アンダーシティ・アンダーテイカーズ
栄乃はる
ツイン・クロウズ
1
————
夕焼けのように燃える色の液体にまみれ、尻尾の生えた人間が斃れている。その光が徐々に沈んでいくと同時に肉体は液体と化し、美しくもまがまがしい狼人間の形状が崩れていく。それはまるで、ミイラが外の風に当てられて塵と消えていくようであった————活気のある茶色から、嘔吐物混じりの黄色へ移ろい、それは抑揚のない黒色へと変わる。
液体的な光沢は目のように濁って消え、マットな平面状の固体の集まりへと相転移、今度は煙となってどこかへと溶けて消える。風と共に去り行くように、それは名も知れぬ男から空になった。
それを、コートをまとった二足歩行の
背中に生える一対の翼が緩やかに溶けて体の中に消え、体中を覆っていた羽はゆっくりと分離、繊維状となり編み込まれて細く、Tシャツへと不思議の変貌を遂げる。関節の一つ多い恐竜の脚の下腿が伸び、中手が縮む。逆関節のスタイルが、人よりも少し長い脚と小さな足を持った、少々変わっているけれどどこにでもいそうな成人男性のものへ変わる。
「
そして鳥類特有の、人の言葉を発するに適さない声帯が人間のものに変化。高く濁った音が低く澄んだ不思議な男性のものになったなら、そこにいたのは間違いなく、一人の人間であった。
「お前の言葉、そのまま返そう」
漆黒の中に立っている男は、強靭な肺からの息によって、音ではなく声を出す。
彼が呟いたのは、つい今しがた仕留めた獲物が、残骸に張り付けていた文言だった。確か、古いSFだったと記憶している。けれどそれがどんな闘争の物語なのだったか、人の形した何の物語だったのかは覚えていない————しかしおぼろげなことだけは、わかる
同類だ。
小さくつぶやいた文章に自らの境遇を思い出し、ファリス・アウラは言葉の終わりに小さく息を吐き出した。あの化け物どもをやった日はいつもこうだ。いつも決まって、マシな気分で終わらせられない。
彼の両目に宿っていた、獣の象徴足る紅い光が少しずつ薄れていく。風がごくわずか吹き、彼の硬い髪を巻き上げる。まだ変わり切っていなかった鱗の表面が、グロテスクに傷跡めいて覗く————同時に光彩の闇が戻って、人間の象徴たる理性の光が輝く。ファリスは言葉にならないことを呟き、道に落ちていたナイフを取り上げて血を払う。
とはいえ、割り切れないからこそ、まだ俺は人で、いられるんだ。
ビシャっと大量の液体がシルクリートに落ちて、白煙を上げて表層を消した。
硫酸、硝酸ではあり得ぬほどの反応の速さに、彼は服の端切れで刃を撫でた。残っていた腐食性の浸出液が合成糸に染み込み、一瞬で触れた部分をぼろ屑にする。
炎に煽られた消し炭のごとく、それはこの液体の持ち主のごとく、ウエスが風に乗ってチリと消える————α型の化け物なんて何か月ぶりだったろうか。
ゆえにアンブッシュで仕留められたのを、彼は幸運に思った。そうでなければ、こちらも安静ではいられなかっただろう。
しゃがみ込んで、落ちているブリーフケースを拾い上げる。その中から耐腐食加工されたハンカチを取り出し、刃をぬぐう。
チョンと触れても傷にならぬほどに取り除けたなら、ファリスはノールックでケースへ刃を差し込み、同じく耐酸性のレインコートを取り出して大ぶりに纏り、路地裏を出た。
さわやかなようなねとつくような、腹立たしい風が、戻らぬ烏の名残りを、静かに触って逃げて行った。男はそれがうざったくて、長くもない髪をまた切らねばなと、誰も見る者のない景色を、簡単に踏んで消していた。
————
平面的な雰囲気のかつての雑踏は、もう時代遅れを通り越してアナクロのネオンサインだけがまぶしく、生きのこっていた。エリススミードの意味のないものの群れは、植物状態で生き延びさせられているような雰囲気があって、ファリスの顔を撫でるそれはおそらく退廃だった。
目の前いっぱいの、人だけがいなくなった歓楽街の成れの果て。そこには朝の光が当たる時間となってもなお活気一つ戻らないどころか、光もこの通りを嫌ってなお夜だ。
6メートルほどのビルが並ぶ大通りを、ファリスは静かに歩いていた。
本来それは40メートルはあった。けれどあるはずだった部分が幾重幾百の戦闘によって破壊されていて、表面がところどころ剥げ落ちて砂利の見えたコンクリートが、シミュラクラを起こして彼を眺めていた。
人類を笑うそれらは、これまでしてきたのと同じように愚かしかった。
けれども歩けるほどには、道は作られたのだ。
雨粒に溶け込んだ微細粒子のこびりついた壁から、二匹のネズミが飛び出た。酸性雨によってところどころ毛の抜けたそれらは、物欲しそうに愛らしい球状の目で安全を確かめ、駆けだして別の穴へと入る。ふりふりと愛らしい尻尾がゆらゆらと揺れ、しばらくすると中に消えた。
そのあとを追ってどこからか、突然変異種らしき猫が細長く筋肉質な脚で窓から飛び降りてくる。
くしゃりと折れるように着地したそれは、元の愛くるしい姿とは似ても似つかない滑らかな毛皮をしていた————それを活用し、猫を全身を体の直系よりも小さな穴へとねじ込む。すると遺伝子の変質によって獲得した柔軟性が発現し、レーザースキャンにかけられているかの如く、体がゆっくりと中へ消えていった。
そして小さく、元の姿の名残である声を上げて、それは尻尾までを壁に収めた。旧世代のカートゥーンから見ることのできる、典型的な追いかけっこの姿だった。
どこかユーモラスでどこか寂しい、生きるための平常の行動だった。
それにファリスは烏としての食欲を掻き立てられた————ネズミを狩って猫から食料を奪い、すべてを食らいつくして焼き尽くすレイヴンの情動が、彼の中に真っ赤に、走っていた。
人間としてはあってはならない感情だと、彼はブリーフケースから完全栄養バーを開けて、腹の中に押し込む。細胞の奥深くから出てくる衝動は、ずっと前からドライブし続けている初期設定だ。戻りたくはない、レプタイルだ。
強化されてしまった内臓へ申し訳程度のチョコレート味が叩きこまれると、すぐに吸収されて、歯に残ったザクザクの食感とともに抑制を始める。まるで油を差すかのように音が消えて、獣の野生と衝動が脳内に潜り込み睡眠をとる。
首を振れば光るかもしれない目がまた、静まる。それでいい、深く息を吐く。
溶けたチョコレートの表層をハンカチでふき取り、剥いたパッケージと一緒に鞄に突っ込んでジッパーを閉じた。俺はまだ、獣じゃない。獣なんかじゃあ………断じてない。
彼は小さく上を向き身体の奥深くに言い聞かせるように思った。
三年前に生成された身体修復ナノマシンの容器と、『月の花事件』が彼の脳裏を駆け抜けていた。全てが白に染まったケルス・シティに起きた、隠され続けている消滅の一部始終に、風となって消えたすべての証拠。そしてそれによって解放されてしまった自分と、追われ続ける身になった始まり。
「俺もいつまで持つのか………」
まだしばらくは持つだろうが、今の自分の状態は水に落ちたアリのごとくである。だからいつ本当の獣となってしまってもおかしくない。
上げた顔を戻して、通り過ぎた角を右に曲がった。ファリスは理解していた。
当然だ。活性化剤と維持剤を限界までつぎ込んで、無理矢理ナノマシンで生存し意識を保っているのだから。設計図を手に入れたとき、こんな理性的行動は最初から期待されていないとわかった。だからそれが嫌だった。
使い捨てのクローンとしてしか思われていないのが、とても、とても————。
そんなことを考えているうちに、彼は窓ガラスの割れた廃喫茶店へとたどり着いた。さて、今度こそアタリを引けると面白いんだが。
そしてほんの少しだけ構えてから、その扉を押し開ける。
————
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます