第37話 陸上一家
火野円佳の家は、陸上一家だった。
彼女の両親は共に元日本代表の選手で、火野の3つ上の兄と1つ上の姉も、将来を嘱望される全国クラスの選手である。
そんな陸上一家に生まれた円佳も当然幼き頃から陸上というスポーツに慣れ親しみ、上の姉や兄と同じように頭角を現していった。
小学校の徒競走は1~6年まで男女含めても学年トップのタイムで走り、学校の代表として出た県の大会でも見事に優勝した。
彼女は小学校の時から兄や姉と同じように県内で高い志を持つ陸上キッズ達が集まる陸上クラブに所属し、そこでもやはり別格の存在として扱われた。
ちなみに月島有紀(火野は苗字を言わずただユキと呼んでいた)とは、そこで出会ったらしい。
恐らく姉の月島小百合とも、何かしらの接点があっただろう。
うう、胃が縮む。
そんな彼女は、小学を卒業した後も当然のように中学で陸上を続け、そこでも100mの選手として全国でもトップクラスの成績を誇っていた。
けれど、父や母の威光や兄と姉の背中を見ていたらそれでも満足することは一度も無かったという。
なぜなら、彼らは自分が前に一歩進めばその間に5歩も進むような選手であったらしいから。
全国大会に出場しても、そこでトップにならなければ両親も決して褒めることは無かったという。
元日本代表ということもあって、普通の家庭とは感覚が違うのだ。
国内でトップになるのは当たり前。問題は、世界でどこまで通用するか。
そんな思想を念頭に置いているような、両親だった。
火野は兄たちの背中を追いかけ、そして両親にいつか認めて貰えるように、人の10倍近くは努力した。
居残り練習は当たり前。身体を休めてる時も陸上のことばかり考え、普通の中学女子がする恋愛や音楽鑑賞、友達と買い物を遊んだりなどの娯楽は一切せず、ただただストイックにその身を陸上に捧げ続けた。
しかし、そんな生活を続けていても兄や姉の背中は遠くなるばかり。
それどころか、地方大会でも度々負けを経験するなど自分の理想とはほど遠い現実に苦しむ日々。
ついには両親にも愛想を尽かされそうになり、火野は潰れそうになる心をたった一人で支え続け、そのたびに家族にこう訴えた。
「私、頑張るから」
もっと。もっと。もっと。
火野は、歯を食いしばって走る。
これじゃ、全然足りない。
火野はさらに一層陸上に打ち込んだが、努力をすればするほど自分の才能の無さ、努力だけでは越えられない壁があることを思い知らされ、中学三年に上がる頃にはすっかりかつてのような覇気は彼女には残されていなかった。
そんな彼女にトドメを差したのが、他でもなく、2個下の月島有紀だった。
それは県大会決勝。
すでにメインでやってきた100mでは通用しなくなった火野は、中二の時点で400mへの転向を余儀なくされていた。
本当は、憧れである兄や姉のように、100mや200mの短距離選手として結果を残したかったけれど、これも勝つため。
そう自分に言い聞かせ、希望ではないが適性のあった400mの選手として悲願の全国優勝を目指していた。
この県でのレースは、その足掛かり。
実際、いくら落ちぶれたとはいえ400mで火野の右に出そうな選手は県では誰も居らず、彼女の優勝は確実視されていた。
だが、そのたかが足掛かりでしかなかったレースで大波乱が起こった。
つい数か月前までは小学生でしかなかった月島有紀が、火野の中学校の3年間を全てかけて出した自己ベストを大きく上回っての優勝を果たしたのだ。
陸上クラブでは、姉妹のような仲だったらしい。
いつも後ろから小さな手足で必死に追いかけてくる有紀を見て、可愛らしいと思っていた。
いつか二人、同じピッチでレースを出来たら。
それが、いつも彼女たちが練習で会うたびに口を揃えて語る、二人の夢だった。
その夢が叶ったこのレースが、皮肉にも日野を奈落の底へと突き落とすことになるとは、当時の彼女たちには想像もつかなかっただろう。
そのレースを契機に、火野は壊れた。
県で2位だったため、地方大会への出場は決まっていたが、出場を辞退して部活を辞め、失った普通の青春を取り戻すかのようにクラスでもあまり素行のよろしくない女子たちと夜遅くまで街をたむろする毎日。
当然両親や先生の声にも耳を貸さず、呆れ果てた目で荒れた妹を見る兄や姉には怒鳴り声を上げて威嚇する。
やがて火野は、中学卒業後に完全に家族とは袂を分かつ形になり、祖父母の家に身を寄せることになった。
陸上の未練を絶ち、普通の女子高生として青春を送るために、お世辞にも部活に力を入れているとは言えないこの成駿高校を受験し、合格した。
「もう私は、家族や過去の自分を忘れ、普通の女の子が憧れるような普通の青春を、人生を味わいたかった。だけど・・・」
彼女の入部希望票は、「陸上」と大きな文字で書かれていた。
その二文字を見るのが嫌で、こんなところまで逃げ出してきたはずなのにね。馬鹿だよな。
火野は自虐的な笑みを浮かべながら、そう吐き捨てていた。
そして、自分の高校入学までの過去を言い終えたところで、真っすぐな目で俺のことを見て、決意を固めたようにゆっくりと深呼吸をして、口を開いた。
「だからさ、タローに告白したのも、本当は自分が逃げるための理由を作るためだったんだよ。恋人が出来てデートとかしてれば、あくまで私の学園生活は青春がメインであって、部活はそのおまけみたいなものだから、結果が出なくても仕方がないって。自分に言い聞かせるために」
そして火野の目からボロボロと涙がこぼれて来た。
いつも強気な彼女の涙を見るのは秋の大会以降だったので、何だかあの時の記憶が蘇ってきてなんとも言えない感情がこみ上げた。
「私、タローを利用してた。自分の陸上への想いを少しでも誤魔化すために、都合の良い存在として。ホント、最低だな、私。逃げたって、逃げたって、逃げたって、どこまでも陸上は追いかけてくるって、知ってたのに。今こうしてきちんと自分の気持ちを整理するまで、それすらも分かってなかった」
ハンパになんて、出来るはずが無かったんだ。
火野の声は徐々に掠れていき、とうとう床に土下座する格好で泣き崩れてしまった。
「ねえ、タロー」
顔を隠したまま、彼女が呼び掛ける。
そしてしばらく間を空けて、彼女ははっきりとこう言った。
「私のこと、振って」
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