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ああ、せめて罰が軽いのなら。軽いのなら何とか。軽いのになんとか。滑り止め加工の施された合成木材の床が湿っていて、滑りそうになる。けれども全力で駆ける、彼は転びかけたところで、壁に出っ張っていたランプをつかみ、ギリギリで留まる。
たしか
こっちは生きるか死ぬかなんだ。少年はいら立ちを吐き捨てた。明らかな危険を示すそれは、確かに危険を彼に教えてはいた。ただしそれは、ほんの少しの時間差だったのだけれど。
彼は三十メートルの廊下を走り抜け、曲がって二メートルのところにある壁のパネルに触れる。三百二十二回目の慣れた行動、しかし反応は芳しくない。当然だ、接続されるべきタッグ端末がないのだ————気づいていない彼は、時折ある反応エラーかと考えて、赤ランプの灯る扉から一度離れた。
そしてランプが緑に戻るのを見届け、もう一度タッチする。当然、返事などない。
こんな日に限ってなんでだ!
少年は脳内に吐き捨てる。時計を見ると、既に始業から五分も経っていた。畜生!
彼はもう一度退き、センサーを確かめて三度目のトライを試みた。これでだめだったら、むしろ覚悟が決まるかもしれない。
ふるふると頭を振り、動いてくれと願いながら、少年はパネルに触れる。青の四角で縁取られた
「逃げろ」
刹那、彼の体内に何かの声が響いた。
しかしそれは、なぜかうまく行った扉の起動でかき消された。間違いなく端末を置いてきてしまっていたはずなのに、圧搾空気はやはり動く。
どうしてか低く唸るように、いつもより壊れたような音————本能の声だったのか、それとも彼自身の無意識から来たものなのだろうか、彼の脳と身体に一瞬で響き渡る。
「え?」
返事は一つしか、できなかった。
果たしてなぜなのかはわからないが、彼の小さな体は勝手にドアから飛びのいていた。まるでワイヤーに引っ張られているかのように少年は、何かによって飛ばされているのだった。
同時に七センチ厚の衝撃吸収プラスチックが粉々に砕け散り、扉の破片として彼の体に襲い掛かる。過剰量の脳内物質が放出され、時間が一瞬で停止し、光と同じ速さで彼の過去が流れた。
どこかの路地で生れ落ちた生暖かさ、屋根という形だけの屋外の家、ゴミだらけの終わりの住処、予告もない捕縛、虚無の生活。それらすべては一日の中にあって、数年でもある無為の列。それらはコマを切り取りすぎたフィルムめいて、ほぼ無限に等しい一秒で見終わらせられる。
残り時間ですべての可能性を計算し、そしてすぐ無に帰すると理解する。
コンマ一秒、脳の映像が切り替わる。静かに命のリミットが迫る。神経伝達限界速度を超えると、彼の脳髄がゼロコンマ九秒ごとに流れる。ラグが空くほど、後の速度が通常に戻る。ピタリ、固着した世界が戻って行く。
追いつけないマッハで、それはザクリと叩きつける。
止まっていた破片が、彼の目にゆっくりと動き出した。角ばったそれらは鈍く突き刺さり、二色の液体が体から吹き出す。巨大な一片によって生命の流れがゆっくりと切断されていく。
———死ぬの?
間違いない速度が、ダラリと外に現れる決断が迫る。できないことが降りかかる。どうしようもない、処理速度が足りていない。今はどうだ、何がどうだ、そう言うのはもう問題ではない。不可能。ただ不可能。
成す術のない衝撃が襲い掛かる。ありとあらゆる死の温度。抗えない恐ろしさ。
けれど。
残りが、彼の体から放出された謎の蒸気によってはじき返された。
ほんの一瞬、彼の肉体は命令を聞かなかった。しかしその一瞬の間に、少年の現在を作る状況は一変した。とてつもない力が彼を満たしていた。とてつもないありようが、時間を回しているのがわかった。
その白さは、どこかどす黒く血餅を燻したように乗っていた。
少年は真っ黒な羽根に覆われ、足が黄色い鱗に覆われ鋭い爪が生えていた。腕に風切り羽根が連なり、自らの体を空へ浮上させるに足る屈強な翼と変化していた。濃紺の鋭さが、貫くように包み込んでいた。痛みを感じたので胸を見ると、突き刺さったはずの扉のかけらは、急速に進化怒張した筋肉によって押し出され、床へ音を立てずにはじき出され落ちていた。
彼はもう、
途方もなく広く鮮明な視界に、彼の入るはずだった部屋の中の風景が映った。おそらくさっきまで人間だったものがあたり一面に散らばり、白色であったはずの壁には新しく半径三十センチほどの白い円が描かれている。
作業機械がほぼすべてバラバラになって、床に固定されていた外装だけが立ち並んでいた。中にあった部品類が、血だまりめいて広まっていた。そして最後に、
「……貴様が聞いていた用心棒か。随分と小さいな」
それは明らかな馬の顔からは想像できないほどに、流暢に人の言葉を話した。同時に姿が消えて、気づくと少年の直前にあった。
馬人は強靭な脚力をもって、一瞬で三メートルほど壁へ飛ぶ。素人とはいえ、それは鳥類の視力をもってしても視認できないほどの速さであった。縮地という東洋の武術に、その一端があると思われた。彼は侮るように、敵を見る。
「……見えていない、か」
わずかな時間でブレーキをかける。
「雑魚と見えるが、それでも依頼なんでな……」
恐ろしく怒張した喉の筋繊維から、弾丸と思えるほどに鋭い音を射出する。
「狩らせてもらう」
ほんの少しの状況変化、しかしそれはきっと致命的。なにかがいけないと、彼の頭は複数の未来予想図を設計、思考を介することなく、あてずっぽうで頭と胸を防御させるのだった。
当然のことながらそれは外れ、馬人は少年の腹に、常人ならば穴の開く一撃を叩き込んだ。それを少年の筋肉が千切れるほどに受け止める。グニリと、それでも無理をして内臓が押しつぶされて、恐ろしい空気が漏出、彼は壁に叩きつけられる。
抜けた羽が壁の破片と共に周囲に舞った。
言葉から、姿からは1秒も経たない出来事だった————馬人はブレーキをかけ、右足で埃をかき上げて言う。
「いや、違う。依頼とは別人か…………こいつはまだ目覚めたての雛鳥だ」
そして殴った腕を振り、すこし手ごたえがあったと呟く。それはゆっくりと少年に近づき、二メートルほどの距離で力を込める。その太く筋肉の浮き出た、しなやかなる長い脚に。
「本当に悪いが、こちらも仕事なんでな」
少年は壁にたたきつけられた状態から、そのままの姿勢で床に落ちて数瞬の間意識を失う。暴風雨の中にいるように、少年は崩れて留まる。
わずか一撃で決まった、決着の果てに倒れる。ならばそうなることはしかたがないのだろうか。巣くう負け犬根性の正しさを肯定しながら少年は、なんなのだこの夢はと、ありえもしない現状を切り取っていた。
助けることは何もない、ありうることも、同じくない。
「行くぞ」
馬人の声だけが。
まだ死にたくない。まだ俺は死にたくない!
馬人が姿を消し、彼は最後の時を迎えるのだと自分に強く言い聞かせる。死にたくないと後悔して死ぬのは嫌だが、それでも死ぬのならば受け入れるしかない。瞬間的に発生した風圧が羽を巻き上げ、鋭い刃となって彼の羽根を数枚切り飛ばした。人型がゆっくりと近づいてくるのが感じられる。
ああ、俺は死ぬのか。彼の目に舞い上がった烏の羽が映る。その色は残酷なまでに黒く黒く、そして冷酷なまでに美しい。
ヤポネのサクラとかいうのの花吹雪のようだ。見たこともないけれど、美しいとだけ聞いた遠い世界の物事の様だ。暗黒が針で縫うように連続していく、コマが途切れる。強すぎる力に、プツリと思考のフィルムが、いなくなり。
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意識を失い倒れていた少年は目を覚まし、ここがどこかと周りを見渡す。さっきと全く変わらない、破壊の跡の残った忌むべき職場。
「ここが……死後の世界なのか?」
彼は立ち上がって体を見る。あれだけぼろぼろだった体はつるりとした綺麗な皮膚に覆われ、来ている服とのコントラストが眩しい。彼は手を突っ込んで背中に触れる。朝に開いた傷が、最初からなかったかの如く消えていた。
そうか、俺はあれに何かされて死んだんだな…………それにしても、死後の世界は生前と変わらないのか。
彼は生前出来なかった脱出をしようと、宿舎側と反対の壊れた扉から廊下に出る。
「何年振りかに見る世界だ。死後だけど、いったいどんな風なんだろう」
そしてロック機能の壊れた戸を押し開け、初めての部屋へ入った。
しかしそこは、首のない死体たちが語りあうラウンジであった。椅子に座る死体曰く、ここは死後の世界なんて優しい場所じゃあないと。ここはただの、恐ろしい現実なのだと。
少年は考えもしていなかった事実に驚き、へたり込んで情けない声を上げた。
じゃあ、今さっきまでの自分は……?答えはわかっているものの、彼は体に力を込める。一度体感した感覚の通りに背中と足に意識を集中する————そしてつい二十分前と同じように、彼の体は
彼は目に雫を溜める。
「じゃあ、さっきのあれは……?あの馬は?どうして俺は生きて?」
彼は落ちていた烏の羽を見つける。
「これは……」
彼はそれを追って駆け出し、外へとつながる通路を見つけた。
「あの風がここまで吹き抜けたのか?それともアイツは俺を……どうして?」
答えの出ない問いを一度しまい込んで、彼は夜のエリススミードへと走り出す。
「野郎……
その姿を、一人の生き残りが目にしていた。
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