第8回ー3

 高橋はしばし思案した。

「……上流に川幅が狭い場所がある。そこから対岸へ渡って、直接、女の子を救いに行こう」

 クリフォードがかぶりを振る。

「一刻の猶予もありません。遠回りしているあいだに流されるか、クロカイマンに食われるか──。いずれにせよ、間に合いません。見殺しも同然です」

 高橋は奥歯を嚙み締めた。

 クリフォードの言うとおりだ。遠回りして対岸に渡って戻ってきたときには、もう女の子の姿はないだろう。そうなってから後悔しても遅い。

 しかし──。

 アマゾンの住人としては、現状の危険性が嫌というほど分かる。川を泳いで渡るにはリスクが高すぎる。カヌーがあったとしても、クロカイマンの巨大さを考えると、体当たりで引っくり返されかねない。

「あっ!」

 突如、三浦が声を上げた。

 高橋は三浦に目をやり、彼の視線の先を見た。女の子の体が川の流れに押しやられ、揺れ動いていた。

 そして──。

 女の子は草むらから引き剝がされ、川に流れた。死んだ魚のように一瞬だけ浮かび上がり、そのまま水中に没する。

畜生シツト!」

 クリフォードがちゆうちよせずに川へ飛び込んだ。

「おい!」高橋は叫び声を発した。「よせ!」

 クリフォードは、黄土色に濁り切った川面に水しぶきを跳ね上げながらクロールしていく。

 草むらから顔を突き出していたクロカイマンがズルズルと滑るように動き、川へどぼんと落ちた。川面から鈍色の鱗を覗かせ、また水中に潜む。

 まずい──。

 高橋は一歩踏み出し、そこで二の足を踏んだ。

 どうする? このままではクロカイマンの餌食に──。

「馬鹿野郎!」

 高橋は毒づき、川に飛び入った。一瞬だけ全身が水没した。上半身を出し、両腕で川面を激しく叩く。

「こっちだ! おい! こっちだぞ!」

 クロカイマンの注意を引く。

 だが、映る影はクリフォードのほうを向いている。

「クソッタレめ!」

 高橋は勇気を奮い起こし、川の半ばまで泳いだ。水中に──間近に二匹目が潜んでいたら一巻の終わりだ。

「こっちに来てみろ!」

 高橋は溺れた鳥が羽ばたくように両腕で川面を叩き、クロカイマンの注意を引いた。

 クリフォードを狙っていた巨大な影が向きを変えた。スーッと波紋もなく動きはじめる。

 もし食いつかれたら──。

 獲物の肉を食い千切るための、身体ごと回転する必殺の〝デスロール〟で水中に引きずり込まれ、人間など無力な餌となる。数百キロのトラバサミにねじ切られるようなものだ。凶悪な牙が肉を引き千切り、骨を砕く。

 クロカイマンが肉薄する。

 高橋は数メートルの距離まで引きつけてから身を翻し、岸へ向かって泳いだ。

「早く!」三浦の切迫した声が断続的に耳を打つ。「──っちです! いそ──で!」

 水の中のクロカイマンが恐るべき速度で獲物に迫ることは、よく知っている。川に入ったインディオが襲われた話も知っている。食い散らかされた遺体の一部を発見したこともある。

 振り返って確認している余裕はなかった。

 ひたすら泳ぐ。

 岸辺を目指して泳ぐ。

「危ない! こっちです!」

 川辺から三浦が手を伸ばしていた。焦燥の顔でクロカイマンが相当迫っていることが分かった。

 畜生め──。

 愚かなことをした。無鉄砲だった。

 後悔が胸を搔きむしる。

 草むらが緑の壁と化してり出す岸辺に着いた。差し伸べられる三浦の手をがっしりつかむ。

 必死で岸へ上がろうとする。

 だが──。

 足をかけた土が崩れ、再び川へ落ちた。

 三浦が「あっ!」と声を上げる。

 再び手が差し伸べられた。摑もうと腕を伸ばした瞬間──。

 耳をろうする銃声がさくれつした。三発、四発──。

 一瞬、時が止まった。

 顔を上げると、ガリンペイロのロドリゲスがリボルバーを川面に向けていた。銃口から硝煙が立ち昇っている。

 はっと我を取り戻し、振り返った。クロカイマンが引っくり返って腹を見せて浮かんでいる。

 距離は一メートルも離れていない。もし銃撃がなければ──ロドリゲスが仕留めなかったら、岸に登る前に食い殺されていただろう。間一髪だ。

 向き直ると、ロドリゲスがリボルバーをでながら言った。

「最後に物を言うのは、こいつさ」

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