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 男は日常の中で思ったことを書き出して、小さな手記を閉じた。もったりした革製の表紙に、書きやすいねばついたノート地。部分部分で見ればそれなりの高級品ではあるが、これは盗品をもとにした彼の手製。硬貨一つだって投げていない。


 この中身を誰かが見ることがあったならば、それをまともに読むのは難しいとすぐわかるだろう。

 高度な速筆と圧縮言語で出来ていたから、同類が理解を試みなければキップルに沈む。

 ヴォイニッチの類義語と言ってもよかった。


 けれどそんなことはどうでもよかったらしく、世界は自由に風を吹かせる。ぱたりとページが閉じる。


「さぁて、これからが俺の時間だ————何をこれから、するべきかな」


 黒髪をマフラーのようになびかせ、整えたばかりのひげをもさりと撫で、そして手帳を遊び見て男は呟いた。彼の右手にある不条理を肯定するように、このあたり一帯に光はない。


 夜であることを差し引いても異常なほどで、それはおそらく、何がしかの恐怖から逃れたかったからなのだろう。


 彼はコンクリートブロックから立ち上がり、誰もいない月下に飛び降りた。まだあの花が咲くには早い。そうなぜか思った。花とはどこに見えているのだろう。本当の漆黒には、なにも塗りこめられていなかった。



 まずは腹ごしらえでもするか。開き戸を押し盗ってきた硬貨を握りしめてアースチンは入り、いつものようにペペロンチーノを頼んだ。店主はすぐにそして燃えるようなガーリックの利いたパスタを叩きつけ、彼は大きくかじり、目を閉じる。


 ほんの少し、辛い。けれどそれが今だ埋葬されぬ自分の理性だと思える。

 無くしてはならない。生きている理由だ。



 周りにいる人の姿など顧みず、ただ自分がうまいと思えるままに食した彼は、遠くから聞こえるガキの音に苛立ちながら、そのほんの少しを蹴って金を払った。


「あいよ。いつもありがとうね」


 その声には当然返事を返さなかった。だってそうだろう、もう彼は埋葬されているのだから。



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 病院で定期的な検診を受けているが、いつ死んでもおかしくないと言われた。前々から同じことばかりを繰り返されているようで少々腹立たしかったし、不治の病だというのはわかっているから余計にだった。


 けれどそうしたところで現状がどうにかなるわけでもなし。彼はそうあきらめて今日も、小さなアンプルとシリンジを受け取って注射した。


「さすがに手馴れてますね」


「じゃないと、生き返っちまうもんで」


 どちらもジョーク交じりに、淡々とカルテだのX線写真だのを読み取って話しあう。どれだけ進んでしまっているのか、どれだけ救いが無くなってしまっているのか。


「ほら、これ、わかるでしょう?」


「……大きいな」


 病巣————と言っていいのかわからない白い影は、あいも変わらずアースチンの肝臓に鎮座していた。前はピンポン玉大だったそれは、ソフトボールくらいになっていて、肝臓がまともに動いているのかすら危ういのではと思わせるほど。


 あまり科学だのには詳しくないが、これで白く映っているということはまずいのだろう。前は経過観察だと聞いていたが、今ではそれは検診だけになった。投薬もなくなったので、もうこれは『手遅れ』のごまかしではないのだろうかと彼は小さく息を吐く。


「ええ…………切除できない位置でしたから…………予後不良。死を待つだけに近いですね」


 いつものようにトレーサー除去用のナノマシンカプセルを渡し、封じ込め室にアースチンを入れて医者は部屋を閉じた。体内に入れた特殊な分子を除去し、呼吸を通じて排出するもの。


「『生き返る』までは長い方がいいでしょう?」


「出来れば」


 完璧な白の壁の中に、彼ら以外の人間はいない。ただしばらくの間、二人はその寂しさを薄めるかのように語り合い、冗談のように振動で部屋を埋めた。ブゥンと部屋が静かに唸って、僅かの空気をファンがかき乱す。


 コーヒーをとってきて、いっぱいの間に全てを完結した医師は、小さくつぶやく。


「でも駄目でしょうね……ペースからみれば、来週の明日には」



 快方に向かうか、それとも悪化するか。彼が言おうとするのは、当然のことながら後者だった。



「…………そこまで、まずいか?」


「前は3か月、前々回は6カ月。2カ月半はよく持った方ですよ」


 カルテを焼きに医者は席を立った。



「死にたいとは思ったが、こうしてまで死にたいとは思いもしなかった」



 ごうごうと機械の音が強まり、遠くで吸気と排気が大きくなる。覚えていないくらい小さなころに受けた傷が、今の今まで続いてくれるとは思わなかった。


 医者が戻り、ナノマシン量が元に戻ったからと扉を開ける。


「いつものようにサナトリウムを用意しておきました。しばらくはそちらで」


「ありがとう…………では、荷物を」


 アースチンはそこまで多くもない思い出をと、徒歩で10分の自宅へ足を向けた。

 本来なら入院だったが、そうしないのはQOLの為で。



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 ケルス・シティのはずれのはずれで、ひっそりと夜が深まっていく。遠くのアーレット通りなどはビルと地平の丸みに隠れて見えず、喧騒から離れたこの冷静さは、ただいつまでも置きっぱなしだ。


 ちょいとばかりご用事をと、アースチンはカラコロ扉を開ける。



「やあ。今日はミリタリーかい?ガードかい?それとも……?」


「今日は何もない日でね、頼むよ」


 顔なじみのマスターが出迎え、ウェイトレス抜きにオムレツを作り始める。どうせ彼はこれしか頼まないと知っているからそうできた————そしてそれは、彼が作るものへの信頼からでもあった。

 アースチンは10年間それを食べてきたのだ、間違いない。


「最近、幾分か動きが大きくてね……手に入れるの大変だから、やめようかともおもったんだ」


 彼が言うのは卵のことではない。確かに卵も相当面倒であるが、合成卵が台頭してきている現代だからこそ、自然卵を使ってみてはというのがここの売りだ。


 人工の物は安くうまく安全で、自然に負ける点など一つもなく良い代物。だけれどそれでも不合理を突き詰める彼の姿勢に、アースチンがひいきにする理由たる満足、つまり絶対的な仕入れへの根性がある。


 それをおろそかにすることは、一切ない。



 彼は慣れた手つきで溶き卵を注ぎ入れ、不ぞろいを整えて焼き上げた。


「おあがりよ」


 スプーンを一筋入れて口に運び、表面を切り開いて感動をする。そしてそしてと進めていく間に、勝手に皿は空になる。



「今日も今日とて、満足ですねぇ」


 彼はオムレツ一つには幾分多い代金を支払って、コーヒーを追加で注文した。




「俺は客だぞ!払ったんだから払った分はちゃんとしやがれ!」


 充分と彼が腹をさすり恍惚にしていると、遠くからそう響く。


 どうやら隣の店で、齟齬の一つでもあったらしい。男は浅黒い顔を真っ赤にして叫び、いら立ちをぶつけてこちらに入ってきた。


 ぶりぶりと当てつけのようにメニュー外の注文をする彼に、マスターが『できない』とだけ答えるのだが、それ込みの反応で、男は八つ当たりした。


 食い物一つでそこまで怒ることかと彼は、彼の前に出されたコップを取って顔にぶちまける。お冷の純粋な色が顔にたたきつけられ、飛び上がった男をアースチンは、返す力で席に吹きとばした。


 ベキリベキリと複雑骨折の音。カウンターなどは全て繊維強化モノなのだ。


「片付けは任せる…………こいつはゴミ箱にでも」


 脊髄に直撃したらしく、男は気を失って星を散らす。アースチンは持っていた札を、大切な時間を壊した奴へのパンチとともに、ぶち込んで店を出た。


 そして表のゴミ箱に男を投げ捨てて、迷惑させたから二度と来ない、とつぶやいて財布の3割を投げ捨てる。


 そんなこといいのにと店主が言うが、自分はもうそうではないと、彼は静かに静かに吐き捨てた。



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