第43話 レース前(日野)

スタンドの方から、大歓声が聴こえてくる。

選手や観客問わず、このスタジアムにいる誰もが陸上競技というスポーツに熱中し、応援したい人へ向けて大きな声援を送っている。


私は本来、ここにいるべき人間ではないんだと、その声援を聞いていると思う。


私は、応援や陸上のことなど、一ミリも考えていない。

私は私のことしか考えずに、不純な理由でこの神聖な空間に侵入しているのだから。


このスタジアムは、東西南北にそれぞれ一つずつの計四か所に入場ゲートが設置されているが、今回の大会で使われているのは一般の入場口の南と、選手の待機場所となっている北ゲートの二つだけで西と東のゲートは使われていない。


そのため使われていないゲートの周りには、ランニングをする選手がポツポツ見られるだけで、ひと気は全く無いに等しかった。


そしてその西ゲートの付近で今、私は月島小百合と向き合っている。


「どうしたの日野ちゃん。いきなりこんなところまで連れ出して」


ピチピチの黒ジャージ姿の月島は、同性の私から見ても大人の色気に満ち溢れていた。

学内で、彼女の人気が高いことは知っている。

男の子なら誰もが憧れる、優しくて綺麗で大人の色気に包まれたお姉さん。


歳は同じのはずなのに、その高校生離れしたスタイルと、大人びた振る舞いと気遣いからまるでそれを感じさせない。


決して前に出るようなタイプではないので、全校生徒に名前を知られているということはないのだが、関わった男の全てを意識させていくその魅力は、成駿の裏のヒロインと言われているくらいだ。


ちなみに表のヒロインは、容姿端麗の生徒会長・木原澪音と圧倒的な高嶺の花のミス成駿・土屋志穂で意見が見事に二分されている。


「ちょっと、お聞きしたいことがありまして」


月島とこうして話すのは、実に初めてのことだった。

当然2年間も同じ校舎で過ごしているので、顔を合わせたことは何度もあるが接点があったわけではない。


男子に人気の色気のある大人びた同級生。ということ以外は今まで何も月島小百合のことは知らなかったのだ。


太郎と接点があったことも。


「Gだよ」


まだ質問をしたわけでは無いのに、どや顔で月島が答えてくる。


私は最初、何のことか分からずに固まってしまう。

「日野ちゃんは・・。そうねえ、Cぐらいかしら。カタチも良いし、万人受けする感じかな。あとはチク—」


「べ、別にそんなことを訊きたい訳じゃありません!!!」


さすがの私も何の話をしているか理解し、慌てて月島の話を止める。


すると彼女は余裕のある笑みを浮かべながら「顔が真っ赤っかだよ」と顔を近づけて揶揄った。


「う、うるさいなあ!」


私はすぐに彼女から距離を取り、頬を膨らませる。


「あら、可愛い」とまたもや余裕たっぷりに言う月島。

これ以上彼女のペースに惑わされるわけにはいかない。


私は意を決し、前置きなしにいきなり本題を切り出そうと口を開いた。


「単刀直入に聞きます。太郎とはどのような関係ですか?」


この質問に、月島は少し驚いた表情を浮かべたが、またすぐに余裕たっぷりな様子で腕組みをした。


「どのような関係ってどういうこと?どうしてあなたがそんなこと気にするのかしら~」


「それは・・その・・」


言い淀んだのは、太郎との約束があるからだ。けれど、ここで強気に出なければ、この女に弄ばれるだけだと思い、太郎にゴメンと心の中で謝罪しながら、続けた。


「私、太郎と付き合ってるから」


私の言葉が、スタンドの歓声と共に、小さく響く。


月島は特に表情を変えることなく「そうなんだ」と相槌を打つと、私にゆっくりと近づいて、優しく微笑みかけた。


「だいじょーぶよ。私と太郎君は、高一の時に同じクラスだったただの同級生で、あなたが心配するような関係じゃないわ」


そう言って私の肩を軽く突くと、月島は「そっかー。まさか日野ちゃんと太郎君がね~」と手を後ろに組みながらご機嫌そうにその場を歩き出した。


「おい。こんなところで何やってるんだよ」


その時、たまたま太郎が通りかかって、私と月島に声を掛けた。

彼は思わぬ事態に動揺しているように目をキョロキョロさせていたが、その動揺を必死に隠そうとしているように自然な様子を振舞っていた。


「ゴメンゴメン。用事は済んだ?」


太郎の姿を確認するなり、月島はすぐに先ほどとは違う種類の笑顔を作り、彼に駆け寄っていった。


「どうした、朱里。もうすぐ火野の試合、始まっちゃうぞ」


「う、うん!」


太郎に声を掛けられ、慌てて彼の隣まで歩み寄る私。


太郎の両サイドに、私と月島。


反対サイドの彼女の振る舞いや表情を見ていると、私は自分が今まで培ってきた人の表情や仕草を観察する能力を呪いたくなってきた。


暗璃。やっぱり私は朱里のままで居たかったよ。


鈍感で引きこもりの朱里のままだったなら、月島小百合が太郎のことを想っていて、太郎もまた彼女のことを大切に想っているなんて、表情や振る舞いから気づいてしまうことなんて、無かったというのに。


月島小百合は、凄くオトナで、嘘も上手い。


だけど、やはり好きな人の前では、ただの恋する女の子と化してしまう。


本人は、私がそれに気づいていることに気づいていないだろう。

しかし私は、目の前に太郎がいるのに、そのことに気づいてしまっている。


はあ。本当に嫌な女だな、私は。


変わろうとすればするほど、今まで気づかなかった部分に、どんどん気づいていってしまう。


ならいっそ、あのまま変わらない方が良かったのかな。


一瞬そのような考えが頭をよぎったが、すぐにかき消す。

一度スタートを切ったからには、ゴールテープまでずっと走り続けるしかないんだ。


途中で立ち止まったり、棄権したりすることは許されない。


これは、私が始めたレースなのだから。


「どうした?朱里。ボーっとして」


「あ、うん。大丈夫。何でもないよ!」


ああ。やっぱり変わるって、しんどいな。

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