第42話 地区総体 その4
「お、おう。結衣ちゃんじゃねえですか・・・」
なるべく自然に軽く右手を上げて挨拶すると、町田はそれには反応せず女子トイレから出てきた変態が俺だと確定した瞬間、火が出そうなくらい顔を真っ赤に染めて、ロボットのような動きで回れ右した。
「わ、わたし・・・。私、何もかも全て黙ってますからあああああああ!!!」
町田は、大声でそう叫びながらどこか遠くへと逃げ出してしまった。
何だろう。世間体は保たれたが、人として何か大切なものを失った気がする。
高校に入学して初めて好きになった先輩が、実は二股クズ野郎で、おまけに女子トイレに忍び込む趣味まで持っていた。
・・・恋愛が町田のトラウマにならないことを、切に願おう。
トボトボとサブグラウンドへ戻り、月島を探そうと辺りを見渡すが、いくら探しても見つからない。
もしかしたら、溜まりに溜まった性欲を抑えきれずに適当な男を誘って茂みの中で野外プレイでもしているのではとサブグラウンドを囲む整えられた茂みの中を確認する。
「こんなところに、いるはずないか」
茂みを掻き分ける自分の行動に、呆れてため息をつきそうになったその時だった。
緑の中から黒の物体がカササと動いた。
「うわっ!!なんだあ!?」
驚きのあまり尻もちをついてしまい、ビリリとズボンが破ける音がする。
「あっ。ごめんなさい。今、よからぬ音が・・」
黒い物体からひょこっと手足が生えて、そのまま勢いよく立ち上がった。
どうやら体育座りで丸くなっていただけで、正体はただの人間のようだ。
それも、髪が長くてなかなかにスタイルがいい女の子。
「大丈夫ですか?」とこちらを振り返る女の子。
見上げた先にある彼女の顔を見て、俺はズボンが破けた以上の衝撃を覚えた。
そこにいたのは、惚れ惚れするようなアスリート体型にプラスして清純さを兼ね備えた月島だった。
もっと簡単に言うと、月島から余分なお肉と色気を取り除いて筋肉を付け加えた感じ。
彼女が月島の妹の月島有紀であることは、一瞬で分かった。
有紀に見入っていると、彼女は「もしかして」と髪を触りながら軽く首を捻った。
「田中太郎さんですか?」
俺は大きく頷き、「そうですけど」と答えた。
すると有紀は表情をパッと明るくさせ、これも姉と同じ血だからなのか、初対面にも関わらず、思い切り顔を近づけて「そうですよね。そうですよね」と何度も連呼した。
「私、月島有紀です。いつも姉がお世話になっております。太郎さんのことは、ずっと姉から話を聞いてまして、いつかお会いしたいと思っていたんですよ。うわあ。嬉しいなあ」
小躍りしながらはしゃぐ有紀を見て、俺は意外な印象を持った。
火野の話を聞いていた感じ、いくらあの月島の妹とはいえもう少しクールな印象が強かったのに。
「ここで、何してたんですか?」
「何って、精神統一です。あと、全然ため口でいいですよ。まだまだ高校に入学したばかりの若輩者なんで!」
「そう?じゃあ、ため口で。精神統一って、こんなところで?」
「そうです。レース前は必ず、誰かを感じられるかつ一人になれる場所で、こうして精神統一を行うんです。このやり方、お姉ちゃんに教わったんですよ。マニアックなところを責めすぎて、たまに変質者に間違われることもありますけどね」
そのお姉ちゃん自体が、歩く変質者みたいな生き物なのでその教えに則って間違われるのは致し方ないだろう。
それにしても、レースまであと1時間もないというのに、こんなところで俺と話していて大丈夫なのか?
しかし有紀はその場から全く動く気がないらしく、芝に腰を下ろしている俺の隣にゴロンと寝そべった。
「おいおい。もうすぐレースじゃないのか?」
「もうすぐレースだからこそ、芝に横になるくらいの心の余裕を持たなければいけないんじゃないですか」
本当にこれが、3年間火野のトラウマになり続けた月島有紀なのか?
こんな能天気で自由な人間が全国トップクラスの実力を誇るなんて考えられない。
この様子なら、あれほどの努力を積み重ねた火野であればいくら実績に差があろうとも勝てるのではないか。
「今、私なんかが円佳さんに勝てるはずないって思いましたね?」
有紀は俺の心中を見事に的中させ、薄ら笑いを浮かべる。
「うん。思ってた。てか、火野のことも知ってるんだ」
「ふふふ。月島姉妹の間に隠し事なんて無いのであ~る。太郎さんが姉という良い女が居ながら七股していることも、把握済みです」
「そ、それはその・・・なんだか申し訳ない」
「どうして私に謝るんですか。姉が幸せそうなんで、私がとやかく言うことはありませんよ。それに、円佳さんが選んだ男でもあるわけですもんね。その時点で、何だかんだ太郎さんのことは信頼できます」
「ちょっと待て。火野との仲は悪いんじゃ・・」
「ええ。最悪ですよ。3年前のあのレース以来。だけど、円佳さんが私の憧れであることに、変わりはありません」
彼女の言葉を聞いて、俺は脳が混乱しそうになった。
これは一体どういうことだろうか。
火野の話によると、有紀は逃げた火野をさらにどん底へと突き落とすためにわざわざこの地区の高校に入学したということだったのに。
それなのに彼女のその言い草からは、そのような感情や考えは見られなかった。
「憧れって。言っちゃ悪いが実績を考慮したら君の方が全然上なんじゃ・・」
純粋な疑問を投げかけると、有紀は分かってないなとばかりに首を振り、ため息をついた。
「分かってないですねえ太郎さん。円佳さんの考えに毒され過ぎです。そんなの、憧れを失う理由になるはずないじゃないですか。確かに、円佳さんより早い選手なんて、数えきれないほどいます。私だって、純粋な400mだったら確実に勝てますし、今日のレースだって勝つつもりでいます。ですけど、私が憧れた陸上選手は、火野円佳なんですよ」
「そんなもんなのか?てっきり俺は憧れというものは自分よりも格上の選手に抱くものだと思ってたけど」
「普通はそのパターンが多いってだけで、私は全然違います。例え目の前に金メダリストや世界記録保持者がいようが、私の憧れはマドカ・ヒノって答えます」
突然の言い回しの割りに、ちょっと英語の発音が上手いのが何となく腹立つ。
「どうして、マドカ・ヒノにそこまで」
対抗したが、ちょっと発音が乱れたかなと内心で悔しさを覚えながら横目で有紀を見ると、彼女は宙を見上げながら言った。
「いつも陸上に真剣に取り組む姿勢が好きとか、結果が伴わずとも努力を怠らないところとか、小さい頃私の歩幅に合わせて一緒にランニングしてくれたこととか、挙げ始めたらキリがないですけどやっぱり一番は・・・」
彼女は少し間を空けて、言った。
「単純に、円佳さんの走りが大好きなんですよ。タイムやフォームなんて関係ない。ただ、陸上を始めた当初から、私はずっと広大なトラックを走り抜ける円佳さんに、憧れていたんです」
有紀はふっと立ち上がり、深呼吸をしながら身体を伸ばしたり屈伸運動をしたりしながら、続けた。
「だからこそ、円佳さん本人からいくら嫌われようと同じレースを走り、そして勝ちたいんですよ。私にとってそれは、全国大会で1位になるくらい、大切なことなんです」
有紀は言い終えると、そのまま背を向けてあっという間に走り去っていった。
「それならそうと、マドカ・ヒノに伝えればいいのに」
試しに口にしてみたが、隣から彼女の「分かってないですねえ太郎さん」という声が聴こえてきそうになったので、すぐに口を塞いだ。
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