第3回ー2

 勇太は丸太の梯子に歩み寄ると、馬蹄形の切れ目に靴先を添えた。一度だけ振り返って父親を見つめ、観念したように息を吐く。向き直って指をかけ、足を持ち上げた。一段、一段、登る。

 四段目で爪先が切れ目から滑り、体勢を崩した。見えない手で背中を引っ張られたようにのけ反り、叫び声を上げた。身を捻り、腹から土に落ちる。

 高橋は駆けつけようとしたが、辛うじて踏みとどまった。

 勇太が倒れ臥したまま顔を上げ、『もうやめよう』という一言を期待する目で見てきた。高橋は感情を押し殺し、腕組みして息子を見返した。無言の間が続く。

 勇太は唇をみ、黙って身を起こした。半袖半ズボンから覗く肘や膝小僧の土を払い、再び丸太の梯子に足をかける。落ちた痛みを体で覚えたからか、慎重に一段一段登ってゆく。

 四メートル、五メートル──。息子の体が小さくなる。やがて十メートルの高さにたどり着くと、勇太がズボンの腰からファッカ・デ・セリンガを抜き、樹皮に添えた。

 高橋は汗に濡れた拳を握り、息子を見つめ続けた。心臓は早鐘を打ち、胃は締めつけられている。バランスを取りながら切り傷をつけるのは難しい。もし体勢が崩れたら──。

 勇太はさんざん躊躇してから、両腕を滑らせた。樹皮に白い横線が刻まれたのが見て取れた。蟻が這うような速度でラテックスが少しずつ流れ、やがてカップにしたたった。

「よくやった。気をつけて下りてこい!」

 勇太は慎重に、慎重に下りてきた。地面に立ったとたん、土の感触を靴底で確かめるようにして吐息を漏らす。

 高橋は息子と二人で半日かけてゴムの木に傷をつけていった。セリンゲイロは誰もが自分のエスツラーダを三つは持っており、毎日毎日、十五キロは歩いて百数十本のゴムの木に傷をつけて回る。

 真昼の陽光は、樹冠の隙間を見つけては金色の筋となり、密林の底に射し込んでいた。

 勇太は倒木に尻を落とし、太ももをんだ。白い半袖シャツは汗みずくで肌が透けている。

「疲れたよ。もう歩きたくない。釣りのほうが楽だよ」

「甘えるな。一人前になりたくないのか。後数本だろ」

 高橋は勇太の腕を取り、引っ張り上げるようにして立たせた。息子はすぐさま座り込んだ。

「喉渇いた。休みたい!」

 テコでも動かないという顔だ。

 枝で一休みしていた赤と黄と青に輝くコンゴウインコが羽ばたき、飛び去った。

 高橋は嘆息した。「待ってろ」と言い残し、草葉や枝をき分けて奥に向かった。そして見回した。深緑の森に色を添える赤色の果実が連なっている。張り出した無数の枝葉が寄生植物に絡みつかれ、重たげに頭を垂れている。

 五分ほど探し、人間の腕ほども太い蔓植物のアグラーを見つけた。マチェーテで切り落として戻る。

「さあ、飲め。水が出る」

 勇太はアグラーを受け取ると、上を向いて口の前に掲げた。コップ二杯分もの水が染み出した。喉を潤してから唇を拭う。

「よし」高橋は言った。「残りを済ませてしまおう」

 勇太は諦めの表情で立ち上がった。息子を叱咤しながら密林の奥へ奥へ進み、最後の一本まで終える。

 高橋は息子を見た。表情は密林の底と同じ暗さに沈んでいる。

「勇太、森の生活、好きか?」

「……うん、好きだよ」言葉と違い、顔は太陽を浴びたように輝いたりはしなかった。「仕事は好きじゃないけど」

「町に憧れたりしないのか?」

 二度ほど勇太を連れて町へ行ったことがある。自転車、車、映画、雑誌──。そこらじゅうに娯楽があふれていた。森の集落とは違い、レストランでは注文するだけで欲しい料理がテーブルに並ぶ。

 勇太は顔を上げ、質問の真意を探るように間を置いた。

「うーん、町は楽しかったけど、何だか怖かった。みんな、相手をにらみつけてるみたいだったから」

 確かに町では、他人の金品を狙うような目の者が徘徊し、誰もが強盗を恐れてさいと警戒の眼差しで歩いていた。だが、それでも勇太は森の外の世界を楽しんでいた。

 息子に気を遣わせてしまったことが情けなかった。

 集落に戻ると、ジョアキンと顔を合わせた。墨色の癖毛が渦巻いて額と耳を覆い隠している。力強い目の下には、五十路を目前に控えた男相応の皺が目立ちはじめている。背中と腰には、猟銃とファッカ・デ・セリンガを携えていた。

 ジョアキンは右手の中指でこめかみを搔いた。彼には人差し指がない。十三年前、森を開拓しようとする伐採作業員に立ち向かい、相手が振り回すチェーンソーで切り落としてしまったのだ。

「ユウタはどうだった?」ジョアキンがポルトガル語でいた。

 高橋は息子をいちべつすると、首を振った。

「うまく切れたのは三十四本だけだったよ」

「上等、上等」ジョアキンは破顔した。「俺なんか、木と心を通わせるまでに半年はかかったもんさ」

「ゴムの採取は技術だと思ってるよ、俺は」

「いやいや。採取は心だ。切り手が代わればゴムの木も戸惑う。見知らぬ人間には、樹液を流してくれないもんさ」ジョアキンは高橋の肩を叩いた。「まあ、気長に見守ってやれ」

 高橋は肩をすくめた。長いブラジル生活で身についた仕草だ。

 ジョアキンが勇太の頭をでた。

「落ち込むな。森に出るだけでも勇敢だ」

「ありがと」勇太は彼を見上げた。「ジョアキンのお父さん、アナコンダと勇敢に戦って命を落としたんでしょ?」

「誰から聞いた?」

「友達が言ってた」

「……そうか」

 彼の父はジョアキンを助けるため、アナコンダと死闘を演じて命を落とした──ことになっている。実際はゴムの採取中に二十メートルの梯子から転落死したのだ。大人はみんな知っている。だが、滑稽だと笑う者はいない。セリンゲイロなら誰にでも起こりえる事故だし、うその死因を吹聴したのが当時八歳のジョアキンだったからだ。目の前で父を失った子供の悲しい噓に誰もが同情した。

「それより、ユウジロウ」ジョアキンはズボンのポケットから便箋を取り出した。「昨日受け取った。また読んでくれ」

 高橋は文盲の親友に代わってポルトガル語の手紙を音読した。相変わらず文法が少し乱れている。

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