平面説の安寧より

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 天上のある世界だからこそ、私たちは救済を望む。地獄のある世界だからこそ、我らは悪事を拒む。煉獄のある世界だからこそ、自分たちは完全でなくても救いを信じて苦しくあれる。


 けれどこの世界にそんなものはない。あるならば誰だって死ぬだろう。そうでないから教義を求める。そうでないから、生きることにしがみついて遺伝子を残す。


 ならば死というものが救いで無いのに、どうして終わりを求められるのだ?


 今日の空はどこまでも蒼穹であった。弓弦の弾ける一瞬が空間に残ったかのような、微細に消える一瞬の青。人の造りしそれはわざとらしく、一度壊れればもう残らない。生き返っていくらか戦って。この世界はつまり悲劇的なのだろうかと、アストラにはそう思えた。


 ゴミ捨て場の子供たちが、どこかから取ってきた真新しいパンを握っているのを彼は見る。違法だが、誰も咎めやしない。飽食の世界だ、最悪でも合成品で食べていける。誰かに悪いとも思うことはもうない————それは彼自身も、同じくしていたのだから。


 幼いころの記憶がチラリと今の彼を見る。奴隷から逃れたばかりのガキは簡単に死ぬ。法律をなんぞした手段に出ようにも、そんな知識も知己もない。だからアシがつかない程度のズルをして食べていくしかない。


「ガキの頃は、よくもまあ許されたもんだ…………」


 思えばあれは好意で許されていたのだろう。

 子供なんて、銃一発で殺すことができる。違法労働の発覚で自分の産業に傷がつくことだって、そうしてしまえば一発だ————頭の中にしか、彼が虐げられていたことはない。どこでそうなったかなど心当たりが多すぎる。そこらのガキがギャングと殺しあった、そうなるだけだ。


 あれは20年ほど前のことか。よくもまあ、今まで何とかできるようにしたものだ。


 逆にギャングをシメて手に入れた金で、アストラはしばらくの食料を買い込み家を借りていた。弱肉強食の世界であるのだからと彼は言い聞かせ、ごまかすように一日を過ごしている。



 まるでローン・ウルフだ。



 一度は安住の地を手に入れたと思ったが、それも壊されてしまった————勝った者が勝者として、この後の世界で勝つ。それが知らないままの今のルールだった。勝たないまでも、限りなく勝利に近い引き分けとして汁を分割する。それが事実であり、法律であり不文律。


 力をひけらかさずに、ただありのままを生きるための糧とする。あの人はそうしていたけれど、なすすべもなかった。



「他が為に、幸福な死を求める」



 それを壊した、あの男は言っていた。


 自らの力のためだけに今の平穏を壊すあの男。

 風に震える異能の銃弾に、予告をして殺すあの快楽。

 自分が良ければいいという心理でもあるのかと見えるほどに身勝手なその戦い。


 憎んで生きるしか方法を知らない、人間だったころ。ただ感情に任せて全てを焼いてしまったあの時の紅蓮の発露————彼はそれに、よく似ていた。なにかを無くしたことへの復讐をするように、彼はきっと、壊れていた。


 だから自分は。

 耐えきれなくて、アストラは冷蔵庫を開ける。ごまかすように何度もあけたドリンクは期限が切れていたので、もう効いてくれない夢が映らないだろう。酒よりも気安いトリップもどき、だがチルの海に沈むには、もう彼にはそれしか効果がなかった。


 ガチャリ、扉を開ける。廊下は殺風景に、めいめいの物が転がされていた。真っ白なシルクリートの上に砂が入り込んでいるようで、少し前に雨に濡れたときはざりざりと食い込む。

 外に出ることが嫌いになりそうなほどに、近くの自販機までは遠くある。


 徒歩で3分を遠いと言うのは、現実的な目標が一気に消えてしまったのだからしかたなかった。

 復讐で動いていた自分は、これほどまでに空虚だったのか。そう思い知らされた気がして、何か目標を持たねばなと彼は思う。


 アストラは玄関ロビーを出てすぐに置いてある自販機にコインを落とし、飲んでいた栄養ドリンクのボタンを何度も押した。割れるような音がして、飲みなれたアオイドリンクがあるだけ吐き出される。


 …………これからのことは考えたくないけれど、そのうち考えなければならないか。もう俺は、昔のままの一般人ではあれない。どの病院にもかかれない、どの人間とも、深くまでは関わってはいけない。

 人間ではないのだ、この肉体は。


 人間ではないのだ、俺は————!


 彼は山積みの缶を連結し、二本にまとめて持ち上げる。そしてそのうちの一本を半分に分け、溜息を吐いて飛んできた銃弾に垂直に当てた。


 もはや殺されかけるのにも慣れてしまった。彼は弾道をなぞるように中身を出し切ってしまった缶を放り投げ、どうしてここまで明るい中で堂々と銃を撃てるのだろうと思いながら、脳天に直撃して意識を失った男の元に駆け寄る。


 もちろんとっ捕まえて金を引き出すか情報を引き出すかだ。


 両方とも今生きるために必要なことで、前者はこの後の金を、後者はこれからの方針を定めるためのものだ。


「おい…………おい!」


 ぺちぺちと顔を叩いてみたが、彼は目を覚まさなかった。

 どうやら少し強くやりすぎたらしい。まあ、しばらく待てば聞き出せるだろう。


 しかしそう思うと同時に、その目論見は泡と消えた。どこかから撃ち込まれたライフル弾に、男の頭が砕け散ったのだ————この頃何度も襲ってくる、こういったギャングたちはいつもこう。


 彼らは鬼気迫った様子で自分を殺そうとし、利きだされるとわかった状態になればどこからか狙撃されて命を落とす。


「もうそろそろいい加減にしてくれよ…………」


 組織的な何かがあると、彼に思わせるには十分だった。


 彼は前と同じように狙撃地点に急ぐが、たどり着いてみれば姿は完全に消えていた。キラリとスコープの光が跳ね返ってきていたのはわかっていたのだけれど、いくら急いでも見つけられないとなると、ここまで腹立たしいものか。


 アストラは薬莢の一つでも残っていないかと思ってもっと探してみるが、当然証拠はどこにもない。一体何が奴らを動かしているのだろう?


 彼は置いてきたアオイドリンクの元に戻り、死体をゴミ捨て場に放り捨てる。持ち物はロクでもない、金なんてもっとだ。自室に戻り、缶を開けて一本飲み下す。エレクトロな世界が彼の目に広がる。


「追うしかないんだろうな…………」


 安全のため、そしてこれから生きるため。そんなことを並べてみるが、まだ自分の根本は復讐でしかない。この街を焼いた、邪悪な犯罪者のそれでしかない。

 社会がそれを産んだだの言い訳する気もない。そうしたのは事実だからだ。そうして生きるにも困るのを産んだのだから、どうもできはしない。


 だが。


 アストラは作り出せる金属を、拳銃の形にして握る。ポリスが使う制式拳銃。昔自分に向けられた、忌々しいRP-22の形状。効きやしない鋼鉄の機械の中で、感情を燃やし尽くした忘れたくない日。


 それをもう一つ作るのがあるのだとしたら、俺は。

 オルレの写真を取り出し、彼はもう出会えない彼女を少し眺める。そして、これからのことを少し頭に回した。



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