11
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ファリスの主観時間が泥のように彼の脳髄に絡みつく。一秒は二十秒と感ぜられるほどに引き延ばされ、衝突してくる男の体が波打って自分にめり込むのが見える。まるでスピードの中に肉体が溶けるように————その時間の中で彼は、離れていく男の体を深く観察した。
黒と黄の警戒色の、つややかな体毛。折れそうなほどにしなやかな肢体。バランス制御にうごめく筋肉は、体内に別の何かが存在するのかと思えるほどに停滞した時間軸でも活動していた。まるで昆虫の翅のごとく、微細な波を描いて美しい。その上にいくらでも並ぶそれは、荒々しくもビロードである。
だが、何かが違う。
つい先ほど攻撃を食らった時の記憶から、彼はそう思った。その幾何学的な不可思議に見とれそうになりながら、ファリスは小さな違和感を、ゆっくりと探す。拳が蠢くたびに、一つ一つ。そして気づく。
ほんの少しの傷でも身体の制御が厳しくなるのだろう。前まで食らった時と違い、男の尾がぴんと体の前方へ向けて伸ばされていた。他は完璧に連動しているのに、今はそこだけが、不自然に。
そうでもしなければ、ダメージを受けるほどに深刻なミスをするのかと見えるほどに、直線的に、精微に。
主観時間が元に戻り、ファリスの身体が地面へと飛ばされる。対処不能の攻撃に引き起こされた走馬燈を全力で無視しながら、彼は地面に削られる右腕を羽で防御する。続いて変化させ、獅子の口のようなクローアームを生やし、それを屋上の床面に押し当て速度を殺す。降りぬいて後転で立ち上がる。
時間はもう残っていない。早く決めねば!
ファリスはバランスを維持できる限界の速度で彼はコンクリートを砕き、加速する。半ばやけくその混じった速度でもある。感じ取ったのだろう男は、左手を上に向け右肩を後ろへ置く独特の姿勢で受けの姿勢に入る。まだ悟られるな……!
全身の筋肉の瞬発力で攻撃と速度を合わせたつかみを行い、そこから全力の筋力で胴体を貫く必殺の構え。知っている、食らったのだから。だから……!
風が冷たく時間をなぜる。光がゆらりと姿をはぎ取る。高速で物体が動いているはずなのに全く理解できぬほど静かな空間が、破壊された戦場のもとに広がる。見えないはずの世界がぐるりと全て確認できる。もうすぐ終局に至る。これしかない。ファリスは思い切り、腕を突き出す。
右の拳と爪がぶつかり合った。巨大なトラックの衝突事故かと感ぜられるほどの衝撃が、両者の機動だけで生み出され、いきなりのぶつかり合いによって空間が捻じ曲がるほどの圧力が生じる。周囲の破片と材料、床が完全に抜け落ちて、二人は腕をバキバキに折ったまま落下を始める。
だがそれらはまだ、致命ではない————しかしファリスは圧力で離れゆく男の姿を見て、にやりと脳内で笑った。男の尻尾がさっきと同じように前方に延びていたからだ。
やはり、か!
ファリスはまだ生きている左翼で空を押した。体を男へと押しだした。それは最後の決着のための行動であり、死を覚悟しての最後の一撃につなげる最後の一歩。
蹴るもののない空中で、姿勢を維持する男が彼の突進に注意を払った。だが何をどうしても回避は不可能、ファリスは残っている速度を用いて相手を足でつかみ、空中で回転して上空に投げ飛ばす。
翼のない四足獣にとって、空中機動は放物運動でしかない。四肢と尾で空中の体勢は変更できるものの、それでも体をひねった回避が限界。だからそこに勝機がある。
今度は地面へ加速しながら、彼は右腕を全力で修復した。全身のエネルギーが断片になって抜け落ちる感覚。砕けた腕そのものが崩れ落ちて生え変わる、快感にも似た不快感。これで最後の一回だ、ここで絶対に決めて見せる!
ファリスは男よりもほんの僅か先に、床面をぶち抜きながら着地する。壊れなかった柱を蹴って男の落下先にたどり着く。
主観時間がゆっくりと歪む。男がバランスを崩す限界地点で体をよじるのが見える。だがそこではない。目標はそこではない————そして制御の為に、尾を前に突き出す。
「今だ!」
彼はその固定された場所へと、左腕を伸ばす。
この一撃で終わりだ!
そう彼は心の中で思い、尾をつかんで固定しようと手を閉じようとした————だがちょうどその一瞬前に、男の尾は引き戻された。
「残念だったなァ!」
凍った時間が融解する。ファリスの両の拳が男によって握りつぶされ、さらに肘関節が破壊されて使い物にならなくなった。そして体を地面に投げ飛ばされ、表皮でつながっていたそれがまるで風化したかかしの服のごとく千切れて飛ぶ。
「がっ!」
短い声を上げてファリスは、傷をふさぐだけのごくわずかのエネルギーだけを残して壁にめり込んだ。彼の肉体は、ただ生きているだけというほどに限界だった。長くいられないほどに、使いつくしてしまっていた。
「ギリギリの攻防、楽しかったよ」
男は煙を上げながら、変質した羽の断片が刺さった拳と腕を修復する。彼は心から楽しげに笑った。
「特に最後の一撃からの空中機動!お前は本当に聞いただけはある!さすがキャットキラー、光栄だ…………だからせめて、最後は楽に殺してやる」
上空からファリスの破壊された肉片と、黒い羽根が舞い降りる。幻想的に残酷な一人の男の死を暗示するそれは、小さく彼の目に映りそして、悲しき死の瞬間を彼に予見させる。
とはいえ彼も、実は限度以上の行動を繰り返していた、満身創痍だった。だから男はゆっくりとファリスのもとに歩み寄った。補給しなければ、彼も同じように死んでしまう。あまりの速度に鼓膜はずっと破れ切っていたし、筋繊維は潰れかけだ。
それは音の聞こえない状態を治せないことからも見て取れる。
「……まだ、俺は」
ファリスの声が聞こえない男は喀血し、内臓の一部を外へと吐き出した。
「………生きるんでな」
彼は言葉を押し出すのも精いっぱいという様子で咳き込み、体のバランスを崩す。また青と金の液体が、地面にこぼれる。
「じゃあな、同類」
獣はその言葉を吐き出して、代わりに大きく息を吸った。命を憐れむかの如く、空が少しだけ暗む。男は、動けなくなったファリスへと、直線的な最大速度の拳を突き出した。
「地獄で、会おう」
けれどそれを、誰が行ったのかは。
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少年は巨大な破壊の跡を見つけた。少年は喜びの声を上げる獣の声を聴いた。少年は両腕を失った
男が小さく両手を払い、ゆっくりとファリスのもとへと歩み寄る。そしてすぐファリスの死を確信した。脳内にまた、先送りしていたパルスが思念が波となって彼の中でざわめく。不思議な使命感が生まれては消え、生きるためには見逃せとの独善と戦いをしては彼の心を揺さぶる。
「せめて、自分にできることをして」「生きるんだ!何をしても生きる!」「自分は生きていてはいけないのだから」「あの人への礼を返したい」
「じゃあな、同類」
男の声が残酷に響く。自分に気づけないあいつなら、止められるだろうか。けれど、それが間に合うのだろうか————そうならなかったら、その場でひき肉にされるのがオチだ。少年は非情にそう見て取った。でも同時に、勝てたとしても自分は傭兵から逃げられずに死ぬのだとも。
「そうだな、死ねよ」「生き延びるんだ」「ほんのわずかでも生きて死ねよ」
矛盾した感情が彼の中で廻り廻る。
「地獄で」
ミュータントたちに集中していたがため、弾丸に撃たれ少年の肉体が落下する。
「会おう」
男の声が小さく響く。「自分は「どうして」なぜ「きっと」たとえば「あれなら」せめて………」大量の単語がうごめく。眼下で男がゆっくりと、最後の攻撃のモーションに入る。
どうすればいい、決まっている。でもそうしたくない、でも、
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!」
理解不能の叫びをあげつつ、少年は地面へと飛んだ。無意識という名の覚悟が、彼の体を突き動かした。生き残るための状況判断という理由付けが、彼の葛藤を蹴り飛ばした。結局少年は、どうあがいても逃げられない。
彼は自分の中にある、優しさからは逃げることができない。
救ってくれたなら、一つ恩を返さなければいけない。彼は常に、本来そうであった。
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「させるわけにはぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
少年は攻撃の間に割って入った。攻撃が彼の腕に当たり、硬質化させた翼が割れて崩れ落ちる。元の人の腕が露わになる。だがそれでも止まらず、彼の胴体に腕が突き刺さる。それでなんとか、止まり切る。
三色の混合液があたりに散らばる。
「……一回は一回。これで返せましたか……?」
少年は言葉と同時にブリーフケースの塩と維持加速剤、チョコレートバーをファリスの口へと放り込んだ。そして最後の力で顎を叩きつけると、三つ全てがかみ砕かれて飲み込まれ、彼の両腕が再生される。彼の肉体にエネルギーが満ちる。
ファリスは言葉の代わりに、自らの体をチーターのミュータントへと飛び込ませた。
少年の存在に気づけなかった男は、腕を引き抜き退避しようと試みる。だが彼の体は動かない。硬質化させた羽根をシルクリートに突き刺し固定した少年が、腕ごと彼を全力で捕まえていたからだ。
「!」
彼は少年の腕を折り、体を蹴って地面の羽根を抜き取る。だが駆け出して逃げ出すような時間はもうなかった。
男の胸にサメの歯のごとき連続した刃が突き刺さる。長々と繰り返すフランベルジェが、再生すらできぬように破壊しきる。まるで夜を切り裂くように、それは輝く。
ファリスはそれをさらに深々と押し込み、体を貫通させてから横なぎに引き抜いた。心臓を半分に切り裂かれた男は頽れ、内部の液体をどろりと散らして目を見開く。言葉すら吐けぬほどに破損した肺を動かし、彼は何かを発言しようとしたが、それを待たずにファリスは頭を踏み砕いた。
コアの消え去った肉体が一瞬だけ燐光を発し、すぐに細胞が崩れる。赤と青と金の液体は完全に色を失い、特殊な揮発性をもってすぐに蒸発した。
そしてすぐ、雰囲気が彼の手をとるのだった。
風に乗って襲撃者の肉体が無に還るなか、ファリスは確定したかのように見える死から救い出した勇者の姿を眺めた。
それは最初に見た時とは違う、少しだけ大人びた少年の顔。
彼は何かを思ってここに来たのだろうか。それとも、偶然によってここに引き合わされたのであろうか。
少年が持ってきた自分のブリーフケースを拾い、散らばっていたチョコレートバーを今度は彼が少年の腹の中に、直接収めた。
続いて維持加速剤で体の再生を加速させる。常人ならば死ぬ量の体液を放出していたが、一瞬でそれは再生産され、何もなかったかと見えるほどに傷のない体になる。
けれども意識だけはまだ、それに追いつけていないようだ。
「次は無い……と言ったか」
ファリスは力なく横たわる少年を抱え、ぶち抜いた屋上の、まだ残っていた床面に置いた。彼は心なしか口元をほころばせ、満足そうに眠っている。完全復帰したファリスは、周囲の傭兵の喉元に羽を飛ばして殺す。
そして「よく来たものだ。この戦場で、その力で」とつぶやいた。
珍しく彼は、胸の奥に
「いいだろう………今回はツケにしておいてやるさ」
彼は自らの経験則を軽くメモに書き残し、少年の右手に、まるで握手するかのように深く握らせた。当然その場にある獣の戦利品を漁ると、いくらか使えそうなものを彼に、手を入れないといけないのを自分にして、眠る英雄の置き土産にする。
「またな、リトル・クロウ」
そして彼は、この救いのない自由へと身を投げた。またいつか、この空で出会えたならと思いながら。
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