第2回ー4

 心臓が凍りついた。

 全員が叫び声を上げた。

 ルビー色の瞳が人間を射竦め、大口が開いた。象牙色の矢じりのような牙が剝き出しになり、よだれが糸を引く。

「アマゾンジャガーだ!」ロドリゲスが叫び立てた。「逃げろ! 全員、操舵室を出ろ!」

 彼は怒声と同時に操舵室を飛び出していた。

 三浦は震える両脚を叱咤し、踵を返した。全員が操舵室を出た瞬間、ロドリゲスが木製ドアを叩き閉めた。猛烈な衝撃がドアを叩いたのはそれと同時だった。彼が弾き飛ばされそうになる。

「ドアを押さえろ!」

 デニスが怒鳴り、ドアに体当たりするように全身を預けた。操舵室内からの衝撃が二度、三度と続く。そのたび、二人が必死の形相で踏ん張った。

 漁船が対岸に接したことで、生息しているアマゾンジャガーが乗り込んできたのだ。

 ドアを押さえるのを手伝おうと思った瞬間──。

 木製ドア上部のガラス窓が砕け散り、二人の背にガラス片が降り注いだ。アマゾンジャガーが鼻面を突っ込んだ。残ったガラスの刃をものともせず、牙を見せつける。獰猛な咆哮が空気を打ち震わせる。

 もしあの凶悪な牙に嚙まれたら──。

 嚙まれたら腕は千切れ、頭は地面に叩きつけられたスイカのように砕け散るだろう。

「向こう岸へ!」

 クリフォードの叫び声が耳に入り、振り返った。彼は反対側の岸を指差している。

「荷物を持てるだけ持って、川を渡りましょう!」

 三浦は川面を見下ろした。苔色に濁ったアマゾン川は数センチ下も見えず、深さも分からない。どのような生物が泳いでいるかも──。

「早く!」

 クリフォードが切迫した大声を上げる。

 三浦は横を見た。ジュリアと目が合った。彼女の瞳には悲壮な覚悟が宿っている。

 うなずき合うと、三浦はアマゾン川に飛び込んだ。一瞬で沈んだ。反射的に閉じた目を開けると、水中は濁り切っていた。ときおり小さな黒い影が横切る。

 水面に顔を出すと、ジュリアが漁船から飛び降りたところだった。着水と同時に水柱が跳ね上がり、彼女が頭まで沈んだ。広がった波紋が川の流れに飲み込まれて消える。

「大丈夫か!」

 呼びかけるも、反応がない。

 突然、水音が耳に入った。二メートルほど下流だった。ジュリアが顔を出した。濡れた黒髪が顔にへばりついている。彼女は肌から髪を剝がすと、対岸を指差した。

「早く向こうへ!」

 三浦はうなずくと、泳ぎはじめた。流れは速くないものの、少しずつ下流へ流されてしまう。水を搔き、バタ足で対岸を目指した。密生した植物が折り重なり、川の上までせり出している。

 三浦は川面に接している触手めいたつたを摑み、ザイル代わりにして身を引き寄せた。対岸に着くと、蔦を束にして握り締め、体を持ち上げた。

 濡れそぼった衣服が重く、川の中に引きずり込まれそうになる。

 全身の力を振り絞り、かんぼくがあふれ返る対岸に上った。一息つくと、アマゾン川に向き直った。

 ジュリアが泳いできていた。遅れてクリフォードが泳いでくる。水に浮かせたボストンバッグを引っ張るようにしながら、片手で水を搔いている。

 三浦は左手で木の枝を握り締め、右手を川へ伸ばした。ジュリアがその手を取ると、引っ張り上げた。彼女が岸に脚をかけ、何とか上りきる。

 クリフォードは自力で岸に上がった。

 漁船に目を向けると、ロドリゲスとデニスがタイミングを合わせて操舵室から離れ、アマゾン川に飛び込んだ。同時に操舵室の木製ドアが弾けるように開き、アマゾンジャガーが飛び出してきた。漁船の縁で立ち止まり、川を睨みつける。

 泳いでいる──。

 アマゾンジャガーは川に飛び込むかどうか、逡巡するかのようにルビー色の瞳を向けている。

「急いで!」

 クリフォードが声を張り上げた。

 ロドリゲスとデニスが全力で泳ぎ、岸へ向かってくる。

 アマゾンジャガーが青空を仰ぎ、遠吠えを上げた。胴震いを引き起こすような吠え声だ。剝き出しの牙が涎で濡れ、凶悪な色みを帯びている。

 追っては──こない。

 ロドリゲスとデニスが岸に上がり、漁船を振り返った。アマゾンジャガーに占拠されてしまっている。

「クソッタレめ!」

 デニスが濡れ光るライフルを構えた。黒光りする長い銃身が漁船に向けられている。

「ちょっと──」

 三浦は制止しようとした。だが、彼が引き金を引くほうが早かった。真横で耳をつんざく発砲音が炸裂する。アマゾンジャガーの前脚に血しぶきが弾けた。

 アマゾンジャガーは頭を振り回すようにしてうなり声を上げた。樹冠で鳥やサルが騒ぎ立てる。

 硝煙のにおいが一帯に立ち込めた。

「ざまあ見やがれ!」

 デニスが勝ち誇り、銃口の位置を調整した。クリフォードが銃身を押さえる。

「余計なことを──」

 デニスがクリフォードを睨んだ。

「邪魔すんなよ」

「手負いの獣は危険です」

「だから仕留めるんだろうが。野放しにしておくほうが危険だろ。放せよ」

 デニスがライフルをひったくるようにし、クリフォードの手をもぎ放した。

 ライフルを構え直したときには、もうアマゾンジャガーの姿は漁船の縁から消えていた。

 デニスが顰めっ面で舌打ちした。

「邪魔するから仕留め損ねたじゃねえか」

 クリフォードが嘆息した。

「弾の無駄遣いです。弾も無限ではないでしょう? 追っ手の撃退に何発使いました?」

 デニスが顔を歪め、もう一度舌打ちした。

 ロドリゲスは、短いシャツの裾から覗く太鼓腹に貼りついた木の葉を剝がし、気持ち悪そうに放り捨てていた。

ひるは──いねえな」

 ロドリゲスはジュリアに視線を移し、濡れそぼったシャツが肌にへばりつく姿態を眺め回しながら下卑た笑み浮かべた。

「蛭が食いついてねえか、俺が調べてやろうか?」

 ジュリアは大きな胸を押し上げるようにして腕組みした。無言の拒絶だった。

 ロドリゲスは「へっ」と鼻を鳴らし、クリフォードに向き直った。「で、これからどうするんだ?」

「どう、とは?」

「船を失った。マナウスまで戻るのかどうか──だ」

 クリフォードは渋面でアマゾン川を見据えた。入り組んだ支流が枝分かれしながら遠方へ延びている。

「……船は通りかからないでしょうね」

「だろうな。こんなへきを通る船なんかねえ」

「だったら進むしかないでしょう」

「待ってください」三浦は口を挟んだ。「不測の事態で前進するのは危険すぎます。いったん引き返して態勢を立て直すべきでは?」

「戻ったら自ら首を差し出すようなもんだろうが」ロドリゲスはデニスをねめつけた。「こいつのせいでな。町は銃を持った私兵だらけだろうぜ」

 デニスは一睨みを返しただけで、すぐにそっぽを向いてしまった。

 クリフォードはボストンバッグから地図を取り出し、広げた。ところどころ濡れているものの、充分見ることができた。支流を指でなぞる。

「おそらく、我々はこの辺りにいるはずです」人差し指をマナウスまで動かした。「直線距離だと近く見えますが、森の中を歩くとしたら──」

「何日かかるか分からねえな」

「マナウスに戻れないとしたら、引き返しても拠点はありません。だったら進むしかないでしょう? 何より、会社から与えられている期間は有限です。無駄にしている時間はないんです」

「しかし──」三浦は食い下がった。「慌てて決断したら、取り返しのつかない事態を招くかもしれません。広大なアマゾンを当てもなく歩き回るつもりですか?」

 ロドリゲスが言い捨てた。

「ちんたらしてるほうがヤベえだろ。さっきの連中が仲間を引き連れて戻ってきたらどうすんだ? 拳銃一丁とライフルで勝ち目なんかねえぞ」

 あの二人組は絶滅危惧種を欲した金持ちの私兵ではないんです。

 そう反論できたら──。

 三浦は下唇を嚙み締めた。

「ねえ」ジュリアが進み出て、クリフォードが広げる地図に人差し指を突きつけた。「この辺りに行けば、森の人間たちが住む集落があるはず」

 クリフォードとロドリゲスが揃って彼女に目を向けた。

「森の人間とは?」

 クリフォードが訊く。

「ゴムを採取して生活してる人たち」

ゴム採取人セリンゲイロか」ロドリゲスがつぶやくように言った。

「ええ。そういう話を聞いたことがある」

「信用できんのか?」

 ジュリアは軽く肩をすくめ、茶化すように答えた。

「幻の百合の存在よりは信用できるんじゃない?」

 ロドリゲスは分厚い唇を緩めた。

「どう? 私も役に立つでしょう?」

 クリフォードは思案するようにうなり、しばし間を置いた。それからきっぱりと言った。

「決定ですね。セリンゲイロの集落を目指しましょう。そこを拠点にすれば、態勢を立て直せます」

 ロドリゲスが対岸に激突している漁船を指差した。

「ジャガーを追っ払ったことだし、爆発しちまう前に必要な荷物を回収しておこうぜ」

 三浦はアマゾンの大密林を見回した。樹冠の枝に絡みついた着生植物には花が咲き誇り、花綱──花を編んで作った綱──のようになって垂れ下がっている。さらに掌の形をした葉やぎざぎざの葉が折り重なり、緑の掛布となっている。

 密林の底では風をほとんど感じない。だから、草木や花や果実の甘ったるい濃密な香りが立ち込めている。味を感じそうなほど強い香りが──。

 見上げて目を凝らすと、クモザルやホエザルが高木の枝に尾でぶら下がっていた。樹上で生活するキヌバネドリが光沢のある珊瑚色の羽で羽ばたき、飛び去った。宙を這い回る蔓草の隙間を縫ってオオハシが飛んでいる。

 生命にあふれている一方、適応していない生物を拒絶し、踏み込んだ者を飲み込んでしまう過酷さを感じた。何百年も生きてきた樹木は天高くそびえ、青空を覆い隠している。葉が茂った枝々が何重にも折り重なっているせいで、木漏れ日すら降り注がない。アマゾンの大密林は暗緑に沈んでいた。

 そこは緑の地獄だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る