でも、何も変わらなかった、んだろう」


 生きている人のものは、生きている人のもの。死んでいる人のものは、生きている人のもの。それがここのルール。厄介事も、道具も、すべてそう。


「だがそれでも、俺は……」


 だから少年は人のいないと感じた方角へと駆け、そのまま空に浮かび上がった。いくら苦しくても、離れられないのが、生まれ故郷、だったから。



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