第44話 地区総体 その5
スタンドに戻ると、天王寺が爆睡していた。
後ろの席におっかかる形で、豪快に。
どうしてこいつはこんなところで爆睡をかますことが出来るんだ。ここを映画館やコンサートホールなんかと勘違いしているのではないか。
すぐさま起こそうと頭を軽くはたくと、眠ったままの反射神経でかなりの力で腕を殴ってきた。
「寝かせてやれよ太郎。ポテチいっぱい食べて、疲れたんだよきっと」と錦戸。
なんだその理由は。そんなことで人間疲れてたまるもんか。
けれど再び起こそうとすると今度は殴られるどころじゃ済まないかもしれないので、他人のふりをして放っておくことにする。
錦戸の隣に座り、トラックの状況を見ると、現在は男子の400mハードルの予選が行われていた。
スピード感あふれるレースに見入っていると、俺のもう一つ空いている隣の席を巡って月島と日野が何やら言い争いを繰り広げていた。
「さっきも後ろだったんだからいいじゃないですか。私はなるべく近くで円佳の応援がしたいんです」
「あらあらそこに座りたい理由はそれだけ?さっきは流れでそうなっただけで、いくら空いているとはいえ私だけまた後ろの席なんて、疎外感があって寂しいんだけどな~」
「元々私たちと一緒に来たわけじゃないじゃないですか。一人だけ違う理系のクラスだし」
「そんなこと言われたらお姉さん泣いちゃうよ~。分かったわ。私が後ろに座ればいいんでしょ」
一体何を揉めているんだこの二人は。
このスタジオまで来る際も、何やら日野の様子がおかしかったし、二人で何を話したというのだ。
まあ月島のことだから上手くやってくれているとは思うが、やはり何だかソワソワしてしまう。
「ここいいよ月島。俺、視力には自信あるから全然後ろでも大丈夫だし」
このままだと少し後味が悪いので、自らそう提案して立ち上がると、月島は軽くため息をついて席替えに応じた。
「そーゆーことじゃないんだけどな~」
交換のためにすれ違う際に、月島からそう耳打ちされたが、意味がちょっと分からなかったのでスルーした。
「そろそろじゃねえか?」
微妙な沈黙が少し続いた後、ちょうど錦戸が呟いたタイミングで、男子の予選のレースが終わり、女子のレースに移るアナウンスがされる。
「いよいよだね」
日野が緊張した面持ちで、こちらを振り返ってきたので、強く頷く。
言いたいことも言えたので、俺の中では特に心残りはない。
あとはこの先火野にフラれようが何だろうが、とりあえず今はこのレースを目の奥まで焼き付けてやる。
火野の恋人としてではなく、彼女の努力を見続けてきた者として、その頑張りの成果を最後まで見届けてやる。
そう思ったら、何だか俺まで緊張して来て、胸の鼓動が高鳴ってきた。
プログラムで見ると、火野は予選1組目で月島が4組目である。
人数が少ないため、全5組の予選の1位通過者と、2位以降でタイムが良かった2人の計7人が決勝に進むことが出来る。
とはいっても、火野の実力ならば地区大会の予選ぐらい突破するのは朝飯前なので、何も心配することは無い。
問題は、予選で彼女のタイムを上回る選手がどれだけいるか。
ちなみに去年の秋の新人戦では、地区ではあるが火野はぶっちぎりのトップだった。
けれど今年は先ほどまで会話をしていた月島有紀が居る。
その黄金ルーキーの記録次第で、決勝の展望が見えてくるので予選とはいえ見ている側も気の抜けない注目のレースが続く。
「なんか俺まで緊張してきたわ」
「それ、凄い分かる。そういや錦戸。大曾根の結果はどうだった?」
「ああ。めっちゃエロかった。正直ノーマークだったけど、意外と肉付きいいのなアイツ。今度ごはんでも誘っちゃおうかしら」
「そうじゃなくて、レースの方」
「え?あ、そっちは全く気にしてなかったわ」
「地区3位で県大会出場決定だよ。錦戸君、ちょっとやらしいなー」
「あら、男の子なんてみんなそんなものでしょ?大曾根さんだってもしかしたら誰かに見られるのを意識してるかもしれないわよ?」
「そんな風に意識するのは多分月島さんだけです」
「そうなのかな~?」
そんなこんなで緊張感を紛らすための会話をしているうちに、女子400mハードル開始のアナウンスがされ、火野がスタジアムに入場してきた。
すばやくスタート地点に向かった彼女は、落ち着いた様子でスターティングブロックの調整を行った。
そして全員の準備が整ったところで、選手の名前がコールされ、彼女の名前が呼ばれたところで俺たちは全力で声援を送った。
「ファイト円佳~!」
反対側のスタンドから聞こえる陸上部の声援と、ここにいる俺たち四人の声援がミックスされる。
火野は向こうのスタンドとこちらのスタンドに向けて軽くお辞儀をし、ぴょんぴょんと跳ねながら身体と心の緊張をほぐす。
「オンユアマーク」
スタートを表すアナウンスがされ、選手たちはブロックに足を載せ、スタートの体勢を取る。
その間、スタジアムはしーんと静まり返って、今から始まろうとするレースに集中する。
俺もごくりと固唾を呑んでスタートの瞬間を見守る。
バン!!!
スタジアム中に火薬の音が響き渡った瞬間、遂にレースが始まった。
フライングはない。
序盤からハードルを飛び越えながらグイグイとスピードを上げていく火野。
洗練された綺麗なフォームでスタート地点が前だった選手たちを次々と追い抜いていき、200mを過ぎた頃にはトップのポジションを確保していた。
その間俺は、周りなど構わずにひたすらに火野へ声援を送っていた。
この声が、想いが、彼女に届くかは分からない。だけど、声援を送らずにはいられない。後半もペースを落とさずにどんどん後続を突き放しながら走って飛ぶを繰り返す火野。
コーナーを曲がり、ラスト直線100m。
400mにおいて、ここが一番精神的にも肉体的にもキツイところだと彼女は言っていた。しかし火野は疲労など微塵も感じさせない快活な走りでトップを独走し、そのまま力を抜くことなくゴールテープを切った。
ダントツの一位にスタンドも大いに沸く。
タイムは、去年の自己ベストの1分5秒を大きく更新する1分3秒40。
火野の長い冬の努力が、まずは報われた瞬間だった。
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