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 無意識の世界、何もない、脳細胞銀河が作り出す虚無の目的論。そこにあるのは小さな姿だけである。自分の形をした、限りなく自分ではない何かだけである。

 光あれとそれが言うなら、すぐさま光が現れるだろう。大地あれとそれが願うなら、大地はいつでもあったことになるだろう。


だ からこの世界は彼のための世界であると、思うことは至極当然だろう。


 けれどもその世界は、一切彼の思うままにはなってくれないのである。なぜならばそれは、彼の無意識が作っているからだ。意識をしないからこその、無意識であるからだ。何を言っているんだ。


 少年ネームレスはその小さな体を震わせ、幸福な夢の世界から引き起こされたことに無意識下で抵抗する。体を丸め、自らを活動させないための熱量を外へ逃がさないように試みる。ありとあらゆる筋肉が、小さく小さくドライブする。


 しかしその小さな体躯は、意識を落としていられるだけの熱量をため込むことができない。無慈悲にシルクリートは色のままに、全てをスノーボールにしてしまう。彼の肉体を、同じように評決させて、諦めさせてしまう。


 だから二分ほどの抵抗を終えると、彼は静かに目を覚ました。

 ざらついた床が彼のぼろぼろの皮膚を削り、厚くなった背中の皮からほんの少し赤い液体を絞り出した。



 ああ、また今日も変わらない日常、なのか。



 少年は手をついて起き上がり、見慣れた奴隷宿舎の壁を死んだ目で眺めた。

 彼は腕についた電子式のロックを確かめる。


 いつ見ても全く変わらない、灰白色の温かみをもった悪意。へばりつくそれは今日も同じだよと言わんばかりで、叩きつけるように今が午前一時だと教え、ぶっきらぼうに光を失う。


「わかったらさっさと暖を取るか死ね」


 腕輪がそんなセリフを吐き捨てたような感覚がした。きっと彼の被害妄想だろうが、被害自体は常に受けているのだ、仕方ないことだった。


 少年は立ち上がり、何か暖を取ることのできるものはないかと部屋を見て回った————答えは既に知っているのに、生存の欲望がそうするのだった。暖を取ることのできるものは、何もないと知っている癖に。


 奴隷を失う可能性のある物体は最低限を除き、その場から取り去られているか、時間外ならばロックされているかの二つ。布は紐にできる。紐にできるなら、首を絞めることができる。たったそれだけの簡単な演算なのだ、この部屋には床と壁と窓以外、突起などはどこにもない。


 彼は仕方なく、体を丸めて熱を保つことにした。人の手では破れないごわごわの服が背中の傷を擦り、少し痛い。上下の成型でむしろ金がかかりそうなのにな。

 少年は固く目をつぶり、体を強く丸め、息をきつく吐き出した。それでも、無いよりかはマシになる。それでも、無いよりは。


 せめて何か、暖を取ることのできる道具があればいいんだけど————それか、人間の一人、道具の一つ。


 叶わない願いに思いを馳せつつ、彼はマッチで風雪に挑んだ小さな少女の物語を思い出した。ほんのわずかな希望でさえも持てない今の自分は、死ぬことの決まっている彼女よりも劣っているのだろうか。それとも、生きることだけが出来る分、彼女よりはマシに、なるのだろうか。


 彼は自分でもありえないとわかっている未来予想図を脳内に描いた。ここから逃げ出して自由な生活をしている自分。暖かい世界で見たこともない女性と結ばれた自分。ここに突入してきた化け物を、能力で撃退し、その礼で解放される自分。


 あってほしいなと思う反面、あったとして自分にそのチャンスを生かせるのかというマイナスの想像が常に、彼の意識の敷居をまたいで現れる。

 何度となくその身を転売され、無知に付け込まれ、挙句の果てに臓器の一割を持っていかれた少年に染み付いた負け犬精神が、どんな時も彼を縛るダイヤモンドの鎖となっていたのだ。


 そう、ダイヤモンド。硬いだけの酷く脆い、美しいだけの結晶。

 悲しいことに、比較的脆いそれを砕くだけの力と意思はもう今の彼の手にはない。生きていることだけで、彼にはもう他がないのであった。


 少年は目を閉じ、この辛い現実から少しでも目を背けようとする。


 だが外から入ってくるまばゆい生活の光が彼を貫く。少年は耳を塞ぎ、自分を虐げる過去を聞かないようにする。けれども過去の羽音はあざ笑うかのように響いた。少年は呼吸を止め、延々と続く平坦な未来から命を引きはがそうとする。

 しかしそんな悲しい努力はすぐに、人間として、生物としての本能によって一蹴され、彼は吸いたくもない灰色の現在を大きく深く肺に満たされるのである。


 ああ、僕はやっぱりダメなんだな。

 彼は灰色の天井を見上げ、長い長い夜がいつまで続くのかと考えた。彼の凍える夜はまだ終わらない………。



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 気づくと、少年はいつの間にか意識を失っていたらしかった。

 寒さからなのか、疲れからなのか、それとも肉体の破損からなのか。


 足が倒れ体が壁に寄りかかっていて、変な体勢で眠ったからなのか節々が痛い。だがいつもの雑魚寝にも劣る喪失よりはマシで、いくらか和らいだ疲労が嬉しい。


 これなら、今日は。


 彼は腕輪の時計を見た。時間は午前八時九分。業務開始まであと二十分となっていた。


 急いで立ち上がり、少年は服を脱いでシャワー用の小部屋に入った。マズくはないけど、朝礼には間に合わせないとまた。ガシャンとロックの音が鳴り、首に管理用のカラーが巻かれて、下半身に大量の湯が吹きかけられる。体表の油分に洗浄剤が一瞬で溶け込み水溶性となって流しだされる。


 三十秒ほど浴びるとエアが吹きかけられ、あざと内出血の目立つ表皮を乾かした。


 ちょびっとの痛みを忘れるとすぐ、七十センチ四方の小部屋中央のカラーが収納され、彼の体が解放される。まだ寒い。少年は小さく身震いをし、筋肉質な体を外に出してワンピース成型のボトムスを穿いた。


「明日は重要な荷物が来るから、始業は三十分繰り上げとする」


 そして同じくワンピース成型のトップスに袖を通したところで、彼は思い出す。作業総監のしわがれた声と共に、少年の頭に罰則の未来がよぎる。


 入ってすぐのころに何度も受けたむち打ちだろうか、それとも四日間の食事抜きだろうか。それとも肉体労働の延長?それとも装置テスト?どれをするのも、恐ろしいものばかり。


 彼はそれが少しでも軽くなればと、用意などせず急いで部屋の戸近くのパネルに手を触れた。ガスがすでに抜けていたようで、本来は作業用の管理タッグを持たなければ開かないはずの扉が反応し、つるりとした扉が負圧で開く。だからタッグを持っていないことに気づかないで、少年は空のポケットで駆け出した。


 早く!早く!


 そんな彼の視界の外で、どこかから黒い羽が一枚落ちた気がした。そうだとしても、来てから七百と二十五回目に見た廊下は、不思議と寂しいように感ぜられた。



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