第2回ー1


 2


 拳銃──。

 うらは目をき、防衛本能に突き動かされ、ほとんど反射的に木製ドアを叩き閉めた。簡易錠をかけた瞬間、けたたましい殴打の音が響き渡った。

「開けろ! 手帳を渡せ!」

 手帳──?

 なぜ手帳を欲しがるのか。

 金を持っていそうな日本人をターゲットにした拳銃強盗ではないのか?

「死にたくないなら開けろ!」

 金目当ての強盗ではない。

 ドアを蹴りつけた衝撃が伝わってくる。

 考えている時間はなかった。

 何とかしなくては──。

 焦る頭をフル回転させた。手帳が目当てなら、なおさら渡すわけにはいかない。

 個室内を見回したとき、足元の穴が目に入った。黒ずんだネグロ川が流れている。

 クルーズ船で見た光景が脳裏をよぎる。現地の貧しい人々に船上から荷物を落としている光景──。

 ここなら──。

 三浦はベルトに結びつけていたニンジン入りのビニール袋を外し、中身を川に捨てた。懐から手帳を取り出すと、ビニール袋に収めた。空気で膨らませ、口を縛った。水が入らないようにする。

 手帳入りのビニール袋を川に落とすと同時に、ドアが蹴り開けられた。

 二人組のうちの片方がきよを個室にじ込み、拳銃を三浦のこめかみににじりつけた。

「無駄な抵抗をするんじゃねえ。死にてえのか」

 三浦は震える両腕を上げた。

「やめてくれ……」

「手帳はどこだ」

 三浦は小さくかぶりを振った。

「何の話だか──」

「手帳を見ていたのは知っている。それを出せ」

「持ってない」

 こめかみへの銃口の圧が強まった。皮膚がねじれる。

「とぼけるな」

 男が左手で三浦の身体検査を行った。薄手のジャケットの胸ポケットや内ポケット、ズボンのポケットに手を突っ込み、全身を服の上からはたく。

 男の表情が次第に険しくなっていく。

「手帳はどうした?」

「知りません。どこかで落としたのか──」

 男が舌打ちした。

「命を安売りしたいようだな」

 三浦は首を横に振った。

 再び男の左手が全身をまさぐる。だが、当然、手帳は見つからない。

 男は振り返り、もう一人に言った。

「持ってない」

 男は向き直ると、個室の中を見回した。川がのぞける穴の周辺に目を這わせる。

 三浦は緊張したまま突っ立っていた。

 便器の穴から川に投げ捨てたとは想像もしないだろう。ズボンにぶら下げていたビニール袋入りのニンジンが消えていることに気づかれないように祈る。

 顕微鏡を覗くように無表情で冷たい眼光が全身をチェックしていく。ベルトの付近で視線が止まった。

 心臓がますます激しく騒ぎはじめた。鼓動が聞き取られないことを願う。

「──何してんですか」

 突然、個室の外から若い声がした。ポルトガル語だ。

 襲撃者の肩ごしに見ると、上半身裸のブラジル人青年が立っていた。浅黒い肌にチェーンのネックレスが銀色に輝いている。迷惑そうに顔をしかめていた。二人組の後ろからは、彼らの拳銃が目に入らないのだろう。

 三浦は助けを求めるかどうかちゆうちよした。声を上げたとたん、二人組が捨て鉢になるかもしれない。

 だが──。

 二人組は青年の死角で拳銃をそっと隠し、ズボンのベルトに突っ込んだ。

 忌々しそうに舌打ちし、背を向けた。

「クソッ。ずらかるぞ」

 二人組は、あっという間に走り去った。

 腰砕けになりそうになり、三浦は両脚で踏ん張った。緊張を抜くために大きく息を吐く。

 額ににじみ出ていた脂汗を手の甲で拭った。

 ブラジル人青年はさん臭そうな顔つきをしていた。

 三浦は軽く黙礼し、青年の真横を通り抜けた。足早に個室トイレの前から離れる。

 見回すも、先ほどの二人組の姿はなかった。酒場はトイレでの襲撃がうそだったかのように平和そのものだ。

 連中の狙いは、

奇跡の百合ミラクルリリー〟絡みだったのか、それとも──。

 三浦は酒場へ駆け戻り、そのまま桟橋へ向かった。背後から「ドクター・ミウラ?」と当惑混じりの声が聞こえてきた。クリフォードの呼びかけを無視して桟橋へ降りる。

「そこまでカヌーを貸してください!」三浦は川の向こうを指差しながら船頭の中年男に声をかけた。「手荷物を川に落としてしまって──」

「そいつはツイてなかったな」

「お金は払います」

 三浦は船頭の中年男に紙幣を握らせ、カヌーに同乗させてもらった。ソリモインス川と違い、ネグロ川は流れが時速三キロ程度と遅い。ビニール袋はそれほど遠くへは流れていないだろう。

 船頭に頼み、カヌーを個室トイレの下流へ進めてもらった。注意深く見回すと、五十メートルほど先に膨らんだ袋が浮かんでいた。

「すみません」三浦は声を上げた。「あれです! あれに近づいてください」

「おうよ!」

 カヌーがビニール袋へ近づいていく。

 三浦はカヌーから身を乗り出すと、手を伸ばし、ビニール袋を取り上げた。

 手帳を取り出し、中を確認してみる。濡れていない。

 三浦は安堵の息を吐き、手帳を懐にしまった。船頭に「オブリガード」と礼を言い、桟橋へ戻ってもらう。

 桟橋に降り立つと、クリフォードが待ち構えていた。

「血相を変えてどうしたんです、ドクター・ミウラ」

「あ、いや──」三浦は財布を取り出した。「手が滑って財布を川に落としてしまって──」

 クリフォードは目を細めて財布を見つめた。疑念の眼差しなのかどうか、判然としない。だが、彼は追及はせず、「そろそろ我々の船を紹介しましょう」ときびすを返した。

 彼は桟橋の途中でロドリゲスに呼びかけた。ロドリゲスは『アンタルチカ』を飲み干し、立ち上がった。代金はクリフォードが支払い済みだったらしく、彼がそのまま店を出ても何も言われなかった。

「あちらです」

 クリフォードに先導され、右奥の桟橋へ移動した。係留されていたのは──おんぼろの漁船だった。暴風で吹き飛びそうなボロ小屋が船の上に載っかっているようなありさまだ。定員は十人以下だろう。

 屋根には、ボロ切れのようなブラジル国旗がはためいていた。船体には古びたタイヤがザイルで結びつけられている。

 漁船を眺めていると、操舵室から帽子を被った老齢の男が姿を見せた。日焼けというより、長年飲酒で酔い続けたような赤ら顔だ。もじゃもじゃの白ひげが顔の半分を埋め尽くしており、口は埋没している。

 クリフォードが白髭の男を指し示した。

「紹介します。彼が船長です」

「任せとけ!」白髭の船長が豪快な声で応えた。「金さえもらえりゃ、どんな場所だって行ってやるぜ!」

「頼りにしています」

 白髭の船長は腕を折り曲げ、力こぶをアピールするポーズで応えた。

 一癖ありそうな船長だった。

「ねえ、あなたたち」

 突然、背後から女の声でポルトガル語が聞こえた。

 振り返ると、ブラジル人の美女が立っていた。見覚えのある顔──。先ほどの酒場のウエイトレスだ。

 ロドリゲスが口笛を鳴らし、彼女の全身をめ回すように眺めた。獲物を見る蛇同様の眼差しだった。上質の絹糸さながらに流れ落ちる漆黒の髪、整った顔立ち、胸の形を浮き上がらせているぴったりした白のTシャツ、太ももの大部分を露出させているグレーのショートパンツ──。

 彼女は慣れているのか、ロドリゲスの露骨な視線をいちべつで軽く受け流した。クリフォードに向き直る。

「リーダーはあなた?」

 クリフォードが居丈高に「何だ?」と訊いた。

「さっき、話が聞こえたの」

 クリフォードが眉間にしわを刻んだ。目がスーッと細まる。

 彼女は笑顔を浮かべ、軽く両手を上げた。手のひらを見せ、無害をアピールする。

「警戒しないでよ。敵意はないわ。あなたたち、アマゾンに入るんでしょ?」

 クリフォードは返事をしなかった。

「私もアマゾンに入りたいの」

「……メンバーは間に合ってる。女に足を引っ張られたら困るんだよ。観光じゃないんでね」

「私にはあなたたちにない知識がある。森の人間に知り合いもいる。必要なときに役立つかも」

 クリフォードはいぶかしげな目を彼女に向けた。

「単なる酒場のウエイトレスがなぜアマゾンに?」

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