第2回ー3


 3


 おんぼろの漁船は、丸一日、こけ色に濁ったアマゾン川をゆっくりと進み続けていた。両側から緑の壁がせり出している。川を遡るにつれ、大密林の腹の中に飲み込まれていく気がした。

 人間たちも動物と同じように、この大自然にされてしまうのではないか──。

 三浦は手すりを握り、船上から景色を眺めていた。天高くそびえる樹冠からホエザルのけたたましい吠え声が聞こえた。赤茶色の影が上方の枝を移動している。

 巨大でカラフルなクチバシのオオハシが甲高い鳴き声を上げ、青空を背景に旋回していた。

 アマゾン──か。

 人間のちっぽけさを思い知らされる。

 三浦は振り返り、面々を見た。ロドリゲスとデニスは古びた木製テーブルの上でポーカーに興じていた。クリフォードは脚が欠けた肘掛椅子に座り、アマゾンのかん地図をチェックしている。ジュリアは床に接しそうなほど低く吊るされたハンモックに尻を下ろし、密林を眺め回していた。

 昼の太陽が真上に昇り詰めると、両側の樹林帯も陽光を遮ってくれず、直射日光が船体に降り注ぐ。動いていなくても、汗がとめどもなく流れ出てくる。

「よう!」ロドリゲスがジュリアに呼びかけた。「お前も交ざらねえか?」

 彼女は横目で二人を見ると、また密林に視線を戻した。

「何だよ、無視すんなよ」

「私はお金を持ってないから」

 ロドリゲスが下卑た薄笑いを漏らした。

「服でも賭けろよ」

 ジュリアはロドリゲスを一睨みした。

「男を丸裸にして喜ぶ趣味はないの」

「言うじゃねえか。早く交じれよ」

 クリフォードが地図から顔を上げ、嘆息交じりに言った。

「我々の目的は〝奇跡の百合〟です。目的を履き違えないでください」

 ロドリゲスは鼻を鳴らした。

「単なる暇潰しの余興じゃねえか。長旅には息抜きも必要だろ。がなきゃ、息が詰まっちまう」

「女子学生に絡むことが娯楽ですか?」

「……女の味方気取りかよ。あんただって同行には賛成してなかったろ」

「それとこれとは話が別です。同行する以上、余計なトラブルは失敗のもとです。最低限の規律は守ってください」

 うなるエンジン音が耳に入ったのは、そのときだった。

 三浦は後方を振り返った。蛇行するアマゾン川の向こうに、一艘のエンジン付きカヌーが確認できた。乗っているのは二人の男だ。豆粒のように見える男たちは──。

「おい!」ロドリゲスがカードを撒き散らしながら立ち上がり、後部へ駆けつけた。カヌーを指差し、声を荒らげる。「見ろ! 俺たちを追ってやがる!」

 カヌーの速度が上がり、距離が縮まってくると、二人組の白人がリボルバーを握り締めているのが確認できた。

 船上に一瞬で危機感が充満した。

 カヌーの白人が拳銃を構えた。アマゾンに乾いた発砲音が炸裂し、こだました。音に驚いた鳥の群れがバサバサと激しい羽音を立てながら一斉に飛び立った。樹林の中でサルが甲高い吠え声を発している。

 心臓が縮み上がり、三浦はとっさに身を伏せた。

 ロドリゲスがデニスにがなり立てた。

「てめえのいた種だろ。何とかしろ!」

 頭上でオオハシやオウギワシが翼を広げ、樹冠の向こう側へ飛び去っていく。

 続けざまに二発の発砲音──。

 船体にヒットしたのが音で分かった。

 デニスが舌打ちしながら駆けつけ、しゃがみ込んで背中のライフルを手に取った。

「クソ老人の私兵か……」

 デニスがライフルに弾を装塡した。目の前で行われている非現実的な光景──。

 何もかもがあまりに突然で、心構えもできていなかった。心臓はばくばくと高鳴り続けている。

 デニスがライフルを構え、顔を出して発砲した。真横で鼓膜を破りそうな轟音がはじけ、三浦は思わず耳を押さえた。

 反撃の銃撃が二発、三発と返ってきた。

 ジュリアはハンモックから転げ落ちるようにして、床に伏せている。頭を抱えながら誰にともなく叫んだ。

「何なのこれ! 何でこんな──」

 デニスが銃撃しながら怒鳴った。

「うるせえ! 黙って伏せてろ!」

 白髭の船長が操舵室から姿を現した。

「おい、一体何が起こってんだ!」

 ロドリゲスが拳銃を取り出しながら向き直り、唾を撒き散らして怒鳴った。

「全速前進だ! 銃撃を受けてる! 早くしろ!」

 白髭の船長は後方のカヌーを見ると、「畜生め!」と吐き捨て、操舵室に引っ込んだ。

 突如、船体の底から低いエンジンのうなり声が振動を伴って響いてきた。漁船が重々しく加速しはじめる。断続的な銃撃戦は依然として続いている。

 ロドリゲスが拳銃で応戦した。

 三浦は恐る恐る顔を覗かせた。カヌーの二人組は頭を下げながら銃撃している。

「逆恨みしやがって!」

 デニスが毒づいた。

「あなたの浅慮が招いた事態ですよ」クリフォードが身を伏せながら言った。「初日からチームを危機に陥れました」

「今さら言っても仕方ねえだろ。仲間割れしてる場合か!」

 デニスが怒鳴り返し、ライフルで敵を狙って発砲した。苔色の川面が弾け、微細なしぶきが上がる。

 ロドリゲスが「トラブルメーカーめ!」と吐き捨てた。手だけを突き出して銃撃している。

 違う──。

 三浦は下唇をみ締めた。

 三人とも誤解している。連中は絶滅危惧種の蘭を欲した老人の私兵ではない。

 エンジン付きカヌーで襲ってきているのは、個室トイレで〝手帳〟を奪おうとした二人組の白人だった。

 そうだとしたら、二人の狙いは──。

 ロドリゲスが操舵室に叫んだ。

「もっと速度を上げろ! 追いつかれるぞ!」

 老人が無理して全力疾走した直後のように、漁船のエンジンが咳き込んだ。

 速度は──上がらなかった。

 ロドリゲスが顔を顰め、応射した。

 向こうの銃撃は何発も漁船にヒットしている。きっと古びた船体にはいくつも小さな穴が穿うがたれているだろう。

「クソッ、エンジンが──」

 白髭の船長が操舵室から駆け出てきた。右舷から身を乗り出し、船体の確認をした、そのときだった。彼のこめかみが弾け、血の花が咲いた。

 三浦は目を剝いた。

 白髭の船長の体が一瞬で弛緩し、滑り落ちるように転落した。川面に大きな水柱が上がる。

「やべえぞ!」ロドリゲスが叫び立てた。「船長が落ちた! 殺された!」

 デニスが叫び返した。

「操縦はどうする!」

「俺が知るか! 先に追っ手を殺せ!」

 三浦は振り返り、前方を見た。漁船は喉を絞められた大型動物の咆哮のようなエンジン音を立てながら、暴走していた。巨木の群れが壁を作る対岸が迫ってきている。

 まずい──。

 三浦は危機感に突き動かされ、操舵室に駆け込んだ。直後に背後で硬質な着弾音が聞こえた。思わず首をすくめ、遅れて背中に激痛が走るのではないかと身構えた。

 だが、幸い撃たれてはいなかった。

 安堵の息を吐くゆとりもなく、木製の操舵輪に飛びついた。左に回転させようと力を込める。錆びついているかのように重く、充分に回らない。

 対岸が眼前に広がった。樹木の凶悪な枝々が無数の槍のように伸びている。

 回避してくれ──!

 三浦は念じながら渾身の力を込めて操舵輪を回した。漁船がわずかに航路を曲げた。

 だが──。

 距離が足りなかった。漁船は勢いのまま対岸に激突した。衝撃で操舵輪に体が叩きつけられ、弾かれて尻餅をついた。顔を上げると、葉が茂った枝々が操舵室に突き刺さっていた。船体から黒煙が立ち昇っている。

「何してんだ!」

 操舵室の外からロドリゲスの怒声が聞こえた。

「すみません、間に合いませんでした!」

 三浦は大声で言い返した。

 気がつくと、銃声はやんでいた。周囲一帯からサルや鳥の鳴き声が降ってくるだけだ。

 終わった──のか?

 三浦は警戒しつつ操舵室から顔を出した。ロドリゲスとデニスは拳銃とライフルを構えたまま、アマゾン川の遠方を睨みつけている。クリフォードの隣にはジュリアが立っていた。表情に怯えが色濃く刻まれている。

「どうなりました?」

 訊くと、ロドリゲスが振り返って答えた。

「追っ払ってやったぜ」

「ええ」クリフォードが後を引き取った。「予想外の反撃だったんでしょう。一人が負傷したとたん、カヌーを方向転換させて逃げ去りました」

 デニスはライフルを背中に担ぎ直すと、アマゾン川に中指を突き立てて、興奮冷めやらぬ口調で叫んだ。

「ジジイによろしくな!」

 クリフォードが呆れ顔でかぶりを振り、露骨なため息をついた。苛立ちを嚙み締めている。

「この惨状は──あなたが招いたんですよ」

 三浦は改めて船内を見回した。対岸に激突した船首のほうは黒煙に覆われている。トランプが床に散らばり、グラスや皿が落ちている。一帯にはガラス片や木片──。

 デニスがクリフォードを睨み返した。

「品を受け取っておきながら、報酬を出し渋ったジジイが悪い。私兵まで送りやがって」

 ロドリゲスが鼻を鳴らした。

「どうせ、てめえがごねたんだろ」

 デニスの視線がロドリゲスに滑る。

「正当な報酬を要求して何が悪い? こちとら、一週間も森ん中を歩き回ったんだ」

 クリフォードが漁船の惨状を睨みながら言った。

「また歩き回るはめになりそうですね」

「皮肉はよせ」

「事実です」

 三浦はアマゾンの大密林を眺めた。濃緑を茂らせた巨木が重なり合うように密集し、空でも飛ばないと越えられない巨大な緑の壁を形成している。

 デニスは舌打ちすると、操舵室に足を踏み入れた。操舵輪や機器類を一瞥し、エンジンを動かそうと試みた。だが、漁船は相変わらず病人の空咳を繰り返しただけだった。

「役立たずめ!」

 デニスは操舵輪にてつついを叩き落とした。

 クリフォードが彼の背後で肩をすくめた。

 その瞬間だった。心臓を震わせるうなり声が耳をつんざき、操舵室の前方から大きな獣の顔面が突き出てきた。黒い鼻面に白髭。黄褐色の肌に黒の斑紋──。

 だ!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る