第50話 火野円佳 その2
「や」
「よ」
しばらく見つめ合った後、まるで廊下で偶然すれ違った時のような軽い挨拶を交わす俺と火野。
火野の様子は、とても疲れているようにも見えるが何かすっきりしているようにも感じられた。
「まさか、来てくれるとは思わなかったよ」
「また女子トイレにでも隠れていたらどうしようかと思ったけどな」
「あれ?もしかしてそっちの方が良かった?」
彼女は木にもたれかかったまま、小さく笑った。
んなわけあるか。
こちとら、後輩の女子に変態扱いされたんだぞ。
女子トイレに入ることに対して喜びを感じる時期は、もう過ぎてるんだよ。
てか、そんな時期あったんかい。
「とりま、レースお疲れ」
彼女からは切り出しにくいだろうとこちらから話を振ると、火野はあからさまに表情を変えて「ありがと」と呟いた。
「負けちゃったけどね~」
俺に気を遣わせまいとしているのか、道化のような作り笑いで、明るく言う。
そう、彼女は月島有紀とのレースに負けた。
タイムの差は、僅かに0.07秒。
月島有紀の予選のタイムよりも1秒遅かったが、彼女にとっては立て続けの自己ベスト更新。
十分な結果は出たと言っていいだろう。けれど彼女は、きっと満足はしていない。その隠しきれていない悔しそうな顔を見れば、分かる。
「良いレースだったよ。感動した」
「そっか、ありがと」
そう、本当に良いレースだった。一つ一つハードルを跳びこえていく彼女の走りが、今でも鮮明に脳に焼き付いている。
彼女の今日の決勝のレースは、きっと一生忘れることはないだろう。そう思えるくらい、カッコよかった。
「私さ、太郎に謝らなきゃいけないことがある」
自らの指を絡めて少し言いにくそうにしながら、火野は続けた。
「謝られるようなこと、された覚えはないけど?」
「うん。太郎ならそう言ってくれるよね。分かってた。でもね、もう太郎の優しさに甘えるのはやめるって決めたんだ。だから、はっきり言わせて」
そこまで言うと、火野は木から背を離し、こちらに向かって深く頭を下げた。
「本当に、今までごめんなさい。私は今まで、太郎を自分にとって都合の良い存在だと解釈してた。昨日も話したけど、始まりからそう。理想や夢から逃げるための理由として、優しい太郎をずっと利用してた。自分が楽でいるために、あなたを、傍に置いて・・・」
ボロボロと、彼女の涙がオレンジ色の地面を濡らす。そして、ゆっくりと地面に溶け込んでいく。やがてその涙が、その大きな木の養分となって、さらにその木を大きく立派なものに成長させる。
そうやって誰かの悲しみや涙が、また違う誰かの成長を促す。
多くの犠牲を伴ってきたからこそ、そこに佇む樹木は立派なのだ。
「最低でしょ、私。太郎以外の男だったら、きっと私を殴ってる。『振って』って頼んだ時も、怒鳴られるのを覚悟してた。『勝手なこと言うな』って。だけど太郎はそれをしないことを分かってた。怒鳴ったり、殴ったり、見捨てたりしないって、分かってて私、あんなことを言った。大事なレース前なのに、私を突き放すような真似を太郎がするはずないのにね。完全に、甘えてた。自分だけのことしか考えずに、太郎のことなんて、まるで見ちゃいなかった」
そんなことない、とは言えなかった。
俺と火野の関係は、いつだって火野が何かするのを俺が見守る形がほとんどだった。
唯一の例外が、ハンバーガーだ。その時だけは、俺が食べるのを火野が見守る。だがそれはあくまで例外。俺はいつだって、彼女の背中を見守ることしか出来ていなかった。
火野は体を震わせながら、再び口を開いた。
「だから、ここに太郎が来るまで何度も思った。彼が別れないと言ってくれた以上、私から別れを告げるべきなんだって。一度失った信頼は、なかなか修復するのは難しい。私はそれを逃げ出す際に、嫌というほど痛感したから。だから今回も、同じようにと・・・」
そこで彼女は勢いよく顔を上げて、カッと目を見開いて俺を直視した。その目には、もう涙は浮かんでいない。いつもの、いいや、いつもよりも力強く、その瞳は輝いていた。
「なんて、言ってやるか馬鹿野郎!!!!」
彼女は突然そう叫び、俺にゆっくりと近づいてくる。
「自分が最低なのは分かってるよ。このまま別れた方が、きっと太郎は幸せになるっていうのも分かってる。こんな自分のことしか見えてないワガママ女となんか、付き合うだけ損だって。だけどね。そんな女と分かってて振らないって言ったのは太郎だからね。だったら私からは、絶対に別れを告げるもんか。だって私、自分の限界をいとも簡単に越えられちゃうほどに太郎のこと大好きだから。ずっと一緒に居て欲しい、ずっと私を見て欲しいから。そしてそのためにこれからは、失った信頼を取り戻すために逃げずに精一杯頑張る。嫌なところがあったら言って。全部直すから。だから・・・」
ここで火野は俺の正面に立ち、恥ずかしそうに微笑んで、言った。
「これからもずっと、私の走る理由でいてね」
その微笑みは、どこまでも火野らしく、明るくて力強い、
ああ、もちろん。
とは言えずに、笑顔で頷くことしか出来なかった。
彼女がストレートに俺への想いをぶつけるたびに、皮肉にも俺の心は罪悪感でチクリとする。
これまでは見て見ぬふりをしようとしていた七股という現実が、今さら刃物として突き刺さる。
その真っ直ぐさが、一生懸命さが、素直さが、遠回しに罵倒されているような気分になってしまう。
こんな気持ちは、初めてだ。
最低なのは、俺だよ。
新たに決意を誓った火野の手を、俺は結局握ってやることすらも、出来なかった。
俺がハンバーガーを食べているのは、彼女のためではなくて、あくまで自分のためだったのかもしれないと、震える自分の手を見て、そう感じた。
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