第20話 入学式(火野視点)
人は誰だって、他人には言えない秘密を一つは抱えているものだ。
昔、たまたま流れていたドラマの登場人物がそんなセリフを言っていた。
当時、まだ小さかった私は「へんなの」と鼻で笑うだけであったが、今ではそのセリフの意味がよく分かる。痛いほどに。
「まさか円佳の方から話しかけてくれるなんてね。夢みたい」
ついこの前、太郎とキスした狭い部室で私はかつての親友・月島小百合と向き合っている。
「こっちに来てからは、初めてかもな」
小百合と私は、今住んでいる都道府県の出身ではない。ここよりも少し南。
人も物流も情報も、こことは桁違いに多い都市で汚れた空気を吸いながら生まれ育った。
「もう二度と、口を利いてもらえないかと思ってたわ」
私に呼び出されたのが嬉しかったのか、小百合は以前と変わらない笑顔で私の心を少し動揺させる。
ああ、これだよ。小百合は向こうに居た時から全く変わっていない。だから嫌になるんだ。昔のことなんて、思い出したくないのに。
「一つ質問をするだけだ。これが終わったら、お互い名前も顔も一致しないただの同級生の関係に戻る」
「私の方は、円佳ちゃんのことは4歳の頃から名前も顔も一致してるんだけどな~?」
「じゃあ、今日を区切りに忘れるように努力してくれ」
あくまで冷たい対応を取る私に対して、小百合は悲しそうに微笑した。
その顔を、私は一度見たことがある。
あれは確か中3の夏。私が一度、走ることをやめた日。
そして、まともに小百合と会話するのも、その日以来。懐かしさの類の感情は、一切ない。
「有紀は、高校でも陸上を続けるつもりなの?」
有紀とは、小百合の妹であり、私が一度本気で陸上を辞めようとしたキッカケの張本人。
「うん。もちろん。あの子、円佳ちゃんと走りたいからって、向こうの強豪からの誘いを蹴って、わざわざこっちの高校を選んだくらいだからね~」
「分かった。ありがと。もういい」
小百合の話は、あらかた私の検討通りだった。
その答え合わせがしたかっただけで、これ以上小百合と話すことなどない。
そそくさと部室を出ようとする私に、小百合は「待って」と引き留めた。
その言葉を無視して、扉を開ける。春の涼しい風が、部室内の密閉された生暖かい空気を吹き抜ける。
「あの日のレースのこと、まだ気にしてるの?」
まだ???
静かに囁かれた小百合の言葉に、激しい怒りの感情がこみ上げる。
私の脳内から、あのレース・・いや、あの日の記憶が途切れたことなど一切ない。
2年前、この高校に入学してきた時も。
去年の秋のレース直前も。
そして、今も。
私の足には、そんな鉛のように重い記憶が、ずっとずっとのしかかっている。
私が一歩を踏み出すたびに、その鉛がこちらに牙を向け、行く手を妨げる。
そしてその鉛は、恐らく私が陸上を続ける限り、いいや、下手すれば人生においても、永遠には外れることは無いだろう。
私は小百合には何も答えず、彼女一人が取り残された部室の扉を、思い切り閉めた。
有紀が私と走りたいのは、きっと逃げた私を非難するため。
戦いの前線から離れ、恋やら青春やらにかまけて、ままごと同然の部活でピッチを走る私の三年間そのものを否定するため。
人は誰だって、他人には言えない秘密を一つは抱えている。
それを私に当てはめるのならば、こうだ。
私は、本来居るべきところから「逃げる」ためにこの高校を選び、太郎と付き合った。
今の私は、本来あるべき私の姿じゃない。
震える拳が、そう語っていた。
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