第45話 因縁(火野)

どうしてだろう。念願の自己ベストが出せたというのに、こんなに息苦しいのは。


「一着は火野円佳さん。タイムは1分5秒40」


アナウンスの声が、脳まで届いてくる。


スタンドにいる陸上部のみんなで構成されたオレンジの塊を、ぼんやりと眺める。

彼らの祝福の声が、ここまで聞こえてきそうだった。


なのにどうして、私はこんなに・・・。


「お疲れさま。円佳ちゃん」


スタジアムの端の方で、膝に手を当てて立ち尽くしていると同じレースを走った他校の同学年の選手が話しかけてきた。名前は、水鳥という。


「やっぱり速いね円佳ちゃんは。私は県への標準記録を突破するので精一杯だけど、今日の火野ちゃんなら県チャンピオンも夢じゃないね」


高校は違えど、3年間同じ400mハードルという種目で切磋琢磨してきた戦友とはそれなりの絆を感じている。


今私に話しかけている水鳥は、決して優秀な選手というわけではないがただひたすら真っすぐに全力で陸上競技に向き合っている。


一番になれずとも、己の実力にあった目標を設定して、そこへ向けて精一杯に努力する。そして私のような他の選手にも、こうして無条件に称えることが出来る。


そんな彼女が、今の私には眩しくて仕方がない。


「ありがと。水鳥ちゃんも、標準突破おめでとう。また県でも一緒に走れるといいな」


県大会への標準記録を突破していれば、例え地区予選の結果が芳しくなくても、県大会への出場権は得ることが出来るのが原則だ。


彼女の場合、去年の時点ではまだ超えてはいなかったので今回のレース次第であったが、無事突破出来たようだ。


彼女は心底嬉しそうに笑いながら「うん。そうだね」と言った。


水鳥はそのままスタンドに居る高校の仲間たちの元へ去っていったが、私は何となく、選手退場口付近のところで他の組のレースをぼんやりと一人で眺めていた。


本当に、何なんだろうこの気持ちは。


今まで私は、自分に対してずっと負い目を感じていた。

自分が本来居るべき勝負の舞台から、才能のせいにして逃げ出し、ただただ中途半端に陸上を行う日々。


成駿で過ごす時間は、私にとっては偽りであり、あるべき姿ではない。


そしてその負い目から目を逸らすために、私はこの成駿での2年間を充実したものと自分に思い込ませ、一般の女子高生が青春と呼ぶようなものに憧れるふりをした。

太郎と付き合ったのだって、それの一環にしか過ぎない。


だけど、そんな青春を送るなんて、そもそもの話私には無理だったんだ。


親元を離れて全力で抗っても、私は陸上一家の娘であり、どんなに結果が伴わずとも陸上を、努力を、やめることは出来ない。


水鳥や星花のように、純粋に陸上を楽しめることが出来たらどれほどまでに幸せだったのだろう。


あの家庭で育った私では、目の前の自己ベストを更新したくらいじゃ満足することができない。


つまり、私は陸上競技を続けていても、多分一生心が満たされることはない。


努力だけではどうしようもならない領域に、憧れを抱いてしまったから。

ならいっそ、辞めてしまいたいとも思ったが、結局私が今こうしてスタジアムに立っているこの事実こそが、それは不可能であると告げている。


じゃあ私は、何のために陸上競技を・・・。


何だかそんなことを考える自分が情けなくなってきて、涙がこぼれてきそうになる。


ごめんね、太郎。トイレであなたが私に言ってくれたこと、本当に嬉しかった。

だけど私自身、あなたが褒めてくれたその努力に満足がいってないんだ。


こんなに優しくて素晴らしい彼氏がいるのに、どこまでも自己中心的で自分勝手な考えを持ってしまう中途半端なクソ女が私。


「月島有紀さん。一着でフィニッシュです。注目のタイムは・・・・おっと出ました1分2秒35。大会記録に迫る勢いの好タイムです」


ああ、やっぱり凄いな有紀は。


彼女のことだって、本当は称えてあげたい。確かに才能の部分もあるけれど、昔から有紀を知るからこそ、その影で彼女がこちらの想像を絶するような努力をしていることも分かっている。


3年前だって、「おめでとう」の一言を、何度も言おうとした。


けれど私には、それが出来なかった。

私が小さい頃から血眼になるほど憧れた世界へ、有紀は行ける。


その事実に、ただ嫉妬していただけなのだ。


本当に、私は嫌な女だ。


太郎君も、女の見る目がないなとつくづく思う。

だから、彼が何を言おうと、私から別れを告げるのだ。

そうするのが、彼のためにも・・・。


「あの、円佳さん」


ほら、素晴らしい記録を叩きだし、レースを終えたかつての後輩に「お疲れ様」も「おめでとう」も言えずにただただ睨むことしか出来ない女なんだから。ホントに、嫌な女。


「有紀さ。ハードル始めてどれくらい?」


「本格的に練習し始めたのは高校入学してからなので、まだ2週間くらい・・・ですかね」


言いにくそうにしながら告げる彼女に、私は思わずため息を漏らした。


私の三年を、たった二週間で越えられてしまった。


成駿の環境ではあったけれど、努力に手を抜いたつもりはない。

なのに、現実はあまりにも残酷だ。


真剣にやればやるほど、段々自分が真剣になる理由が分からなくなってくる。最悪の気分だ。


「で、何か用?」


私は嫌な女だから、「おめでとう」とか、「凄いね」とかは絶対に言わない。


すると彼女は気まずそうに体を小さく揺らした後、やがて意を決したように口を開いた。


「あの、その!嫌味だって思われることは重々承知してます。だけど私、円佳さんにどうしても伝えたいことがあって」


伝えたいこと?あなたは陸上に向いてないですね、とでも言うつもりだろうか。

それとも、円佳さんには失望しました、とでも?


けれど、彼女の口から放たれた内容は私の想像からは大きく外れる驚くべきものだった。


「さっきのレース、感動しました。私、やっぱり円佳さんの走る姿、大好きです。だからこそ、決勝では絶対に負けませんから!」


言い終えると、有紀は逃げるようにそそくさと私の前から居なくなった。



有紀の言葉が、ずっと脳内に反響して、呆然と立ち尽くす私。


「私、やっぱり円佳さんの走る姿、大好きです」


この言葉、前にも誰かに言われたような・・・。


ああ、そうだ。太郎だ。


あれは1年の夏。まだ私が、あのレースを引きずって、逃げた先の成駿の高校生活にすら満足に馴染めていなかった頃——。


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