第3回ー1


 4


 アマゾンの奥地を切り開いた場所に、高床式の小屋が点在していた。壁板や床板はマチエーテ一本で切り倒せるパシウバヤシで作られ、三角屋根は扇形の葉でかれている。裏手にはユカ芋やバナナが植えられ、アヒルや鶏が歩き回っていた。

 集落には、赤銅色の肌のブラジル人たちがいた。猟銃を肩にかけ、ツカ・デ・セリンを腰に下げ、労働靴を履いている。

おはようボン・ジーア

 たかはしゆうろうはポルトガル語で仲間に挨拶してから、三段の踏み板を上って小屋に入った。年老いた母が朝食を作っていた。土のにおいが強いマンジョーカ芋をタライで水洗いしている。

 ゆうは木製ベッドで眠っていた。

「ほら」高橋は毛布を剝ぎ取り、日本語で言った。「起きろ」

 勇太が寝転がったまま小さな体をひねった。

「眠いよ、お父さん」

「お前ももう十歳なんだ。仕事を覚えなきゃいかん。寝坊してちゃ一人前のゴムセリンになれんぞ」

「でも──」

「ママイは起きてるんだぞ」

 勇太は幼い顔を向けて寝ぼけ眼をこすった。寝汗でべとついた前髪が額に垂れている。

「ママイが?」

 勇太は母代わりの祖母を『ママイ』とポルトガル語で呼んでいる。日本語で『お母さん』と呼ぶのは不自然だし、だからといって『おばあちゃん』と呼ぶのはいや、という心理だろう。

「……うん、分かったよ。起きるよ」

 勇太が起きてしばらくすると、母がしわとシミだらけの手で皿を床板に並べた。皮をいて煮たマンジョーカ芋だ。

 料理は母の日課だった。『子や孫に手料理を作ってやれるのはね、嬉しいことなんだよ』と言っている。

 高橋はコーヒーに砂糖を入れた。母は無糖だ。日本で砂糖がない生活に慣れすぎ、今では甘いものが好きではないのだ。

 三人で朝食を摂ると、高橋は息子と小屋を出た。

「よし、行こう」

 二人で森に入った。三十メートルもの巨木が褐色の壁さながらに林立していた。無数の枝葉が交錯して天井を作っており、大地が影に塗り込められている。根元の十数倍の面積を持つ樹冠は、太陽の光だけでなく雨も遮る。雨粒が地上に届くまで数分かかることもある。

 木から木へ蔓の群れが絡み、もつれ合って垂れ下がっていた。葉群ややぶが幹を覆い隠しており、根元に朱色や紫色や青色の花が咲き誇っている。まだ残る夜霧が辺り一帯を這い回っていた。

 進むと、四方八方からヒタキやアリドリやフウキンチョウの鳴き声がしていた。まるで森そのものが鳴いているようだ。

「朝と夕方はサンクードが多いから気をつけろ」

 草葉が緑の幕のように生い茂っていた。濃密な樹林の香りが湿気同様にまとわりついてくる。

 長年森で暮らしていると、流れ落ちる汗も呼吸と同じで意識に上らない。汗の玉が浮かぶ肌や湿ったシャツを見たとき、思い出す程度だ。

 落ち葉を踏み締めるたび、葉の陰から蛇やトカゲやカブトムシが逃げていく。

 高橋は樹林の中にそびえる一本のゴムの木を見上げた。大人二人が裏側に隠れられそうなほど太い幹には、子どもの身長を刻んだ柱のように一文字の切り傷が並んでいた。

「いいな、勇太。今からゴムの採取法を教える」

 高橋はファッカ・デ・セリンガを抜いた。幹の切り傷の一番上に刃を添え、若干斜めに傷をつける。最後は丸く捻るようにした。

「こう切ることで樹液が流れやすくなるんだ」

 幹の切り傷から白い乳液ラテツクスが流れはじめた。その粘着性の液体には殺虫成分が含まれており、昆虫の口も塞ぐ。木が身を守るために進化したのだろう。インデイには『涙を流す木』と呼ばれている。

 木のそばに置いてあるカップを根元に設置すると、白い液体が水滴のようにしたたり、ポタッ、ポタッと底を打った。半日放置すれば一杯分は溜まる。

 高橋は勇太とエスツラーダ──ゴム採取で踏み固められた林道──を奥に進んだ。ゴムの木は一本一本が数十メートル離れている。二本目の木に着くと、勇太にファッカ・デ・セリンガを手渡した。

「さあ、やってみろ」

 勇太はうなずくと、両手で柄を握って刃を幹に添えた。ちゆうちよしてから真一文字にファッカ・デ・セリンガを滑らせる。樹皮がわずかに削れただけだ。

「力が弱すぎる。乳管は表面から一センチのところにあるんだ。もっと力を入れろ」

 勇太は幹に刃先を突き立てて横に滑らせた。勢い余って傷の最後が上方に跳ねた。ラテックスはうまく流れ落ちず、反対側からしたたりはじめた。しかも、樹皮がえぐれて木の肉がのぞいている。

「傷が深すぎる」高橋は樹液が流れる先にカップを設置した。「これじゃ、ゴムの木が弱ってしまう。次は失敗するな」

「……うん」

 エスツラーダをさらに進んだ。無数のが地面を行進していた。葉っぱの川が流れているように見える。葉切り蟻サウバの大群が切り取った葉を運んでいるのだ。

 高橋は三本目のゴムの木の前に立った。何百もの傷が上のほうまで刻まれている。

 勇太は喉を伸ばし、ゴムの木を見上げた。

「僕が切るところ、もう、ないよ?」

「これを使うんだ」

 高橋は、草むらを割るように横たわる丸太を抱え起こした。一定間隔で馬蹄形の切れ目が入っている。それをゴムの木に立て掛けた。原始的な十五メートルのはしだ。

 勇太は青ざめた顔でゴムの木を仰いだ。

「怖いよ、お父さん。落ちたら死んじゃうよ」

「お前の友達は七つや八つのころからゴムを採ってる」高橋は肺が詰まる感覚に二度、からぜきをした。「お前も早く仕事を覚えろ。ここで生きていくには必要なことだ」

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