第41話 地区総体 その3

メインスタジアムの隣にあるサブグラウンドは、大会に出場する多くの選手たちで賑わっていた。


レースが終わり穏やかな表情でダウンをする者、レース直前緊張した面持ちで芝の上に転がってストレッチをする者、明日のレースへ向けて走り込みをする者。


選手の過ごし方はそれぞれが置かれている状況によって全く異なっていたが、全員が今まで練習してきた成果を発揮しようと全力で陸上競技に向き合っている点に関しては共通していた。


その緊張感がヒシヒシと伝わってきて、ジーパンにカッターシャツ姿の俺がこの空間に入っていいのかとここまで来たのにも関わらず躊躇してしまう。


間違いなく、火野はここに居るというのに。


入り口から探しても、遠い上に人が多すぎて火野の姿が見つけられない。


「おい、君」


ギリギリまで近づいて必死にオレンジジャージを探していると、背後から突然声を掛けられた。


慌てて振り返ると、警備員のような人が訝しげな視線をこちらに向けていた。


「ここは選手以外立ち入り禁止だ。一体何の用かね」


やはり、周りが関係者しか居ない中でこの格好でサブグラウンドに潜入するのは厳しかったか。


ここでいかにも真面目そうな警備員さんに正直に「今現在フラれそうになっている彼女にエールを送りに来ました」と打ち明ける訳にもいくまい。


そんなことを言ってしまえば、彼女に気持ちを伝えるどころか、変質者として捕まりかねない。


ここは一度、退くしかないか。


「す、すぐに消えます」と誤魔化すように笑って、その場を立ち去ろうとした。


その時、背中に巨大な柔らかい物体がぶつかるのを感じた。


「ねえ太郎く~ん。わざわざ応援に来てくれたの?ありがと~!」


自称Fカップのもう一人の彼女が、「初音」と刺繍が入った少しピチピチの黒ジャージを着て、カップルらしく俺にベタベタとくっつきながら警備員さんに軽く礼をする。


「どうしたんだよこれ」


そっと耳打ちすると、彼女はわざとらしく自分の胸を俺に押し寄せながらニヤリと笑った。


「こんなこともあろうかと思って事前に妹のやつを盗んできたの。ちょっとピチピチだけど、そこがまたエロいでしょ?」


エロいどころか、胸のラインがはっきりと浮き出ているので、彼氏だとしても、目のやり場に困る。


「今から選手のふりして円佳ちゃん探して連れ出してくるから、ここで待っててね」


月島は、ギリギリまで俺の耳に唇を近づけて囁くと、選手たちに入り混じってサブグラウンドの中へ入っていってしまった。


すぐそばに居たはずの警備員は、何故か俺からかなり距離を取ったところで悔しそうに唇を噛みしめながらこちらを睨みつけていた。


仕事中なんだから、自分の下半身もしっかり警備してくださいよ。


無論、俺のはもう手遅れであるが。


余韻に浸りながらずっと待っていても、なかなか火野と月島が姿を見せることはなく、俺は警備員にただひたすら睨まれる時間が続いた。


もしかして、ここには居なかったのかな。


いつの間にか月島のことも見失ってしまったし、ここであの警備員に睨まれ続けるのも居心地が悪かったのでその場を立ち去ろうとした瞬間、手にドリンクとシューズケースを持った火野が一人でこちらに歩いてくるのが見えた。

その表情は、レースを目前に控えているにも関わらずひどく沈んでいた。


「火野!!」


俺は急いで駆け寄ると、火野は鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くして驚いた後、すぐに俺から視線を逸らし、全力疾走で逃げ出した。


「お、おいちょっと!!」


俺も慌てて全力で追いかけるが、追いつける訳もなく、サブグラウンド脇にある女子トイレへと逃げられてしまう。


俺は焦りと苛立ちを覚えながら足を止めずに自分の影を踏んでその影を追うようにその場で右往左往しながら、遂に女子トイレに入る決断を下した。


中に火野以外が居ないことを祈りながら意を決して入ると、個室のドアは一つしか閉ざされておらず、とりあえず俺はホッとする。


「火野!そこに居るんだろ?」


個室に向かって語りかけると、キャッ!!!と甲高い悲鳴が響いた。


「ここ女子トイレだよ?!馬鹿じゃないの?!変態!」


一応まだ付き合っているというのに、よく彼氏に対してそんな酷いことを言えたもんだ。だけどこれに関しては彼女がド正論なので、特に言い返さずに俺の心のライフが削れる感触だけを味わう。


「馬鹿になろうが変態になろうが、どうしても火野に伝えたいことがあって」


「うるさい!!こっちは今レース前だってのに色んな感情がごちゃ混ぜになって自分でもよく分かってない状態なの!!お願いだから放っといてよ」


「俺、火野のこと、絶対に振ったりしないから」


いちいち相手にしていると埒が明かなそうだし、いつ他の女子がお花を摘みに来るかも分からないので、俺は彼女に構わず、用件を伝える。


「・・・何で」


しばしの沈黙の後、火野の小さな声が漏れる。


「好きだから」


理由なんて、これだけでいい。


「お前の走ってる姿も、陸上に向き合う姿勢も、Bから萎れたAカップも、お前自身も、全部、好きだから」


理由なんて、たったそれだけでいい。

七股なんて、今は考えたって仕方ない。

クズならクズなりに、とことんクズに足掻いてやる。


例え彼女が俺のことを、ただの逃げ道としてだけ見ていたとしても、その愛が自分に言い訳するためだけの偽物だったとしても、俺にとっては彼女と過ごした日々も、愛も全部本物だ。


だから俺は、自分からは絶対に火野を振らない。


彼女のことを応援したい気持ちに、躊躇いなんて、生じる訳が無い。


「レース、頑張って。因縁がどうとか、勝負がどうとかは、スポーツをしたことない俺には分からないけど、火野のこれまでの頑張りは、俺が全部見てきてるから。絶対、大丈夫」


それから、彼女の返事はなかった。


個室の向こうから呼吸音は聞こえるので、俺の話を聞いてくれていることは確実だろう。


そろそろ、他の人も来るかもしれないし、出るか。


そして誰にも見られないことを祈りながら恐る恐る女子トイレを出ると、運の悪いことに、ちょうど入り口のところで女の子と鉢合わせてしまい、その子驚きのあまり「キャッ」と奇声を上げる。


その反応にこちら側の心臓も飛び出そうになり、慌てて身振り手振り手足をバタバタさせ、言い訳を怒涛に並べ立てる。


「す、すいません。これはえっと、その、こう見えて僕、実は清掃員と言いますか、ちょうど今、清掃が終わったところなんですけどね。決してやましいことはないと言いますか・・・」


相手の顔も見れずに、苦し紛れに言い訳をすると、「えっ?!」と再び女の子が声を上げる。


もう、手遅れか。

仕方ない、これも七股をした代償か。

これからは、変態として後ろ指刺される中でいそいそとドМ耐性を身に着けていくより他に生き残る術はないか。


ああ、せめてこのオレンジジャージの女の子に怖い思いをさせてしまったことに対する謝罪の土下座を・・・。


ん?オレンジジャージ?


「あの、田中先輩・・・?」


聞き覚えのある声に、背筋がゾッとする。


ま、まさか・・。


恐る恐る顔を上げると、そこにはキョトンした表情を浮かべた町田結衣が、上目遣いで俺のことを見つめていた。







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