9
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少年は数分の間、体を削る酸の雨を身に受ける。彼の体には、小さな傷が絶えることのない線となってつき、戦闘の跡を物語る。彼はゆっくりと下の世界を眺め、そしてまた、逃げという現実を見る。
誰も彼のことを見ないわけでは、なかった。だからこそ、彼はまだどうしようと悩むのであった。それが彼にまだ残っている、純粋さと善性だったのかもしれなかった。
何度となく繰り返された戦争の惨禍は三百年たったいまなお衰えることなく、人類が再活動することを妨げている。深紅に染まった空がもう一度の明けを見たものは存在せず、重金属粉塵によって作られた雲は延々と日光を反射し温度を下げ続ける。
ほんのわずかだったはずの氷河はその勢いを完全に取り戻し、北極海は完全に姿を消した————これが人類の暴挙の賜物であるとしたら皮肉だろう。あれだけ環境を環境をとうなり続けた団体の求めた、温暖化は完全にくい止められているのだから。
凍るような風とダストが少年の目に飛び込んだ。彼は瞬膜を用いて三十回目の防御を行うが、ほんの小さな穴から入り込んだ切片が彼の目を傷めつけた。そろそろ飛ぶには限界と感じ始めていた少年は、仕方なく体を近くのビルへと下ろした。
どうしても、彼はその遺体を放ってはおけなかったのだ————仕事で学んだ読みで辿って、彼はあと二ブロック先であると突き止めていた。
「もう少し、ですからね」
せめて死んだのならば死んだと、教えてあげなくてはならない。彼を、彼だったものを、届けてあげなくてはならない。
そんな思いだった。
屋上から屋上へ、飛び越えることは簡単だった。もちろん、彼の肉体を共にすることだって、当たり前だ。だから出来るなら、やらなければならないと彼は思っていたのかもしれない。
「あと、一つ」
少年は出来るだけ優しく持ち上げながら、最後の屋上へと飛び込んだ。そして平面的なシルクリートに一つのベンチ、一つの出入り口を確認したなら、誰が来るのも考えずにその扉を開けようとした。
「あと、降りるだけだから」
行動を口にするのは、彼に話しかけていたからかも、しれなかった。
しかし呟くと同時に、目の前に見知らぬ老婆の顔が広がって、とっさに彼は驚き転げる彼女に手を伸ばす。ここでは珍しい真っ当な年寄り。縮んだ身長と軽い体重。間に合わないと判断して、少年は腕を伸ばして抱き留める。
「…………!あ、ありがとうね」
子どもにはあるまじき速度の反応に驚きつつも、丸い目のまま彼女は答える。それからすぐに、彼が何かを抱えていることに気づいて、それが何なのかをよく見ようとする。
「い、いえ…………いきなり来た、俺も悪いですから……」
どこかの布をシュラウドの代わりにしていたので、男は老婆にはわからなかったろう。しかしいくらかの臭いと彼の容貌から、何かを察することはできたのかもしれない。彼女はどうしてか、彼の手を握る。
「……あなた、どこから来たの?」
少年は答えなかった。
「別に取って食おうってわけじゃないのよ。ただ、あなたみたいな子は、ここいらじゃあまり見ないから————どこかから逃げてきたとか、誰かが死んだとか、そんなのじゃないと、ね……だから」
だから、気にかかるのだろう。だから、守りたいのだろう。しかし少年は、大人というものは須らく自らを虐げるものでしかないと学んでしまっていた。だから彼女のことを信じて良いものなのかと、ためらうばかりだった。
「……後ろ暗いなら、お茶を飲むだけでも、いいのよ。年寄りのちょっとした時間つぶしに、付き合ってくれるだけでもいいの。それも嫌なら、お茶請けだけでも持って行きなさいな…………」
彼は何も答えない。イエスにしたいのかノーにしたいのか、悩むばかりだ。
けれど彼の胸の奥の何かが、彼女の話を聞いておくべきだと叩いていた。まるで大工がカナヅチを使うように、運命のように。
でも割り切ることはできない。少年はちょっと下がってベンチへ歩き、男を横たえてから戻る。階段のところに、腰かける。
「……ここでなら、少し」
精いっぱいの妥協。もしくは強がり、もしくは————。
老婆は優しく、それを受け止める。
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「そんな攻撃!」
ファリスは左腕に生やしたバックラーで爪を防ぐ。レーザーナイフかと見まごうほどの切断力を持つミュータントの爪の蛤刃がこぼれ、欠片が男の毛皮にはじかれて砂になった。しかしそれをフェイントとし、男は本命の蹴りをバックラーに叩き込む。
柔軟性を持ちながらも硬質な羽が砕け散り、骨組みがバラバラにはじけ飛んで落ちる。衝撃に体を乗せてファリスが後ろに飛び、地面に手をついてブレーキをかける。 そのまま右腕のブレードを振りかぶって突進、振り抜くのでなく薙ぎ払う。
あえてギリギリで回避し、男はファリスをつかんで投げ飛ばした————当然追撃はしない。すれば簡単にカウンターを取られることが分かり切っていた。悪くもよくも、彼は侮れない相手である。
だからワンテンポ置き、ファリスが着地したのを見て加速、一撃をしてから離脱。当然それも羽毛のクッションで半分殺され、体にかかった加速度を使ってファリスは背中の羽で上空へ舞い上がるのである。
彼の口からまた、数滴の血が飛んだ。ダメージは軽減したものの、やはり豪撃が内臓に確実にダメージを与えている。ボディーブローよりも効果的で、二色に濁った雫がゆっくりと固まり、赤い表皮を再生して剥がれ落ちる。彼は自分の持つエネルギーが明らかに減っていることを危ぶむ。
もうこの速度になったか………。
しかしそれを補給するための手段は、最初の一撃を受けた時にその場に落としてしまっている。ファリスはその場所————男の背中の方を見る。
重要な物体だと判断していたのだろう、彼はファリスと鞄の延長線上に常に立てるように行動していて、彼が右に回り込もうとすれば右に、左に回り込もうとすれば左にと男は動く。速度では完全に負けているのだから、これを乗り越えるのは不可能であろう。
「面倒だな」
ファリスはにらみ合いの間に体の傷を回復させ、牽制で羽のナイフを投げつつ着地した。脚力で戦術的優位を取ることのできる柱近辺に剣山のごとく刃が生える。男が二秒後にいるだろう地点へと刃が飛ぶ。
助走してからのロンダートで回避して、男はファリスに体重を乗せた両足蹴りを繰り出す。ファリスが空中へのまたジャンプし、羽ばたきで鋭角の曲線を描いた体当たりを返す。
屋上のコンクリートがめり込み、男の体にいくらかのかけらが刺さった。だが筋肉の圧で破片が抜け、男の体からも血が流れるだけで終わる。ファリスのとは違い筋繊維が見えないことから、浅かったのだろう。
威力を殺されたか。
ファリスはまだ抜けきっていなかった破片を足の爪でつかみ、肉を切り裂きながら投げ飛ばした。男の腕の筋繊維が数本断裂し、ほんの少しだけ右腕の力を奪う。
「だが」
空中で後転し、男は地面に足をつける。そして今しがた受けた攻撃よりも鋭角な軌道を描いた体当たりを、コンマ下に秒で柱一本の破断と共にファリスへと叩き込み返した。
「行けることは、行くだけだ。しかしそのためにこそ」
————
「行けるところには、行くだけ。それがどうだったとしても、そうするだけなの」
老婆は少年に語る。
「私のところにも、昔は夫がいた。息子が、いた。遠い昔の話よ、私がまだ、ケルスにやってくるより前の、話————多分、あなたが生まれてもないころの、昔の話」
彼女の目は、黒さの目立つ壁よりも遠くにある。
「もう、死んじゃったんだけどね。あの人との生活は、とても楽しかった。一緒に生活を共にして、旅行したり、食事したり。ゲームも、できたっけ。懐かしい————そしてその中で、二人くらい子供を作った、かしら。一人は結婚して、もう一人は家出同然に家を出ちゃったけれどね。愉快な子たちだった…………そう、ちょうどあなたみたいだった」
「……俺みたい、ですか?でも、その人大人なんじゃ……?」
「そうね。今はたぶん、違ってるかもしれない。でも、もう三十年かしら————電話もしてくれないから、私の中では、ずっと出てった時のままなのよ。もう一人は、してくれるのに。だから私の中ではずっと、あの子はあなたのような子のまま。あの子は————誰かを迷わずに助けられるような、子のまま、なのね。私にとっては」
「……いくつくらいになるんですか?20年って、かなりの時間じゃありません?」
「30、40。そのあたりね……ほんと、どこで何やってるのやら。もしかしてたら、死んでたり、するのかもねぇ……昔から、飛び出してばかりだった。だから家からも、好きに飛び出してったわ。俺はこんなところに居たくないんだ!って」
笑っちゃうけどね。彼女はそう、微笑んだ。
「家からも、ですか…………ごめんなさい。俺には、家ってのがあまりわからないんで、どうも言えないんですけど……でも、あなたは悪い人じゃなさそうだから、あなたの家も、いいところだった————って、俺は思うん、ですけど……」
「あら、ありがとう。優しいのね、あなた」
「そんな……俺は…………優しくなんか、ないですよ。だって————」
彼は薄々感づいていた。今運んできた男がこの老婆の、飛び出していった息子で、その人から奪った服を着て、彼女と話しているのだろうことに。
そもそも、彼女と自分とでは、過ごしてきた世界そのものが違う。ルールが違う。
「……盗みだって、しました。人が死ぬのを、遠くから眺めているだけも、何度もしました。価値がないからって、どうでもいいんだって、全部放り投げて生きていたんです、俺は。この服だって、誰とも知らない人から奪ったもので————」
「殺したことだけは、ないですよ。でも、俺は、言えないことをたくさんして…………!でも、だからって……!」
それは日常だからだ。自分だけのことだからだ。でもそうじゃないのを巻き込むのは、違う。それは異常だからだ。黒く染まるのは、最初からそうである人でなければいけないんだ。
少年はそう続けようと、試みた。先に老婆が、割って入る。
「知ってるわ。ここらで見ない子なら、だいたいはそうだから。でもね」
彼女は立ち上がり、屋上の扉を開けて歩いた。
「あなたは、ジョナサンを連れて来てくれたから。だから、優しい人間なのよ。きっと、いや絶対に、そう。どことも知れない野垂れ死にを、ここまで連れてくるような人間が、優しくないはずがないんだから」
彼女も気づいていたのだった。その上で、言いにくかったのを取り出せるように時間を置いてくれていたのだった。それは硝煙香るアンダーシティで、真の意味での優しさであった。だからこそ少年は、胸の奥にずっと残っていたとっかかりに気づく。
まだやり残したことがあったと、思い出す。彼の想定の外から、情報が流れ込んでくる。
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