第2回ー2
彼女は表情を引き締めた。
「私はジュリア・リベイロ。環境問題を勉強してるリオの大学生なの。アマゾンの動植物の危機を実地で学びたくてマナウスまで来たのはいいけど、立ち往生しちゃって……。一人で森の奥地に入るのは危険でしょう?」
「学生か。志は立派だけど、私たちは慈善活動のために来たんじゃないんだよ」
「知ってる。特別な百合を探すためでしょ」
クリフォードの眉がピクッと反応した。
ジュリアはほほ笑みを浮かべた。
「あなたたちがどんな目的で森に来ていても、別に堅いことは言わないからさ、同行させてよ」
「学生のお遊びには付き合えないな。現地で案内人を雇えばいい。アマゾンを熟知した人間はいるだろう?」
ジュリアは肩をすくめた。
「お金があれば、ね。貧乏な大学生だからマナウスに来るだけで有り金、全部なくしちゃった。だから、あそこの酒場でバイトしてたの。宿に泊まるお金もないから」
「それは君にはまだ早かったという話じゃないかな。君はまだ若い。準備して、人を集めて、出直したほうがいいよ。アマゾンは逃げやしない」
「……アマゾンの環境破壊が一ヵ月でどれほど進むと思う? 自然を破壊するのが人間なら、守るのも人間にしかできないの。椅子に座って勉強してるだけじゃ、アマゾンの生態系は守れない。だから私は森に入りたいの」
クリフォードがうんざりしたように言う。
「森に入って何をする?」
「何を──って?」
「質問を変えよう。森に入って君は何ができる?」
「それは──」
ジュリアが言葉に詰まった。
「学生の剝き出しの情熱は素晴らしいけど、現実的な視点を持てない人間の暴走は何の成果も上げないよ。自然のために何か立派な活動をしている、という自己満足の達成感が欲しくて、感情で行動しているように感じるね。世の中を多面的に観察して、世界のあらゆる事柄が自分の思うほど単純ではない、と気づくところからはじめたほうがいいと思う」
ジュリアの眉間の皺が深まった。
「……でも、何事も理想からはじまるものでしょ。一人の理想から世の中が動くこともある」
「かもしれないね。だけど、それに手を貸すのは私たちの役目じゃない。志を同じくする者と行動してくれ」
「私はアマゾンの森に入りたいだけなの。同行するくらい、いいでしょう?」
「他を当たってくれ」
ジュリアは表情を消した。
「そう……。なら、あなたたちが森を荒らそうとしてるってそういう機関に通報したら、どうなると思う?」
クリフォードの顔が一瞬で強張った。
「私たちの妨害をする気なら──」
ジュリアはクリフォードの怒気を受け流し、ロドリゲスに目を移した。
「女にはできることもあるのよ? 同行させて損はないんじゃない?」
ジュリアがシャツに包まれた胸を誇示するように突き出した。ロドリゲスの視線が下がる。
ロドリゲスが下卑たにやつき顔で言った。
「いいじゃねえか、ボス。船に一人増えるくらい、大した問題でもねえだろ。味気ねえ旅が華やぐってもんだ」
「森の危険は承知でしょう? 我々は森の中も歩くんです。体力が必要なんですよ」
ロドリゲスの顔が三浦に向けられた。
「森に不慣れな学者とどっちが体力あるんだ?」
「目的のために必要な専門家と、不必要な学生は同じではありません」
「能力があっても足を引っ張りそうなイギリス野郎もいる。女の一人や二人、構わねえだろ」
ジュリアが
「ね、足は引っ張らないからさ」
クリフォードが彼女の目をじっと見返した。その瞳から覚悟のほどを読み取ろうとするかのように──。
「……勝手にすればいい」
ジュリアは表情を和らげた。
「ありがとう」
「君の命の責任までは持てないからね」
「分かってる。自分の面倒は自分で見るから」
彼女は漁船へ向かった。
ジュリアが白髭の船長に挨拶していると、ロドリゲスがクリフォードに
「足手まといになったら、森の中に置いてきゃいい」
たしなめるかと思ったが、クリフォードは無言でジュリアの背を
しばらく不穏な沈黙が立ち込めた。クリフォードは内心で何を考えているのだろう。
「……では、荷物を積んでしまいましょう」
クリフォードは切り替えるようにボストンバッグを取り上げると、漁船に積み込みはじめた。
ロドリゲスはリュックサックを担ぎ上げた。
三浦は
船内には麻袋や革袋が散乱していた。川の流れで静かに上下する船上で空き瓶が前後に転がっている。片隅には、とぐろを巻いた蛇のようなザイルの束があった。
クリフォードは荷物を積み終えると、桟橋に降りた。周辺を見回す。
「それにしても遅いですね、彼は」
デニス・エバンズ──。
植物ハンターのイギリス人は、絶滅危惧種の蘭を金持ちの老人に届けて報酬を受け取る、と言って立ち去ったまま、約束の時間から十五分遅れている。
クリフォードは渋面のままだった。
クリフォードは苛立たしげに腕時計を見ると、漁船に目をやり、また桟橋の向こう側を睨みつけた。靴の爪先をせわしなく上下させている。
船上からロドリゲスが声を上げた。
「おい! 早く出発しねえと、日が暮れちまうぜ!」
クリフォードは彼に背を向けたまま、大きく息をついた。
「和を乱す奴は置いてきゃいい。俺がイギリス野郎の分も働いてやる」
だからデニスの分の取り分も俺によこせ──。そんな欲望が聞こえるようだった。
クリフォードは無言で首を回し、骨を鳴らした。視線は相変わらず桟橋の先へ据えられている。
彼の苛立ちがピークに達しそうになったとき、足早に駆けてくるデニスの姿が目に入った。
デニスは桟橋を蹴立てるように駆けつけると、クリフォードの前でボストンバッグを足元に下ろし、肩を上下させた。
「あれ──か?」
クリフォードは嘆息した。
「また遅刻ですよ」
デニスの額は汗まみれで、目は若干血走っていた。
「さっさと出発しようぜ」
デニスがボストンバッグを担ぎ上げた。クリフォードの横を通り抜け、漁船へ向かう。
クリフォードが顔を顰めた。
「遅刻したあげく、その言い草ですか?」
デニスの背に声をかけた。
デニスは漁船に片脚を乗せた状態で振り返った。クリフォードと睨み合う。
「……どうしました?」
「ジジイが報酬を出し渋ったから──」デニスは背負ったライフルを人差し指でコツコツと叩いた。「こいつで脅してやったら私兵を呼びやがった」
クリフォードの顔が一瞬で険しくなる。
「……ここでトラブルを起こしたんですか?」
怒気混じりの声にもデニスは動じなかった。
「先に発砲されたから撃ち返した。一人を倒したらうじゃうじゃ涌いてきたから、逃げてきた。畜生め。タダ働きだ、クソッタレ!」
「あなたは自分が何をしたか分かっているんですか? 追われる身になったんですよ、我々が」
「だからさっさと出発すんじゃねえか。連中に見つかる前にマナウスを離れれば、何も起きねえ。アマゾンの大密林までは追ってこられないんだからな」
「拠点を失ったんですよ。もうマナウスに戻ることはできなくなったんです」
「〝奇跡の百合〟さえ手に入れたら、アマゾン川を進んでそのまま都市部へ帰ればいい。別にマナウスに寄り道する必要なんかねえだろ」
クリフォードは呆れ顔でかぶりを振った。
「ほら」デニスが手のひらを上にして手招きした。「さっさと乗れよ。追っ手に見つかる前に出発だ」
クリフォードが漁船に乗り込むと、デニスが操縦席に向かって声を張り上げた。
「さあ、出してくれ!」
白髭の船長が酒瓶片手に顔を出した。なめし革のような顔が先ほどより赤らんでいる。
「何だよ、最後の乗員が来たのか?」
「ほら、早く出してくれ!」
デニスが
しばらくしてエンジン音が響き、船体が軽く振動した。エンジンはときおり病人が咳き込んだようにうなる。故障しているのかといぶかしんだが、やがて漁船はゆっくりと進みはじめた。桟橋から離れていく。
デニスは安堵の表情を浮かべていた。離れていくマナウスを眺め、額に滲み出た汗を袖口で拭う。
そのとき、ジュリアが姿を見せた。
靴音で振り返ったデニスが彼女を見やり、眉を反応させた。ジュリアの肢体をしげしげと見つめる。
「料理係かな?」
茶化したというより、予想していなかった同行者に皮肉を言ったようだった。
ジュリアは挑発的に唇をうっすらと緩めただけで、自己紹介はしなかった。
三浦は彼女の代わりに紹介した。
「環境保護活動に関心があるリオの大学生で、ジュリア・リベイロです。彼女の頼みで同行することになりました」
英語で会話したので、ジュリアに内容は理解できなかっただろう。彼女は黙ったままデニスを見つめ返している。
三浦はジュリアにポルトガル語で話しかけた。
「彼はデニス・エバンズ。イギリス人の植物ハンターです」
「ふーん」
ジュリアはデニスの全身に視線を這わせた。
彼が絶滅危惧種を採取して商品にしていると知ったら、激怒するかもしれない。余計な火種を作らないよう、紹介は必要最低限にしておいた。
デニスが彼女に歩み寄り、手を差し伸べた。
「よろしくな」
ジュリアはその手に視線を落とし、間を置いてから握手した。デニスが満足げに微笑する。
握手を終えてからデニスが振り返り、クリフォードに英語で言った。
「足手まといがまた増えたな。お勉強ばかりの学者センセイに、偽善が大好きな学生か」
ジュリアが後ろから言った。
「集合時刻を守る程度には足を引っ張らないから、安心して」
英語だった。
デニスが驚いた顔で向き直った。
ジュリアは微笑を返した。
「私も少しくらいなら英語が話せるのよ」
「……一本取られたな」デニスが表情を和らげた。「まあ、道中、仲良くしようじゃねえか」
ジュリアは肩をすくめた。
右舷で木箱に腰掛けているロドリゲスは、ふんぞり返って煙草を吸いながら彼女の
旅ははじまったばかりだった。
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