ショートストーリーズ 3

宇宙国へ

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 天高くそびえる軌道エレベーターは、かつて描かれた一つの神話に基づいて、ユグドラシルと名付けられていた。地に根を生やしどこまでも伸びる大木。それは世界の情報を吸ってどこまでも伸び、白樺のごとき白亜の外装に包まれている。誰にも切り倒されることはない、無限の樹。それがユグドラシルだった。


 かつて人類は、宇宙に行くためだけにロケットを使い捨てていたらしい————再利用型宇宙船システムの発達した現代においては、あまり考えられないことだ。衛星軌道まではエレベータで運べばすむし、そこから燃料を入れるだけで使える乗り物フライヤーで外に飛び出す。このシステムが出来上がってから、既に40年は経つ。部分開通の時点でも、ロケットは不要だった。


 そして軌道エレベーターは法律をも変えた————軌道エレベーター上でリングが形成され始め、そこで人類が恋愛をしだし、妊娠が発覚したときだった。ここで生まれた赤ん坊は、いったいどこの国に属せばいいのだ。まだここは、どこの国でもない。まだここは、どこの領土でも、ない。


 それから1か2カ月ほどしてから、今度は犯罪が問題になる。前々から国籍なんてない宇宙で起きた犯罪は、いったいどこの国の法律で裁けばいいのだ、という問題になっていたのだ、こうなるのは仕方ないことだった。


 そうして仕方なく、宇宙はどこにも属さない空間から、『宇宙国』という国に属する共有空間となるのであった————もちろんそのために各国は協議し、憲法を作り法律を立ち上げ。そして人民がいなくなった時に備えて、その運営を、機械と強調して行うように作り上げた。


 当然のことながら、人間の世界を人外が動かすのか、なんて批判も出た。だけれども、差別など存在しない空間で、差別なく人類をさばけるのは機械だけだとなったために、それは受け入れられることとなった————そして最初の『宇宙人』が誕生し、宇宙国籍を手に入れてから、38年。そのすべてを見据えてきた私は、初めて宇宙国に旅することに決めたので、あった。


「隣、よろしいですか?」


 初老の男性が私に問うた。


「ええ、いいですよ。出発まで短いですから」


「ありがとうございます」


 かなり時間ギリギリだった。

 きっと彼は、ギリギリのところで席を間違えてしまったのだろう。なんせエレベーターは、ビルが上り下りしているのと似たようなもの。1フロア間違えたのならば、もう間に合うまい。それに人がいたって、外の景色に勝る美しさはあるものかと見過ごされる。


「定期便、間もなく発車します。これより乗客の皆様がお立ちになることはできません」


 システム音声がやさしく告げた。私だって、左手の強化樹脂窓の先がずっと、きになるのだから。ヴヴと揺れるのも気にせず、外を眺める。アフリカの自然というものは見えず、ただそこにあったのはアンダーシティと変わらない喧騒。けれど。


「ドア閉鎖確認。発車します」


 天井のスピーカーからそう響き、グレーの床材に押し付けられてしばらく加速。まるで旧世紀の電車のような座席の柔らかさが、私の体をそっと持ち上げ、時速200キロになるまでゆっくり————ゆっくり、伸びる。同時に見えるものが、すぐに都会を消し去る。


 外壁と同じ材質で包まれたゴンドラは、すぐに都会から大自然を私に見せにかかった。シルクリートで埋められた道路から、安定陸塊に残る多量の山々、アンダーシティの地上構造物、そして砂の広がったサハラの大地といった具合に。まだ10キロも進んではいないはずだろうが、たったこれだけで世界が変わって見えるのかと、私はきっと目を輝かせていた。


 隣に座っていた男性も同じようで、彼も初めてなのか、外の景色にくぎ付けになっている。シートベルトサインが解けていないので座っているが、きっとサインが出たならば、緑のシートからすぐに飛び出て窓にかじりつくだろう。


 それは私も同じなようで、ほんのわずかな時間横切った支持部材ですら、映画館に飛び込んだ花火のように、この世界にそぐわないと感じられた。けれどそのわずかな時間のいら立ちも、遠ざかっていく地表と、見えなくなっていく世界のディテールだけで十分に打ち消される。


 空気抵抗に重力、その他もろもろの乗り心地や安全から、これが最適だと見積もったらしい速度。それが長々と、このストラトスフィアの変化を見せてくれる。言わざるを得ないのは、きっとここに、ある。



「しい…………」



 右手から、精神の奥底で吐き出す息。それとほとんど時を同じくして、


「……美しい、ですね」


 私は、自然にそう彼に語り掛けていた。

 互いにハッとして、一刹那顔を見合わせる。どうしてそう言ったのか、私にはわからなかった。


 ただこれを、一度言葉にしなければすぐに忘れてしまう。そんな感覚がしたからなのかもしれない。

 アームレストにかけた手のひらから幾分汗が染み出す。


 きっと彼も同じことをしようとしていたのだろう。男性は額のしわをほんのわずかな時間引き延ばし、そして、『ああ、あなたもそうなのですね』と私に応えた。


「……ええ。言葉もありません」


 そして私たちはただ、少しずつ小さくなっていく命の源に浸っていた。



 ————



 私たちはだんだん、地球のドレスから脱していく。サッカーボールに指を乗せた時の、爪の白い部分くらいの高さしかないその柔らかな防護膜は、どうしてか下の景色を少しずつ青ませ、雲に隠し、そして夜の闇とは対照のまばゆさを放っていた。


 その遠くから夜の闇が迫っており、死んだように暗まる世界では、抗いの光が脳の活動のようにして瞬いて、増えていくのだった。


 その対極では当然ながら、同じように世界が広がって、小さく小さく上がる火山の噴煙。まるで動く絵画のようになってしまった野に、その下にずっといたのだと考えて、ほんの一瞬目をつぶってみると、なぜか地球の心音が聞こえるような感覚がした。


 これほどまでに小さいのか、私の世界は。


 換気システムの吐き出す音に紛れて、隣から深く息を吐く音が聞こえてきた。



 ————ポーンと電子音。


「これより1時間の間、自由時間となります。良い旅を」


 アナウンスはやわらかなクリーム色の空間に告げた。時計を見ると、いつの間にか30分ほどは経過している。それだけの長さを、私は彼と共有していたのか?


 ちらりと見ると、男性も想定外だ、という風にして私をちらりと見た。考えることは同じかと、あった目線に私たちは吹き出し、そして小さく握手をすることとした。


 私たちは何も言わず、互いの右手を出し合った。そうして互いに皴の多い手を握り、『またいつか、どこかで』と目で語り合う。そして二人とも同じタイミングで手を離すと、隣人は小さく礼をしてから席を立った。


「……ほんのしばらく、ありがとうございました」


 きっと彼の指定席に戻るのだろう。私はおそらく、これがどこかの国で言う『イチゴイチエ』なのだろうと考えた。


「お互い、いい旅を」


「貴方も、良い旅を」


 そうして私たちは、少なくとも衛星軌道リングまでは出会うことは無かった。高度400キロメートルに作られた発着場で、私は彼の姿が無いかとも探したのだが、あの男性の姿が見つかることは無かった。


 けれどそれでよかったと私は思っている。


 きっとこれは、胡蝶の夢のようなものだったのだから。人間が夢のフロンティアに行くまでのわずかな間。地球が我々に『行ってこい』と伝えてくれる、ほんのわずかな間。その間であったからこそ、そんな夢が見られたのだから。


 そして私は、導かれるようにして市街エリアを抜け、展望エリアに立った。教科書や映像で見慣れた地球は、言葉にできないほどに、赤く、青く、死に満ち、生溢れ、友があり、孤独で――――そして、誰もすべてを知ることはできないのだと語り掛けるように、優しかった。



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