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 久方ぶりの自由な外出に、邪魔者は一切必要がない。歩くたびに指先に針が刺されるとなった場合、だれが望んで苦痛を味わおうとするのだろうか?


 そんな学習性無力感を引き出すように、毎回のごとく邪魔に現れる立像がない。それだけでアースチンの心は満足であった。


 思えば少し前から彼に付きまとうあの男は何だったのだろうか。減塩ポップコーンで映画としゃれこんでも、小さなジムで運動をしてみても、絵を描いてみようと思っても。何をしても後ろからロールプレイでもしているかの如くついてくる邪魔者だ————イヤイヤを超えない赤ん坊のごとく、内心では邪魔でもそう思ってはいけないようなものだ。


 だから今日は、医療用に調整されたアオイドリンクを買って、中庭で遊ぶことにした。




 アンダーシティの天気予定では、今日は雨にならないらしい。


「まってよー!」


 走る少年も、あの元隣人と同じ手合いなのだろうか。年は同じくらいで、2桁に満たないくらいだろう。同年代の少女と走り回り、何もないのに楽し気にしている。けれど肉体はどう見ても老人そのもの。全く訳が分からない場所だ、ここのは。


 それをしばらく眺め、ドリンクで落ち着いて彼は息を吐く。



 だが、久方ぶりの平和は、十分に良い。こうしてみることも、意外に悪いものではないのだな。



 本物以上の蒼穹は降り注ぐように中庭にあり、明日もきっと続くだろうと予想される。今日の日がうまくいくおまじないの言葉が悪意に染まったって、きっと世界は安泰でアンタイなのだろう。


「貴方は?」


 草原に寝ころび風を吸っていた彼の隣に寝ころんだ老人に、アースチンはそう語りかける。

 不思議になぜか、初対面の気がしなかった――――それは相手も同じだったようで、優しい声で彼女は返事する。



「…………久しぶりです、父さん」



 もちろんだが、アースチンには子などいなかった。いなかったのだが、不可思議に、既に妻がいたような気分になる。けれどそうでないことは確信していて、だから異常に見えるのだ。


「…………そうか。そうだったな」


 どうにか返せる言葉はそれだけだった。

 ほのぼのとした平穏な日々————なのに。


「逃げるよ!」


 老婆の姿は一瞬で力強いゴリラに変貌し、出るはずのない構造の喉で叫ぶ。そして割り切れない57トンくらいの力で彼を持ち上げ、一気に空いた空の窓から飛び上がるのだ。アースチンにはただ、叫ぶしかできなかった。


「はあああああああ!?」


 予告ない空中の流れがほとばしり、広大な壁の中で風が震える。


「どういうことか、説明してくれ!」


 敗れるような圧倒的な速度は、もう人間の物ではない。耐えられるのはおそらく人外だけだろう。知る間もなく気絶してしまったから、アースチンはそれを理解することは無い。


 もちろんそれを運んでいる正体不明も同じであった。彼が最後に聞いたのは破裂音で、おそらくそれは左腕に突き刺さっていた電極の根源と同じなのだと理解できる。体にある不快な重量から発せられるそれは、きっと感電。


 導線コイルのタワーでも食らったかには感ぜられただろう。


 そして彼は、ゴリラをクッションにして地面に押し付けられる。おそらく人間なら、死んだだろうか。


 だが彼は半分死んでいない、人間でもない。


 見える世界がずっとおかしい。


 何なのだこれは、今目にしている物は————!



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 寝て居ながらにして臨むことは、私の世界が存在すること。けれどそれはまやかしで、どこかに必ず裏はある。


 それを知らなかっただけであったから、私たちは裏切られたなどとは言うこと出来ぬ。真実を知ったからこそ、真実を知らない皆を無知でいらせること出来なければならんのだ。


 闇に身を落とすのは、知ってしまった私たちだけでいい。


 けれど光であることを信じる幼子を、悪夢があると叩き起こしてはいけない。


 だから私は自由を望もう。誰かに与えられた子の名前すら捨ててみて、もう一度自由を。



 身体からまた何かが吐き出される。新しい甲殻生物だろうか。俺は何になるのだろうか。わからないことだらけだ。


 わからないなら、わからないままでいいのか。そうか。



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 僕らは平和の島にいます。安全の夢に浸りながら、頽れていきます。


 アースチンはそう手紙にしたためた。宛先のない封筒に収めたその便箋を机に置き、限りなく白色に近いブルーのシャツをまとう。


「お兄さん、今日はどうしたんだい?」


 正面から普通に、旧知の間柄であるかのように元隣人は語った。


「また、貴方ですか。正直飽きましたよ」


 これで話すことももうあるまい。


「仕方あるまい。神は5日の間自由をできるのだからな」


 アースチンは体の中に溶け込む光の粒子に納得し、温かくも目に音波して引き裂く眠気がごとくして心を温める。ただ一つ気づいた矛盾と、大量の不可思議、そして自分の中から抜けた何かがきっと埋まったらしい。巨大なる兄の目で覗き見られたらしい世界にも、まだ自分残りはあるのだ。


「神話は6日だ」


 もう溶けてしまった自分の一部が、最後に語った。彼————いや、愛すべき私はこう告げたかったのだろう。


 奪われたものを差し引いても、まだ私には1日があるのだと。


「もう私はここに来てから3219日経った。気ぐらい変わる」


 きっと理解されたらしく、銃を構えた人間が扉の奥にあるとわかる。だったらどうしてわざわざ回収なんぞしたのかわからんが、サンプルが欲しかっただけだろう。


 彼は平たいクロノの夢から目覚めて、立体系になった世界を見る。そして自分の体を見れば、どうすればいいかは簡単に分かった。


「さあ銃連結のエントロピーでまあるい頂点を開けてみようじゃないか!」


 彼が叫び、どこか精神の奥にある小さなコンバータを解き放つと、それは何らかのパルスになって人々の銃を肉に変化させる。


「ナースでも呼ぶからカフェに走るか?」


 そこにいただけの私を同化して、アースチンは力の限り走った。廊下のシルクリートは天井まで穴が開き、どこを走ったか一目瞭然にさせる。同時に戻る記憶が、曖昧の狂気が、彼の中に走りこんで動き回るのだ。


「足取りは重い。そんなことはカップ麺の露と消えるわ」


「そんなことよりも、私がデザートの王を求めるのだぞ?乱射だ」


 拳銃趣味の子供が入り込むと、今度は手元の玉無しエアガンが実銃に変貌する。最初から金属でできていたらしくポリマー外装は変貌して、空間から作られた火薬がそれを咲かんばかりに押し広げる。ア空間から押し込まれたような大量の弾丸もそこにあった。


 肯定的な一部分が何がしかを切り裂いて、小さくつぶやく。


「そんなもんこのサナトリウムにはないよ…………」


 彼の右手に握られているのは、先ほどの死体の肉————アサルトライフルだったものだった。


 つまりは彼が消し去った物体。


「何を申す?我らは子供だ。自由の申し子だ」


 それを狂気の一端が醜くむさぼって、赤く尊い液体を吸い出す。


「ならば大人に変装してもばれるわけがない」


 するとみるみる彼の姿は、コートをまとった骸骨に近い男と変貌するのだ。精神の一端が「だから一体何をって……」と否定的にしてみたが、本体丸ごとはこの生き方と戦いを望んでいるらしく、分裂症気味に「だから出ろというのだ!」と叫ぶ。


 これは誰だ、俺は何だ?


「おい待てよ!」


「我らはお代官様だ!」


「おい引くな!医者さん!誰か止めて!」


 今残っている意識が三者三様に、まるで色を奪い合うバケツの絵の具めいて乱戦する。結局最後の黒になることはわかっているのだけれど、何に近い黒なのかを望もうとしているらしい。


「脱走だ!急いでくれ!」

「誰か助けてくれ!」

「ああっ!おいこら!それは俺の!」


 様々の方向から悲鳴が飛んでは、それの一つ二つが吸収されていなくなる。


「おいおい……」


 遠くからまた一人、自分の恐れが聞こえてくるようで楽しい。狂気というものは自分の中に潜んでいたらしいのかと、この世界全てに自分を広げるとどうなるのかと気になって風を仰いだ。


 まるで鱗粉で出来た銀色の風。サイクロンが黄金に巻き込まれたかのような宇宙らしさが感ぜられて、真の明日をみたような恍惚が肉にあった。


 触れた一人は広がる自分を残しながら取り込まれて、なぜいなくなったかがあからさまにわかる。


 自分の細胞一つ一つがそんな危険な何かに移り変わり、建物ですら自分になれそうだと思えた。それは実際その通りに熱になり、力となって私になる。


「待て!急げ!緊急封鎖だ!」


 これを広げればすぐに恐るべき事象になるだろうとわかっているらしい。けれどそんなシャッターも、焼き払いのレーザーも無駄なのだ。


「潰されるぞ!どうする気だ!」

「頼むから止まってくれぇ!」


 無様をさらしてでも全てを止めようと望むけれど、覚醒してしまった力は止まらない。


 だから最後の力は動き始めた。

 EMPの閃光が、ここに広がるのだ。



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アンダーシティ・アンダーテイカーズ 栄乃はる @Ailis_Ohma

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