第48話 決戦のレース (火野)

「円佳。もうそろそろ行かないと」


成駿高校の陣地のブルーシートの上で眠るように横になっていたら、上から星花の声がした。


仰向けになって目を開けたら、彼女は呆れたように微笑みながら「円佳、リラックスしすぎ。休日のうちのお父さんかと思った」と私のシューズケースを落下させる。


ちょうど腹付近に落ちてきたそれを私はキャッチして、「よっこらしょういち」と上体を起こす。


「ふふ。やっぱりうちのお父さんとそっくり。円佳ってさ、JKの皮を被ったおじさんだよね」


「かも知れんのう。若いもんの流行にはついていけんわい」


「いや、それはもはやおじいちゃん」


そんな下らないやり取りをしているうちに、寝ぼけていた頭が段々と冴えて来た。


サブグラウンドで軽くアップをするために、シューズケースを釣り人の竿のように肩に担いで陣地を出ようとすると、そこにいた多くの仲間たちから「頑張って下さい」と声援を送られた。


「おう、任せときな。ひょいと現れたゴールデンルーキーに目にものみせてやるわ」


私がそう言って力こぶを作るポージングをすると、部の仲間たちは大いに盛り上がり、「やっちまってください親分」「新参者なんてぶっ潰しましょう」などとどこかの不良漫画でしか聞かないような治安の悪いセリフが飛び交った。


私はその後軽くグラウンドで走り、休ませていた体を再び臨戦態勢に戻すと、本日二度目の待機所へ行った。


受付時間ギリギリだったので、決勝に出場する八人のうち、私以外の七人はもう用意された折り畳み式のベンチに並んで座っていた。


顔見知りの選手が、私を見て手を振りながら笑いかける。

私も同様に笑顔でそれに応じると、一番端に座って目を閉じて俯いている有紀を見た。


私の視線に気配で気づいたのか、有紀は目を開けこちらを見ると特に表情を変えることなくすぐに視線を逸らした。


それでいい。

こんなところで「頑張りましょうね」てほざいてきたら舌打ちをするところだった。


私は他の選手が空けてくれたスペースに座り、目を閉じて神経を研ぎ澄ます。


予選のレースからは、一時間が経過している。


体力も回復し、状態も自己ベストが出たので申し分ない。

それに、この一時間で私は大切なことに気づいてしまった。


自分でも恐ろしいほどに、清々しい気持ち。

こんな気分になったのは、まだ小さい頃に陸上の大会で優勝した時以来かもしれない。


「それでは、お願いします」


スタッフの人の合図で、私たちはスタジアムに入場する。


「次のプログラムは、女子400mハードルの決勝です」


アナウンスと共に、私は自分のレーンへと向かい、スターティングブロックを自分の足に合わせる。


スタンドから、部のみんなの声援が聴こえる。

会場のざわつきも聴こえる。


ざわつきに至っては、恐らく有紀のものだろうが。

恐らくスタンドにいる多くの観客の視線は、私ではなく有紀に集中している。

衝撃のデビューを果たした彼女が、次はどのような走りを見せてくれるのか。

誰もがワクワクしながら、突如現れた怪物に注目している。

私がこの種目の優勝候補であったことなんて、きっと誰もがもう忘れている。


ブロックを設置した私は、スタート地点から距離が近いメインスタンドの方を眺める。


あ、天王寺さん爆睡してる。デカいからかなり目立つんよ。だけど、そのおかげで簡単に見つけることが出来た。


嬉しい。朱里も応援しに来てくれてたんだ。あとは星花の想い人であり彼の親友でもある錦戸君。それに、小百合も。どうしてこっちに視線を送ってるのよ。あんたは妹の方を応援しなさいよ。


そして、彼女らの一つ上の席で暖かい眼差しを向けてくれている、彼。


あの一年秋の新人戦のレースから、太郎はいつだって私の事を誰よりも近くで応援してくれて、私のことを見守ってきてくれた。


バカじゃないの私。自分の太郎への気持ちがただの逃げ道を作るための嘘だったなんて。そんなはずないじゃない。


バカじゃないの私。陸上を続けていても心が満たされることはない。ならば一体何のために陸上をしているのかなんて。そんなこと、二年前にとっくに答えは出ていたはずでしょ。


バカじゃないの私。この3年間は逃げた先での空虚な日々で、ここは本来私の居るべき場所じゃなかったなんて。成駿で過ごした日々は、私にとってそんな軽いものじゃなかったはずでしょ。


「オンユアマーク」


スタートの合図がされ、私はブロックに足を合わせ、姿勢を作る。


ホント、バッカじゃないの私。


中学生から、何も変わって無いじゃない。

家族がどうした。幼い頃の夢や理想がどうした。才能が、足りなかったのがどうした。


バン!!!


ピストルの音が、鼓膜を揺らす。


その瞬間、私は勢いよくブロックを蹴り上げて、一気にトラックを駆けだした。



私は成駿高校陸上部部長、火野円佳だ。



そんなものに囚われる過去の自分とは、もうおさらばしたはずだろ。


歩幅のリズムを作り、ハードルを跳ぶ。

タンタンタターン。


私は確かに自分の夢や理想から逃げ出し、この高校へ入った。

だけど、その逃げて来た先で、私は全国大会に出場するよりももっと大切な、かけがえのないものと出会ってきたはずだ。


県大会で満足するような低い理想だけれど、毎日懸命に汗を流して努力し、心の底から自分以外の仲間を応援することが出来る気のいい仲間。


タンタンタターン。


平凡でありきたりな毎日を、全力で楽しみ、悩み、満喫している同級生。

そんな彼らの背中に全力で追い風を送る成駿の自由で生徒想いな校風。


タンタンタターン。


そして、道を見失いかけていた私に、新しいゴールを照らしてくれた彼。


太郎が、私の走りを見て「好き」だと言ってくれる。


私が大好きな「陸上」をしている姿を、大好きな「彼」が応援してくれる。


何も太郎に限ったことじゃない。

部活のみんな、クラスメイト、かつての親友、そして、雲の上のライバル。


世間のほとんどが見てくれていなくとも、ちゃんと私を見てくれている人がいる。

私が走ることで、彼らに勇気や感動を与えられる。




私の走る理由なんて、たったそれだけでいい。


結果なんてでなくても、彼が隣にいてくれるだけで私の心はもう満たされてしまうのだから。





最後のカーブのハードルも無事に飛び越え、ラストスパートの直線に入る。


周りなんて、見えちゃいない。

息が上がり、先にあるハードルしか視界にない。


前半飛ばし過ぎたか、身体がさっきと比べると鉛玉のように重い。


だけどここまでかなりいいペースで来ているのを感覚で感じる。だからこそ、ここで力を抜くわけにはいかない。


視界は歪むのに、それと反比例するように周りの声援が鮮明に聴こえてくる。


けれど、内容までは読み取れない。


有紀が先ほどを上回るペースで独走しているか、あるいは意外と競ったレースをしているのか、予想外の展開が起こっているのか。


とにかく今は走れ、走れ、跳べ。


身体の感覚が告げている。今目の前に見えるハードルが最後の障害であると。


私は最後の力を振り絞り、リズムを乱しながらもそれを越えようとする。


越えた。


が、着地する際に、軽く後方の足がハードルにぶつかり、一気に体のバランスが崩れる。


ダメだ。このままじゃ転倒する!


諦めかけた瞬間、不思議なことに周りの歓声やどよめきが一切聞こえなくなって、その代わりにある声だけが、魔法のように耳に飛び込んできた。


「頑張れ!!!火野!!!!!」


私は着地した足に力を込め、ギリギリのところでバランスを取り転倒を防いだ。


そして次に視界に飛び込んできたのは、ハードルではなくて、白のゴールテープ。


ということは、まだ有紀はゴールしていない。


私はその白いテープに飛び込むように本当のラストスパートを切った。


ここまで来たら、何が何でも勝ちたい。


勝って、成駿で過ごした三年間を、より誇れるものにしたい。


そして、証明したい。


誰が何と言おうと、このオレンジジャージに染みた汗と、太郎への「好き」の想いは本物であることを。




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