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「ボス。反逆者は烏のミュータントです。奴はうちのプラントをぶっ壊して逃げ、そしてジャック・Oを殺害しました————それが俺の目にした事実です。それが、あのミュトスプレアがぶち壊れた、理由なんです…………!」


 元はジャケットだったぼろ切れを纏った成人男性は、糊のきいたスーツを着たサングラスの男に心からそう叫ぶ。彼の顔には何本かの切り傷が走り、歴戦の強者であったことがうかがえる。しかしここでは力でも権力でも、金でもなんでも、彼は最下位なのであった。


 それは立ち振る舞いからも、簡単に読み取ることができた。


「落ち着け。あのジャック・Oがそんじょそこらのミュータントに負けるわけがないだろう。人間ならなおさらだ。貴様、何をやらかした?」


 ボスと呼ばれた男は右手のグラスをガラステーブルへ置き、人革のソファから立ち上がった。表情はいつものように凍り付き、触れることができたなら皮膚を持って行かれるだろうと思えるほど。


「ましてや反乱できないように管理してあるガキだ。そんなものごときが何になる?アンテルニアが兵を連れてきただの、マシな言い訳をしろ」


 その声からは落ち着きと排除が聞こえる。男はそれに気おされ、少しだけ後ずさる。


「いや、でも……」


 彼の額から汗が一粒零れ落ちた。極度の緊張から出たその液体は、ピッチブレンドに粘度が高かった。まるで血液が染み出ているかのよう、男は一歩間違えれば死ぬとわかりながら、目の前の幹部に報告を続ける。



 言葉が、汚く美しく、紡がれる。ドナウにも似て、ガンジスにも近く。



 事実と状況が彼の口から伝えられるにつれ、余裕のあった男の表情に研ぎ澄まされた不審と疑問、威圧が浮かぶ。そのたびに連続した意味が吐き捨てられれば、そのたびに男が力を受け流そうと試みる。させもせずに倒される。

 それは常人が見れば、意識を失うほどに鋭い連弾であった。いくらか訓練をしたとはいえ、それは男も例外では、ないだろう。


 話を聞き終わった幹部はスーツの胸ポケットから小さな箱を取り出し、そのボタンを二秒間押し込んだ。彼だって話を聞いていないわけではない、しかしそれを信じ切っているわけではない。裏切りと諜報の中にあったなら、自然とそんなふるまいは見についてしまう。彼は息を吐く。


 するとどこからか一陣の風が吹き、一瞬遅れて一つの影が立ち上がった。


「お呼びでしょうか、マスター」


 ゆっくりと跪き、紳士的な落ち着いた声を出して傅くそれは、人の姿をしてはいるがどことなく獣。そして同時に恐ろしさの雰囲気を漂わせていて、そんな男に向かい、静かに静かに、幹部は言った。


「残念だが、ジャックが殺されたとこいつは言うんだ……」


 そのあとに続くのは、こいつを殺せか始末しろ、か。はたまた拷問にでもかけろか。成人男性は恐るべき未来について思案した。ここまで生きてきたのは、簡単に無駄になるだろう。そうならざるを得ないだろう、この失態。


「驚くだろう?全く。しかしそれがそうなら、やることは当然、一つだ」


 だが彼の思った言葉は、男から出てこなかった。



「裏を取ってこい」



 その意外な答えに、聞き間違いかと成人男性は思った。


 男は出そうになった驚きをこらえる。これは自分の聞き間違いか?ボスは今、自分を消せと言ったのではなかったのか?きっと彼の感情に気づいている幹部は続ける。


「猶予は24時間だ。第三プラントからDNA粉末を採取してこい。ジャックのサンプルを用意させておく、すぐに照合にかかれ」


「信じてくださるのですか?」


 成人男性は心からの崇拝と忠誠をもって聞く。それからすぐに影が「イエス」と答え、風となって消えた。


「この見苦しい下郎めの言葉を、信じてくださるのですか?」


 すると男は懐から豆本を取り出し、彼に見せるのだ。


「烏の男には、このところさんざんな目にあわされているからな……当然だ。シッポの一つ欲しかったところ、それが手に入るかもしれんのはありがたい————それに、そうでなければ新たな敵がいるに他ならん、重大な検討事項となるだろうからな」


 そして彼は本を床へ落とし、懐に再度手を入れる。そこから出てくるのは何だろう。彼は何でもいいと詮索をしないでいようと、いくらか顔に熱を見出す。幹部が、続ける。


「だが、私は腹立たしい。貴様が対策の一つも講じなかったことに、な」


 銃声。銃声。銃声。人間の倒れる音、そして更なる銃声。トクトクと冷たく呟く、何かがグチャリ、止まらない。


「片づけておけ」


 やはり冷酷なトップの声。それはもう一度だけ、硝煙を出す。



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 どこかの路地をふらり、ふらりと少年が歩いていた。なかに着ていた合成のは、もう着れるようなものではなかった。怒張だの破片だので、二度とは見られぬゴミに消えている。だから彼は、見られるような姿を、してはいないのだった。


 少年はどこかから巻き上げられたカーテンを体に巻いていた。その下はやはりどこかから飛んできただろう、丈の合わないズボンだけを力で切り裂いて履いている。左右非対称の七分かハーフか、といった格好だった。

 彼は元からオンボロの身体を、どうにかして回している。


 このままじゃ何時組織に見つかるかわからない。鴉男の話はきっとどこかから流れているだろうから、あまり目立つ格好ではいられない。でもアシッド・レインになれば耐えられるのか?まだここは寒い、耐えるための変身だけど、この姿だとエネルギーを大量に消費する————でも、熱を無くすのは。


 半日食べても飲んでもいないせいで、身体はカラカラだった。当然頭の方もそう、無理くり吐き出した蒸気はどこかから生み出されたのかわからない。でも肉が減ったことは、間違いない。


 せめて水の一杯でもあれば、いくらかは変わるのだろうけれど。


 回らない脳髄を活用して、彼は何も考えずにただ目の前のビルを飛び越えた。足元に三十メートルの空白が広がるので、彼はビル風を受けようと腕を広げた。筋肉ではなく構造で固定されている、力はあまり使わなくてよいと、思われる。それが三百メートルほどに長く、流されていく。


 そうしていると、丸い両目に黄色い光がひらめいた。この街にいくらでもある瓦礫の中には、無いはずの色で、間違いなく人間の灯りだった。

 それはまるで、誘蛾灯。おちるだけしかできないのは幽霊のようでもあり、堕ちるだけしかないのは天使のようでもあり。


 しばらく空の旅をしたのちに、少年は空腹に任せ、上から見ていて見つけた小さな店の前へと着地する。


「なにか………水でも………」


 そしてふらふらと扉を開け、今にも崩れ落ちそうな体を室内へ運び込むのであった。出来るならば死んでしまいたいが、それでもできるならば生きていたい。彼はそう思いながら室内を見た。美しく整頓された室内には埃一つ残っておらず、よく手入れされていることから少年は管理者の存在を容易に読み取ることができる。ならきっと、助けだって————人の、助けだって。


 空腹が思考を書き換え、誰もいないんだから奪えばいいと、彼の望まぬ思考にした。少年がすぐさま自己批判、同時になんで苦しむのだとダアトの哲学、切望。


 体内に潜む無意識という名の同居人を、彼は欲望のままに暴れださないようにと抑え込んでいた。それも四十時間ずっと、苦しむレプタイルの本能をどうにか、どうにか。けれど生存という最大の理屈が、それを抑えられなくなる、のである。


 消えそうになる意識をどうにか保ちながら、鼻に香ってくる薄い臭いを追いかける。


 食料が見つかるのならば、今の彼はごみを漁ることも厭わないし厭えなかっただろう。フッと消えたなら、おそらく百八回ほどそうできる。けれどもそうなったとしても、もうこの場所に食事代わりはない。石とプラスチック、金属だけだ。


 だがその時と違って、今回は明らかに人のいる場所だ、ならきっと………。


 食への暴力的なまでの執着に突き動かされ、ガラスのない扉をゆるゆる押し開ける。彼はすぐに、砂糖の容器を見つけた。純白のエネルギー源は、ほんの少しの隙間からでもわかった。目はよいし鼻も優れるからだ。生物として、戦えるからだ。


 彼の生存欲求へと変質した何かが、歪んだ形で残っていた思考能力を奪う。少年は何も考えず、中身を口に流し込んだ。



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